子供にとって親の存在を「うざい」と感じるときがあるのは止むを得ないと思います。それは子供が自己主張し出した証だからです。子供が成長している証だからだと思います。いつまでも親の言うことに素直に従っていたらそれこそおかしいと言えます。


私に子供はいません。しかし、私の兄に4人の子供がいます。その子供(私にとっては甥と姪)は親の言うことを聞かずに成長しました。当然、ある時期までは親の言うことを聞いていたと思うのですが、いつごろからだったのか、親の言うことをほとんど聞かずに大人になってしまいました。


体は人並みに立派に育っているのですが、親の期待に応える中身を備えていません。兄からはいつもぼやきの声を聞かされます。苦労して育てた親にとってそれはどんなに情けないことかと同情を禁じ得ません。


6月第3日曜日(今年は20日)は父の日でした。私は甥と姪にメールでそのことを伝えたのですが、それについて何の返事もありません。甥と姪にとっては叔父は私一人だけなのですが、その私に対してさえもまともな対応がないのです。


「孝行したい時に親はなし」と言います。兄が元気なうちに甥や姪にはその期待に応えてもらいたいと思うのですが、不安だけが先行します。

次の文章はどこかがおかしい。どこがおかしいか・・・?
 
その1.「今読んでいる本は『西遊記』を読んでいます。」
その2.「お母さんが怒ったのは、私と妹がケンカしました。」

正解は、

その1.「今読んでいる本は『西遊記』です。」
その2.「お母さんが怒ったのは、私と妹がケンカしたからです。」
  
               ( 引用 : 樋口裕一 著「『本を読む子』は必ず伸びる!」より )

   
作文や小論文の添削指導を長年行って来たという樋口裕一氏はその著書( 同上 )で次のように言っています。 


 小学生から大学生までの「書く」「読む」ことの現場を見ていると、大変な危機感を覚えます。長文が読みきれない子、主語・述語の関係が理解できていない子は多数派ですし、大学生でも中学生レベルの漢字が書けない、社会人でもことわざや慣用句を知らないという例は枚挙にいとまがありません。
  
 なぜ、ここまで日本人の国語力が低下したのか。理由はただひとつ。本を読まなくなったからです。  
  
本を読むことの重要性を痛感します。
「論語に学ぶ会」のHPに次の指摘がありました。
  
人類の英知が蓄えられるようになったのは、文字の発明によってでありますし、時代を超え地域を超えて英知が伝達されるようになったのも、文字情報として蓄積されるようになったからです。人間が思考による擬似体験ができるのは、文字情報として蓄えられているものを読むからなんですね。サルと人間の決定的な違いは、文字情報を介して思考の擬似体験ができるか否か、ではないでしょうか。ですから、読書をするのが人間で、読書をしないのはサル及びサル化した人間なんですね。
      
     ( 論語に学ぶ会  http://rongo.jp/kaisetsu/rongo.php?169,1    
  
私たちは読書によって他人の経験したことを疑似体験することが出来ます。それは時間や空間を超えて疑似体験することが出来るということです。その場に行かなければ経験出来ないことでも読書によって疑似体験出来るということです。この読書の魅力に気付かずに人生を送ることはまったくもってもったいないことです。ここにも教育の果たす役割があるように思います。

私は子供のころはあまり本は読まなかったように思います。もっと読んでいたらと今つくづく思っています。

子供に本を読む喜びを教えるのは親の責務ではないでしょうか。学校においては国語の授業等を通じてそれを教えているでしょうが、まずは家庭において親がその見本を見せる必要があるかと思います。親がテレビばかり見ていて子供には本を読めと言うのでは子供に通じるはずがありません。

Q&Aサイトに「読書をしない人は読書をする人に比べて愚かなのでしょうか?」という質問がありました。


質 問

私は読書が嫌いです。
「読書は良い事だ、読書はするべきだ」と、その時々に出会った人達に言われ続け、正直相当まいっています。
読書はしたくないですが、しないと人に認められないのでしょうか?
  

