溢れていく想いは声の表面張力を超えて | きゅっきゅ8のえんがわで

きゅっきゅ8のえんがわで

人生は演劇だ。社会劇場、世間の目を観客に、何者かを演じて生きる。無限大の可能性を信じて、制服に征服されぬよう、着たい服をまとい息をする。こころの店、きゅっきゅ8(きゅっきゅや)のえんがわで、うたたねしながら感じる音や光。
ゆき過ぎる日常をたねに、うたう。

物心ついた頃から喜怒哀楽を言葉や態度に出すのが、どうしても苦手で、それがなぜかを考えた時、そもそも自分の表現方法が周りと違うからということに行き着いた。


「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「悔しい」…声にした途端に自分の感情が嘘になる気がしてならず、そして人と話すのも上手くできず、一日に何語喋るの?と言われていた時代もある。


小学校だか中学校だかの運動会の映像を見ると、周りに合わせてぎこちなく飛び跳ね手を叩き、綱引きの勝利の喜びを表そうとしている姿があった。違ったのである。私の喜びの表現は、飛び跳ねることでも手を叩くことでもなかったのである。


何をするにも、周りよりテンポもスピードも遅かったので、とにかくものすごく頑張って合わせることで、なんとか輪から外れないように振る舞っていた。いや、むしろ、輪に入れていたのかすら、今となっては分からない。


10年くらい前までは褒められるのもとにかく苦手で、嬉しいんだけど「そんなことないよ」という、否定を相手に返していた。でも、自分が褒める立場の時に返ってくる「ありがとう、嬉しい」という一転の曇りもない言葉に憧れも大きかった。それから長い年月を経て、「ありがとう」を積極的に返すよう努めることができるようになった。自分の中の表現的には、感情は本当だけど言葉を発して表現するという面から見ると嘘、という、まだまだあべこべな感じなのだが。


そして、いまだに強い「声」に対してのコンプレックスを克服すべく、色々なチャレンジをしている。


人生の3/4、合唱をやっているくらいなので、声を出すこと自体は好きなのかもしれない。他の人の声とハーモニーを奏でて一つの曲が創られるということが嬉しくて楽しくて。ただ、自分の声には全く自信がなくて…という状態。


そして、一昨年から昨年にかけて受けた演劇のワークショップで、セリフ有りの役を演じることになり、今の声では迷惑かけてしまうなと思い、講師の方にアドバイスを頂いて(ものすごく的確で丁寧なもので、大変感謝している)、短期間だったけれど、それまでで一番くらいに練習した。


その翌月からWEBラジオを始める。


舞台で発する時とはまた違うけれど、自分の声を知ることが必要だと思い、不定期で続けている。

あとは、人と話すことに慣れるべく、色々なイベントへ出かけていって、自分から話しかけるようにするなど。人への興味は限りないので、聞きたいこと、知りたいことは、どこまでも溢れてくる。ただ、それをどう言葉にするか、話しかけるタイミングは?どんな声の高さで?強さで?など、第一声を発するまでの思考が、時間が果てしない。結局話しかけられなかったり、感謝や謝罪の気持ちを伝えられなかったりも多い。

そして、心動くポイントやタイミングが多くの人と異なるみたいだということがどうしても気になって、舞台を観る時、指定席でない&奥から詰めて〜等の誘導が無い限りは、極力一番後ろの上下どちらかの端っこか、1番後ろの真ん中を選ぶ。
そして、劇場ではない場所で特に見切れなどある場合は、あえて柱などかぶる場所を選ぶこともある。見えない動きを音や空気で感じたいと思って。それが、自分の声を出す時の何かは良く分からないけれどヒントになる気がして。それが、9割以上の場面において一人で観劇やライブ、イベントに行く理由の1つになっている。別に誰か行くのが嫌なわけでは無いし、誘われるのは飛び上がるくらい嬉しい。自分から誘うことは滅多にないけれども。

またね、今日もまとまらないのだけれど、この辺で。