ミシェル・リード
裏表紙
サマンサは一年前の事故のせいで記憶をなくした。
自分の名前や住んでいた場所さえ思い出せず、
どうして事故に巻き込まれたのかも覚えていない。
事故を境に別の人生を歩み始めている気がする。
いまは職を得て、ホテルのフロント係として客の応対に当たる毎日だ。
「きみはぼくの妻だ」ある日、不意にそう言われ、
口にした男の顔を見たとたんサマンサは気を失った。
写真を見せられたが、記憶は戻らない。
だが彼がある名前を口にすると全身に震えが走り、
抱き寄せられ、キスをされると、はっきりとわかった。
この唇、このキス、この体はなじみがある……。
同時に、恐ろしい記憶がよみがえった。
サマンサは一年前の事故のせいで記憶をなくした。
自分の名前や住んでいた場所さえ思い出せず、
どうして事故に巻き込まれたのかも覚えていない。
事故を境に別の人生を歩み始めている気がする。
いまは職を得て、ホテルのフロント係として客の応対に当たる毎日だ。
「きみはぼくの妻だ」ある日、不意にそう言われ、
口にした男の顔を見たとたんサマンサは気を失った。
写真を見せられたが、記憶は戻らない。
だが彼がある名前を口にすると全身に震えが走り、
抱き寄せられ、キスをされると、はっきりとわかった。
この唇、このキス、この体はなじみがある……。
同時に、恐ろしい記憶がよみがえった。
抄録
彼はその言い分をばかにして退けた。
「彼のほうこそきみに親切にしてもらったんじゃないのか? きみも支配人も知らなかったとはいえ、
彼はきみを雇ったことで、ホテルの経営管理にかけてはトップクラスの経験者を手に入れたわけだ」
サマンサは驚いた。
サマンサは驚いた。
だが自分がホテルの日常業務にごく自然に溶け込んだのを思い返すと、さほど意外ではなかった。
以前もこの業界で働いていたことに、もっと早く思い当たって当然だったのに。
彼はもたれかかっていたドアからぐいと身を起こし、続けた。
彼はもたれかかっていたドアからぐいと身を起こし、続けた。
「それに今では、きみは次の食事にどうやってありつこうかと心配する必要はなくなった」
批判的な目でサマンサを見つめた。
「サマンサ、今きみが真っ先にするべきなのは見苦しくない服装を整えることだ。
きみはいつもぜいたくで、安っぽい服は着なかったよ」
「ほかにも何かあなたのおめがねにかなわない点があって?」ちくりと皮肉った。
「ああ」きらりと目が光った。「その髪型も気に入らないね。淑女ぶった高慢ちきな女に見える。
「ほかにも何かあなたのおめがねにかなわない点があって?」ちくりと皮肉った。
「ああ」きらりと目が光った。「その髪型も気に入らないね。淑女ぶった高慢ちきな女に見える。
実は魅惑的な妖婦だとぼくは知っているが、みんなに間違った印象を与えるのはいけない」
もったいぶって言うと、すっと背筋を伸ばした。「じゃあ行くよ。用事が済みしだい――」
「もう二度と食べる心配はしなくていいって言ったわね」
「もう二度と食べる心配はしなくていいって言ったわね」
サマンサは今やふつふつと怒りがわいて口をはさんだ。
「ということは、あなたに食べさせてもらうという意味?