回 答    

読書をするということは二つの大きな意味があると私は思っています。

ひとつは、本に含まれる豊かな情報を自分のものにすることです。

もうひとつはそのひとの言語能力を高めるということです。つまり、情報を吸収したり、考えたり、その考えを他人に伝えたり(思いを表現するということです)することが上手になるということです。

前記の情報吸収のための読書力を高めるということで、読むたびに本の内容を早く、より深く、完璧に近く吸収できるようになることで効率がより高くなるということでしょう。沢山読むほど更に読書が楽しくなり、更に沢山読むようになるという普通の現象はこれで説明できます。


言語能力というのは他人と一緒に暮らしたり働いたりしなくてはならない普通の人間にとっては非常に重要なことです。更に、これは多くの高度な知的な職業(人の上に立つ仕事)の基本的能力に関係していますので、これがが高いほど一般に仕事が出来る人間になるとも考えられます。


日本が世界の一流国として世界をリードしている国になっているのは、国民全員が字を読める、つまり読書が出来る、多数の国民が本が好きで活字に親しんでいるという他の国にとっては驚くべきことがひとつの原因なのだという説があります。すぐ自爆して町をめちゃくちゃにしたり、政治が混乱したり、内戦になったりということがない、非常に治安が良いということなどもこれらが関係しているというひともいます。

ただ、これから若いひとが本を読まなくなり、考えが浅はかになっていくと、日本の未来は暗くなるのではないか、そんな気もします。                                       

 おしえて!? ぱどクン http://qa.padonavi.net/qa5080351.html


読書がどうしても好きになれないという人にとっては深刻な問題なのではないかと思います。

本を読むことが好きになるにはどうしたらいいのでしょうか。

私は本を読むことは好きです。しかし、私の姪が読むのは漫画だけで、小説とかエッセイとかの本は読みません。


本を読むことは活字を自分で追い続けて行くことです。テレビを見るのと違って能動的な姿勢が必要になります。 毎日の出来事を知るに当たってもテレビでは簡単に即座に知ることができますが、新聞ではそうはいきません。 必要な情報を自分で探し求めていかなければなりません。そこには知るということについて能動的な姿勢が求められます。活字を読むことが苦手な人にとってはそれは苦痛以外の何ものでもないのではないのでしょうか。

登山の場合、途中の辛い思いの果てに頂上にたどり着いた時の喜びは何ものにも代えがたいものがあります。読書も同じことが言えないでしょうか。

登山と違って読書には読みながら面白さに引き寄せられて読み進めるということもありますが、この読み終えた後の喜びや読み進める面白さをいかにして理解させるかといくことが教育に求められているのではないのかと思います。

もっとも、読んで「つまらない」と思う本もあるのですが・・・


私はネットでいろいろなことを相談しているのですが、わかってもらえることの難しさを痛感しています。わかってもらえるうえでの一番の障害は如何にわかってもらえるように説明出来ているかということではないかと思います。

ブログ「社長のひとりごと 」にいい指摘がありました。つくづくわかってもらうことの難しさを痛感します。

よく「誤解が生じて口論やケンカになった」などと聞く事があります。よくある、「言った、言わない」ですね。自分はそういったつもりが相手はまったく別のことや反対に聞いてしまったという事です。

私もよく「言った言わない、聞いた聞かない」をやっています。それはやはり私が言いたい事をちゃんと話してないからなんです。主語がなかったり、あれ、それ、とか言ったり話を省略したり自分はわかっていても、相手はわからないことってたくさんあるんですね。

私が学んだことは、「自分が話したい伝えたい」が先行しすぎると、話しただけで、自己満足になりあまり相手に伝わらないようです。話すだけ話して本人は「スッキリした」なんて良くありませんか。私もよくあります。
 
