今日も、朝から、蝉の声が一段と高くひびき、祇園の後まつりで、鉾が御池通りを繰り出していた。道路の真ん中を動く鉾を歩道からみても、綺麗だし、また事務所のある10階からみても、まるでおもちゃのようではあるが、美しく、華麗である。この鉾の巡行は、権力者に対する民衆の心意気とか聞いてことがある。

ほこ

祇園、あとの祭り、御池通りにて

 国際会議場駅から、バスに乗り、緑の山峡を抜けて、大原の里へでかけたら、ここでも、裏山では蝉が鳴いていた。相も変わらず、強い陽光の中に、ひまわりが毅然として、咲いていた。山鉾のように、総天然色ではなく、黄色一本であるが、これまた華麗な花だと思った。太陽なにするものぞ、という気概も窺えた。鉾とひまわり、いま京都は夏も酣という感じであった。
 夜、蒸し暑く、ひと粋れのする三条寺町を歩いていると、和牛肉の老舗の前で、浴衣姿の女性の店員さん達が、お盆に、冷たい麦茶を一杯乗せて、山鉾を引いた若者たちへの慰労にでかける準備をしていた。御池通りにでると、すこし涼しい風が吹いていた。あと2週間もすると、立秋となる。
 
ひまわり

大原のひまわり
 梅雨の雨を受けて、ここ京都の御池通りの両側には、紫陽花や山梔子の花が見事に咲いている。が、最近は降り注ぐ陽の光を受けて、無惨な姿となり、哀れにも消えかけ始めた。まさに花の命は短く、娑羅双樹の花の色であり、ゴンドラの歌である。連日34、35度の猛暑に身をさらしながら、町を歩いていると、時として足がもつれることがある。花の衰えに無情を感じている場合ではないと愕然としている。

 この御池通りには、ひまわりの木は1本もないので、忘れていたが、つい先日、大原の里にある病院に出かけた時に、喫茶室で夏の花ひまわりを見かけた(写真)。燦々と降り注ぐ、太陽をものともせず、堂々を咲き誇っていた。帽子も被らず、日傘もささず、何処からでもかかってこいとでも言いたげであった。

ひまわりの花

大原記念病院の休憩室にて

 このひまわりの花は、太陽が東の上るのを待ち構えて、終日大陽をおいかけ、西の端に没するまで、首を曲げながら、じっと見ている。太陽にすれば、ひまわりは一種のストーカーなのかもしれない。太陽も身に危険を感じたら、早めに警察へ連絡しておくとよいかも。

 子供のころ、東京に住んでいたが、ひまわりの種をある量を持っていくと、上野動物園は無料と聞いた。その話しに釣られて、せっせと近所のひまわりの種子を集めたことを思いだした。おそらく、上野では動物の飼料が不足していたのであろうか。しかし、集めた実は上野に持って行く前に、全部自分の口に入れてしまった(笑)。

 戦後間もない頃で、ぞうさんや、キリンさんに申し訳ないことをしたと反省している。集めた種はフライパンで軽く煎って、種子ごと口に入れ、ガリと噛んだ後、皮の部分を吐き出したものだ。中の実は結構美味しかったような気がする。ひまわりの種を食べたのは、あの時以外には記憶にない。子供時代のデリカテッセンの1つであった。

 いま、世の中あげて、「熱中症に気をつけましょう」の季節である。そのキャッチフレーズにつられて、鞄の中にはつねに、「おーいおちゃ」の類が一本入っている。水の補給が一番大事と言われているようだ。

 私は、数年前まで、自然科学の中でも、陽の全く当たらないお腹の中の胃の病態生理学を研究して来た。あのひまわりの向日性の機序はどの程度解明されているのだろうか。人体に応用できるまで、解明されていなければ、今度は、陽の当たる場所でのひまわりの生態の研究に力を注ぎたいものだ。

 成果があがれば、いつの日か猛暑が続いても、ひまわりの花のように毅然として、太陽に立ち向かえ、暑さに耐え、熱中症を予防できるのではないだろうか。因みに、アフリカのマサイ族の人々の辞書には、「熱中症」という言葉はないのであろうか?