それとも、どこかにわたしのお金が預けてあるのかしら?」
「きみには莫大な額の銀行預金がある」彼は大手の銀行の名前を告げた。
「それじゃ、自分のお金を引き出すにはどこかの支店へ行って身分を証明すればいいわけね?」
「きみには莫大な額の銀行預金がある」彼は大手の銀行の名前を告げた。
「それじゃ、自分のお金を引き出すにはどこかの支店へ行って身分を証明すればいいわけね?」
彼がうなずくと、サマンサはほほ笑んだ。
「ならば、よく見張っていたほうがいいわ、シニョール」やさしい声でいやみたっぷりに言った。
「だって、わたしがあなたの言うような妖婦なら、またあなたの前から姿をくらます決心をするかもよ。
そうしたら、こんなことは前にも経験済みだって思うのかしら?」
最後の痛烈な皮肉が二人の間にまだこだましているうちに、彼はサマンサの前に立ちはだかった。
最後の痛烈な皮肉が二人の間にまだこだましているうちに、彼はサマンサの前に立ちはだかった。
「やってみるがいい」彼は怒鳴った。「必要とあれば今度は地の果てまでも必ず追いかけていくぞ!」
サマンサは彼の瞳に燃える警告をものともせずに言った。
サマンサは彼の瞳に燃える警告をものともせずに言った。
「前のときはなぜそうしなかったの?」
「しなかったって証拠がどこにある?」アンドレも直ちに反撃した。
「わたしがいなくなって一カ月もしないうちに、あなたはこの国を出たのよ。それは大変なことだと思わない?」
「しなかったって証拠がどこにある?」アンドレも直ちに反撃した。
「わたしがいなくなって一カ月もしないうちに、あなたはこの国を出たのよ。それは大変なことだと思わない?」
「国内にはいなかった。そうとも」いきり立って言い返した。
「ぼくが国を出た理由は、きみが突き止めるべきもう一つの課題だ」指先をこめかみに突きつけた。
「きみの閉ざされた心はその答えを見つけなくてはならない」
サマンサの反応は彼だけでなくサマンサ本人にとってもショックだった。
サマンサの反応は彼だけでなくサマンサ本人にとってもショックだった。
とっさに飛びすさったので、危うく転ぶところだった。
「なんだってそんな無茶をするんだ?」彼は大声を出し、反射的に手を伸ばして彼女を支えた。
サマンサはまたしてもあとずさった。
「なんだってそんな無茶をするんだ?」彼は大声を出し、反射的に手を伸ばして彼女を支えた。
サマンサはまたしてもあとずさった。
「あなたに触られるのが……いやなの」ぞっとして体が震え、言葉につまった。
侮辱されて、彼の瞳がいちだんと暗くなり、怒りがめらめらと燃え上がるのがわかった。
侮辱されて、彼の瞳がいちだんと暗くなり、怒りがめらめらと燃え上がるのがわかった。
「いやなのか?」彼は静かな声で応じた。「それならどれくらいいやか、実際に試してみようじゃないか」
次に気づいたときには、サマンサは二本の腕でがっちり押さえ込まれて唇を押しつけられていた。
次に気づいたときには、サマンサは二本の腕でがっちり押さえ込まれて唇を押しつけられていた。
意識がもうろうとし、全身に衝撃が走り抜けた瞬間、それを熟知しているという感覚に圧倒された。
この口は知っている。唇の感触、この口の形、私の反応に合わせたセクシャルな動き。
この口は知っている。唇の感触、この口の形、私の反応に合わせたセクシャルな動き。
きつく結んだ唇を開かせようとして、唇の合わせ目に沿って舌で愛撫する、軽く湿った感触にも覚えがある。
もっと悪いことには、サマンサはそれを求めていた。
もっと悪いことには、サマンサはそれを求めていた。
キスに応えたくてたまらず哀れっぽい声をもらした。
驚くほどなじみのある興奮がざわざわとわき立ち、
キスだけでなくその感覚にも必死で抵抗しなくてはならなかった。
熱いかたまりが下腹深くよどんで、欲望に胸がうずいた。 もうだめ。耐えきれない。
彼を押しのけようとして両手を上げると、バルコニーの床に杖が大きな音をたてて倒れたが、
彼を押しのけようとして両手を上げると、バルコニーの床に杖が大きな音をたてて倒れたが、
サマンサは彼を押しやるどころか肩にしがみついた。
そのとたん、さらに強い親近感がわいた。自分と彼の背丈の差もちゃんと覚えていた。
彼の肩幅も、自分よりずっと力が勝っていることも。
そしてこんなふうに抱かれていると、
そしてこんなふうに抱かれていると、
自分がいかにも小さくか弱く感じられ、とても女らしく感じられるのも覚えていた。
初版: 2002/6/20
初版: 2002/6/20