室生寺★★★★

◆女人高野:高野山が女人禁制の道場であるのに対し、女人たちの救いを受け入れる道場として開かれた。

 

女人高野を広めたのは綱吉の母である桂昌院:徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。女人高野で名高い室生寺に多額の寄進を行い、仏塔を修復するなどして再興させた。寺の表門の前にある「女人高野室生寺」と彫られた石碑の上部には、九目結紋という紋が彫られており、これは桂昌院の実家である本庄家の家紋。

 

◆「むろ」とは、水神が籠もる場所を表しており、古くからこの地には龍神が住むと信じられてきた。堂塔が斜面地に散らばるように建てられているのも、神聖な土地になるべく手を加えないようにするため。

 

◆鎧坂:石段を見上げた時の段差が 鎧の横縞模様に見えるところから。さらに 金堂を兜に見立てて 鎧を着た兜の武士に見えるところから,などの説がある。

 

◆国宝である金堂はもともとは薬師堂だった。江戸時代に真言宗に改宗されてから金堂と称されるようになった。礼堂東西にあるかえるまたには薬壺が彫られている。本来は薬師如来に従う十二神将が並んでいる。

 

◆釈迦如来坐像:胸は厚くて盛り上がっている。そのためこの胸をなでると、お乳がよくでるという信仰があった。しゃがんで見上げると広角があがって笑っているようにみえる。

 

◆十二神将立像の未神像は、ユニークな表情とコミカルな仕草。

◆十一面観音菩薩立像:金堂の一番左に位置する。ふっくらとしてお顔がかわいらしく、紅の残る口元が優美。お腹を守るように飾りがほどこされていることから安産や子宝にもご利益がありそう。仏像に性別はないものの、女人高野の象徴と言われている。引目カギ鼻で当時の美人像と言われる。天辺には、知恵に優れ、威厳に満ちているが、無愛想で不機嫌にも見える仏頂面。光背は後補とされている。平らな板に絵の具で図柄を現わした「板光背」を負い、室生寺様といわれる。

 

◆橋本屋:太鼓橋のたもとにある老舗旅館。室生の里を愛した写真家・土門挙氏はここに泊まって写真を撮り続けた。 素朴な味わいの山菜料理、とろろの天ぷらは美味と定評。昼は食事(¥2,000~)もできる。

◆室生と太陽信仰:三輪山と日没の山として信仰される二上山を直線で結ぶ真東に室生山がある。さらにその直線を延長すると伊勢神宮まで到達する。伊勢神宮に祀られるのは天照大神であり、いずれも太陽信仰と関係があり、この直線は「太陽の道」と呼ばれる。

 

◆室生寺の五重塔修復に尽力したのが当時総理大臣だった小渕恵三元総理。小渕元総理の呼びかけにより全国から寄付金が寄せられ修復が実現された。
室生寺の五重塔は奈良時代に建立、高さは16.1mで屋外の五重塔では日本一小さい。階段の下から見上げるアングルが最も美しく、計算されて作られた屋根の反り返りが魅力。

塔に至る階段の最上段の幅と塔の屋根の幅が同じ広さに作られているので、階段の下からすでに塔が始まっているように気になり、大きく見える。

 

◆国宝 灌頂堂は鎌倉時代に建立されたまま残っており、扉の留め具にはセミの宝飾が施されている。真言密教の大切な法儀である灌頂(水を頭頂にそそぐ)が行われる。

 

薬師寺★★★★

◆法相宗は南都六宗のひとつに数えられる、日本における現存最古の宗派です。法相宗の宗祖は、三蔵法師。

◆教義:私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、10人の人間がいれば10の世界があるということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものです。例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という歌があります。旅行客が猿沢の池の旅館で手を打ったなら、旅館の人はお客が呼んでいると思い、鳥は鉄砲で撃たれたと思い、池の鯉は餌がもらえると思って集まってくる、ひとつの音でもこのように受け取り方が違ってきます。一人一人別々の世界があるということです。それをいとも巧みに論理の筋道を立てて、最も学的秩序を保った説明がなされているところに、この宗の教理の特徴があります。

◆金堂:竜宮造りとよばれる。台座:薬師如来が座っておられる台座には、7世紀頃の世界各地の文様が集約されています。一番上の框[かまち]にはギリシャの葡萄唐草文様、その下にはペルシャの蓮華文様が見られます。各面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人[ばんじん])の裸像が浮彫りされています。さらに、下框には、中国の四方四神(東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武)の彫刻がなされています。正にシルクロードが奈良まで続いていたのです。台座には、ギリシャの葡萄唐草模様、インドの人、中国の四神が浮き彫りにされており、奈良がシルクロードの終着駅であることがうかがえる。