 こんなことを考えているのはそろそろ熱中症に罹患しかけている証拠かもしれない。
サンパウロの宝石店の名前

 ブラジルのリオデジャネイロ(以下リオと略)でのオリンピックが近づき、代表選手の名前が次々に報道されている。女子バレーは、ベテラン選手が出場することが決まった。また男女ともに、陸上短距離も期待されるようになった。あたらしい都知事の候補者の名前も上がりかけて来た。
 わたしは、かつてリオとサンパウロに出かけたことがある。2つの町で、国際学会が開催されたので参加した。私と、院生、研究生の4人と助教の女性1人であった。まず、リオでは私が所属しているボッカス消化器病学会で、世界中からボッカスの弟子が集まった。故ボッカス先生は、米国ペンシルバニア大学の消化器内科の教授で、かつて世界中で教科書として使用されていた「消化器病学」の編集主幹であった。またボッカスは、世界消化器病学会の創始者のひとりであった。私の留学先の教授がボッカスの弟子のひとりであったので、会員になることができた。

 リオでの学会の主催者は、ブラジル出身のボッカスの弟子であり、リオの某大学医学部の教授で、恩師を迎えて、張り切って学界を主催した。宿泊したホテルは有名なコパカバーナ海岸の直ぐ近くにあった。海岸を歩くと、ビーチバレーがあちこちで行われていた。学会が終わった夜は、レストランを借りきり、サンバの踊りが披露された。学会の合間には、市内観光などがあり、あちこちを見学した。もちろん、あのキリスト像の見えるコルコバートにも船で出かけた。

 リオに着いた日に、リオの銀座と思われる繁華街リオ・ブランコを歩いていると、中年の女性が近づいてきて、カメラを隠しなさいと注意された。「ひったくれますよ」。「ええつ」と思った。こんな町のど真ん中で、ひったくりに出会うとは想定外であった。しかし、ビルの合間に見える背後の山には、バラック立ての家が沢山見られた。映画「黒いオルフェ」でみた景色で、納得した。昨日のテレビでも、リオ参加での心得の中に、スマホ、カメラは表にださないこととあった。

 リオでの学会の後、サンパウロに移り、世界消化器病学会に参加した。あるシンポジウムの講師に招かれていたので、講演した。謝礼を頂いたので、お土産を買いに町に出た。お土産を探す段階に至って、このブラジルでは、町の至るところに、宝石店があることに気がついた。我が国のコンビニの数以上あったような気がする。ブラジルは豊富な天然宝石の素材の産地であるので、アクアマリン、トルメリン、サファイア、エメラルド、イエロートパーズなど宝石類は殆ど揃って、店頭にカラフルに飾られていた。しかも、その数は無限と言っていいくらいにあった。とくに、ある店では、奥の部屋に入ると、アクアマリンの原石が無造作に篭一杯入っており、これは、長野県に送り、細工してもらうとかで、仰天した。

モンテ栗須と


 お土産には、有名店での購入がいいかと思って、ガイドブックを調べてある店を訪ねた。いかにも、一流店らしく、ショーケースに陳列された品々も豪華であった。まず、家内にアクアマリンを1個買った。もちろん、そのような宝石があるなど知らなかった。ガラス製の展示物を見ていると、青色の透明度が高く、男性のわたしがみても、綺麗な品がアクアマリンであった。次に当時中学生の娘が2人いたので、色々な宝石が糸で結ばれたブレスレットがあったので2個買った。これまた、綺麗であった。いずれ、大きくなってデートでもする時に、腕に嵌めたらいいのではと思った。この3点の宝石を購入するために、講演の謝礼全部を使用した。

 ともあれ、わが人生でこれほど沢山の宝石を一挙に観たのは初めてで、ブラジルはリッチという事を痛感した。むかし、ブラジルを舞台にしたジェームス・スチュアート主演の「グリーン・ファィア・エメラルド」という映画があったが、見事な色の宝石が主題のミステリーであった。日本では絶対出ないような宝石であった。
 
