今日一日、あふれるほど時間がある
昔のことを忘れないうちにちょこちょこ書く
そもそも私の父は、鳶の棟梁の次男坊で
戦争に突入し、中学もそこそこに郵便配達としてなぜか東京の空襲をくぐり抜け
戦後そのまま地元の局員になった人
職人一家唯一のサラリーマン
上棟式で酒を飲み
チンチロリンにオイチョカブ
冠婚葬祭は見事に木遣りを歌い上げる一家において
給料日にバーへ行き
職場の仲間と徹マンし
休みはコートでシネマに行く父は
ねぇ
「読み書きソロバンができりゃあ一人前、ましてや女が上のガッコに行くなんざ」
という、本家の跡取り一家の長男は中卒で鳶に、長女は和裁教室に
んで我が家、四人姉妹
父は女にガッコなんざの本家の攻撃をのらりくらりとかわし
「女子高だけ、落ちたら手に職つけなさい」
そんな父も娘たちと机を並べ
「おまえたちの結婚式にはちょいと肩書き増やそうかね」と
郵政大学とかいうのを受験し
長姉が「お父さんがビブンセキブンやってる」
それが1960年代後半か
私はまだ父の膝の上しか知らない
次女も無事に女子高入学してまもなく、誰の結婚式にハクをつけることもなく
単身赴任先で過労死するとは
労働組合運動激化のうちに
ちょうどいい若手中間管理職
1973年の秋でした
その後三女も言いつけ通り女子高に
年の離れた四女は
「この子だけお父さんがいなかったから女子高に入れなかったって言われたくない」
という母親の一言に傷つくワケです
そして姉妹で一番成績がよかったにも関わらず
地元で一番の女子高に行きたくないと
受験勉強もせず
東京へ行って新聞奨学生になりますなどと
ワケのわからんことを言っては母親を泣かせた
その後担任にバシーーーーンとやられ
今では
「娘は全員女子高なんがワタシの自慢」
と嬉しそうに言う母親を見てホッとしてます
そして先日、県内でもトップクラスで高専に行った本家の次男坊が
「親父が俺も中卒で職人にしようとした時、おじさんが一人親父を説得してくれた。感謝してもしきれない。」
と言うのを聞いた
頭が良くて、学校の先生とかが説得したんだと思ってた
頑固な棟梁を説き伏せたのは、うちの父だった
そうか、だから普通の進学校じゃなくて高専だったんだ
その従兄も定年退職
まぁ、ほとんどが聞いた話
真偽入り乱れてるんだろうけど
私が覚えてるのは、単身赴任先から帰ってきて一緒に入ったお風呂
「たい子、お父さんに歌を教えてくれ」
「いいよ!」
あーわいはつこいきえたひはー
あーめがしとしとふぅっていたー
父は何度も
「せんせっ!」と言う
私は何度も
「ちがうよー、せんせーぃ、って、やさしく言うんだよー」と言う
うちの風呂はとても広くて、母も入ってきた
外はまだ明るく、姉たちはいなかった
3人で何度も先生を歌った
あとは赴任先へ帰る前に散歩に行ってつないだもっちもちの大きな手
土手の上で私だけに言った一言
「帰りたくないな」
「なんで?」
「変な会議がいっぱいあるんだ」
父は変な会議の終了後、席を立ってそのまま倒れた
まぁ、でも8歳の記憶
その後自分の都合や感情でいろいろ足し引きされてるんだろうけど
ちょっと、自分のために書いておく