 

◆薬師三尊像:首・腰・膝の三カ所を折り曲げた流れるようなラインが魅力的。三屈法とよばれ、インドから伝えられた。扉は開いた状態で外気にさらされているが、それでもますます美しさが増している。岡倉天心は学生を前にした講義で「薬師寺の金堂三尊を、まだ拝んだことのない人は幸福である。その三尊を拝して受ける最初の大きな感激を味合う機会が残されている」と言った。

コロナの感染拡大を受けて、薬師如来像の膝上に特別に「薬壺」が置かれ、日光菩薩像の脇には、疾病よけの象徴・深沙大将(じんじゃだいしょう、砂漠で危難を救うことを本誓とする鬼神で、病気を癒し、魔事を遠ざけるという。玄奘三蔵がインドへ旅した際、砂漠で玄奘を守護したと伝えられる。

姿は2臂(ひ)で忿怒相をし、腰布だけを身に着けた力士形の裸形で、腹部には子供の顔を現す

 

◆東塔:34M。東塔には屋根が6つありますが、下から1,3,5番目の小さい屋根は裳階(飾りと風よけの為の小さな屋根)で、内部は三層が重なった、三重塔です。
屋根の大小がおりなすバランスがとてもリズミカルで「凍れる音楽」(フェノロサ)とも評されました。

◆西塔:今は東塔に比べて若干高く見えるが、数百年の歳月を経ると木材が圧縮され基礎も沈下するので、東塔と同じ高さに落ち着くという計算がなされている。

 

◆東院堂:国宝。高い基檀の上に建つのは、水害・湿気を避けるためであり、鎌倉時代後期の和様仏堂の好例です。奈良時代は土間が通常。

◆聖観世音菩薩象:心の目で見ることを「観[かん]」といいます。色なき色を見、音なき音を聴く、これが「観」です。この観の働きをもって私たちの悩みや苦しみや悶えをお救い下さるのが観音菩薩です。聖観世音菩薩は日本屈指のお美しいお姿の観音さまといわれ、薄い衣を召し、その衣の美しい襞の流れの下からおみ足が透けて見える彫刻法は、インドのグプタ王朝の影響を受けたものです。顔はやや面長で気品が有り、形には長い髪がかかっている。足の形をくっきりとみせつ薄い衣は艶やかさをも感じさせるほど。日本彫刻史上屈指の傑作。

 

◆玄奘三蔵院伽藍:玄奘三蔵(602-664)は中国唐代を中心に活躍した僧侶です。玄奘三蔵は当時の中国に未だ伝来していなかった経典を求め、インドへ求法の旅にでます。17年に及ぶ旅を終え帰国すると、持ち帰った経典の翻訳に努めました。その数は1335巻に及びます。『般若心経』は玄奘三蔵の翻訳によるものです。昭和17年に中国南京で玄奘三蔵のご頂骨(頭部の骨)が発見され、全日本仏教会に分骨されました。埼玉県さいたま市の慈恩寺に奉安されたご頂骨を、玄奘三蔵の遺徳顕彰のため昭和56年に薬師寺にもご分骨を賜り、平成3年に玄奘三蔵院伽藍を建立しました。

西側にあるトイレに行くと、唐招提寺にショートカットできる。

◆塔にかかる「不東」の額は、管主高田好胤の筆で「インドに達せずば東へ戻らず」という玄奘の強い決意をしめしている。インドから経典を持ち帰るときまでは、何があっても東方の唐には引き返さない。

◆大唐西域壁画殿には、平山郁夫画伯が玄奘の旅路をたどって描いた「大唐西域壁画」が奉納されている。終着地点・ナーランダ寺院を描いた「ナーランダの月」には、右下あたりに人の姿がぼんやりと描かれている。完成間近になって高田管主が亡くなられたため、画伯は玄奘と管主への思いを重ねて、この人影を書き足した。

 

山辺の道

日本書紀に記される日本最古の道。道標は文芸評論家の小林秀雄による。

 

若草山

標高342M。芝はメシバという日本の古来種。

山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので「三笠山」ともいいます。

歩行時間は、山麓ゲートから30分~40分位で山頂へ到着します。

菓子のどら焼きのことを三笠焼きというが、形が似ていることから名付けられた。