そこで、人に伝えるには、伝わらなくてはいけないのです。ポイントは、相手が理解できるようにまず考えることです。
   

省エネ対策の現状についてネットのQ&Aサイトに投稿したところ、いい回答がありました。それは民間企業がいかに涙ぐましい努力をしているかということを物語っています。

(回答の一例)

省エネ対策に取組まないことを退職後も気になっておられるのですね!例を紹介しましょう。既に15年くらい前のことです。


電灯 


蛍光灯 二本の蛍光管は一本にする、笠に銀紙を貼り反射を良くする、全て紐スイッチで不要な電灯をこまめに消す、窓側は全て昼間消す、休み時間は消す、部屋は暗くても卓上灯を設置する、人の居ない倉庫等は最小限にして暗くする。


冷暖房


外気温との差で管理し、時間単位でスイッチオン・オフ、予算金額を使いきれば容赦なく電源ボックスをキーロック、熱い寒いは衣服で我慢我慢



トイレの流す水は最小限に設定、蛇口からは一定量しか出さない

部門単位で予実算管理徹底、削減目標管理、其れは其れは厳しい管理でした。現在は恒常的に定着しており、ムダ使いは今も厳禁である。

民間は利益が出なくなり、固定費をトコトン削減する必要がある。官も省エネに取組むがそこまで追い込まれないでしょう。



教えてgoo!

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5954584.html?order=asc



福沢諭吉の『学問のすゝめ』には「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」に続いて「かしこき人あり、おろかなる人あり」「賢人と愚人との別は,学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」とあります。また、ロシアの諺には「不幸者と愚者は隣り合わせに住んでいる」というのがあるそうです。
  
まさに人生は福沢諭吉の言うとおり、人間には生まれながらの貴賎はないけれども、「学ぶ」か「学ばない」かによって賢人と愚者に分かれると思います。努力もせずに己の不幸を嘆く者は、「学ぶ」ことを放棄していることを自ら証明しているようなものではないでしょうか。この「学ぶ」ということが如何に人生において大事な要素であるか、ということをつくづく実感します。


グローバルメディアオンライン株式会社代表取締役会長兼社長 の 熊谷 正寿 氏 は、「学ぶとはいかに自分が知らないという事に気づく事で、そういう意味では僕は経営をしていて、本当にいつまで経っても何にも知らないなと思っています。」 と言っています。「何にも知らないな」とはそれはないだろうと思いますが、その謙虚な姿勢は学びたいものです。
 
石川啄木は「働けど働けど我が暮らしなお楽にならざり」と言っていますが、「学ぶ」ことについ言うならば「学んでも学んでもなお・・・」ということなのではないかという気がします。
 
私などは年に一冊も満足に本を読んでいません。読みたい本は無数にあります。書店に行ってこれはと思って買った本もかなりの数ありますが、今それは本棚に埃をかぶって置いてあるだけです。何とかしなければと思いつつも現実はなかなか改まりません。

兄とトラブルになっているときに兄から「ノイーローゼで胃炎と腸閉塞の点滴注射でこの数日通院中」とか「心身ともに疲労困ぱい」とかいうメールが来ました。私は兄が私との関係で相当に参っていると思って「心療内科・神経科の診断」を提案しました。

しかし、兄とのトラブルがひとまず解決した後で兄が言った一言には驚きました。兄は「それは冗談だった」と言ったのです。

兄は何かあるとすぐ「冗談だ」と言ってはその場を取り繕うとします。自分の不手際を素直に認めようとしません。

果たして、人が心配するようなことを言って後で「それは冗談だった」が許されるものでしょうか。

桜の開花が宣言されてから数日肌寒い日が続きましたが、4月になってようやく春の暖かい日差しを浴びることができるようになりました。しかし今年は天候不順で曇りの日が多いです。


東京では桜は満開の時期を過ぎ、花びらが散る中での花見となっていますが、私と兄との関係は依然として冷え切ったままです。


そこで一句


「兄弟の 心通じず 桜散るらむ」