 宝石の山といえば、アレキサンドル・デュマの『モンテクリスト伯爵』が思い出される。無実の罪で、牢獄に投げ込まれた若い船乗りエドモン・ダンテスが、隣室の囚人(元司祭)から、イタリアの某貴族の財宝が隠された地図を譲り受ける。14年間の牢獄生活の後脱獄し、その地図に書かれた島にでかけると、司祭の言う通りに財宝が山ほど入った箱を発見する。その場所はモンテクリスト島と呼ばれていた。その宝石を資本に彼を牢獄に入れた人間たちに復讐をする。その時の宝石は以下のように記されている。まず、宝物を入れた箱には、イタリアの某貴族の紋章が輝き、枢機卿の帽子が乗せられていた。箱は、3つに仕切られ、第一の仕切りには真紅の金貨、第二の仕切りには地金、第三の仕切りには、ダイヤモンド、真珠、紅玉(ルビー)があった。フランスでは、秘められた財宝の山というと金貨が主で宝石は透明、白、赤の三色とは、ちょっと寂しい。燃えるような緑のエメラルドやオパールもあると、ダンテス青年も、目が眩んで「やったぁ!」と叫んだのではないだろうか?
 あのスチーブンソン作の「宝島」では、ジム少年が発見したフリント船長の隠した宝は、全部金貨で、世界中の珍しい金貨であった。ダイヤモンド、ルビー、アクアマリンなどは全くなく、海賊は専ら金貨が大事に集めたようだ。もっとも、海賊が襲った船は、ブラジル経由ではなかったので、宝石類は少なかったのかもしれない。あるいは、スコットランド生まれの作家には、宝石類よりも金貨が大事であったかもしれない.古代中国では、金銀よりも
玉が大事であったのと類似しているような気がする。

勾玉


 帰国前に、サンパウロの町を歩いていると、商店街のある宝石店の表看板には、なんと「Count of Monte Christ」(訳せばモンテクリスト伯爵)と書いてあった。これほど、店の商品と見事にマッチした店名は知らない。○○宝石店、XX宝石店よりも、非常にインパクトが強い店名であった。中を覗くと、宝石という宝石は全部揃えてあった。今でも、ブラジルというと、この店の名前が出て来る。宝石に憧れる女性が入ったら、出るのに2、3時間かかりそうな感じを受けた。

 帰宅後、家内と娘に、お土産を渡して、「どうだ、きれいだろう!」と自賛した。家内と娘は大喜びであった。それぞれ、身につけて、ニコニコであった。いい土産で、私も満足であった。ところが、問題が起きた。私には、小学生の息子がいた。そのお土産を渡した後、はっと気がついた。宝石に心を奪われ、ひたすら家内と娘たちにとおもって、宝石を探し、購入したが、息子のことは完全に忘れていた。息子と宝石、どうしても結びつかなかった。息子は自分には宝石類の土産がないことを知ると、下を向いて、ぽろぽろ涙を出していた。拙い!と思って、帰路ハワイで買ったチョコレートを上げたが、手遅れであった。ダイヤモンドに目が眩んだお宮さんと同様に、私も宝石は女性という観念が働き、息子に土産を忘れてしまった。まさか、息子にネックレスやブレスレットでもあるまいし、ブラジルでのお土産の買い物には、失敗した。
 
 サンパウロから飛行機に乗り、マイアミに到着した。当然空港内でも、免税店でも宝石は山ほど売っていると予想したが、なんとブラジルで見たような宝石店は殆ど見当たらなかった。この差に驚いた。改めて、ブラジルは宝石の産地だと感心した。と同時に、アメリカでは石油やゴールドは出るが、宝石類は、出ない国かと思った。



 それから4年後、世界消化器病学会がシドニーで開催された。この学会でも、メルボルン大学の教授に特別講演を依頼されて、有名なザックス教授らと一緒に特別講演をした。小学生の息子を連れて行ったが、アメリカの学者に、息子も将来学者にするのかと聞かれたが、そのつもりで連れて来たのではないと答えた。その時の講演料では、息子にはブーメランを買った。娘にはオパールを買ったが、2枚のオパールを張り合わせたもので、怪しげであった。ともあれ、これで、ブラジルの悔いが消えて、ほっとした。学会から指定されたGホテルに泊まったが、えらく旧式の部屋で夜中は寒く、風邪を引いた。1泊して、其の後は市内のヒルトンホテルに泊まった。それにしても、ブラジルは日本の真反対、遠い国だ。選手たちが時差に苦しまずに、健闘して頂ければと願っている。

 



 今日の午后は、時間があったので、孫の様子を見に幼稚園に出かけた。窓から園内を覗くと、生憎と御昼寝の時間のようで、園内は薄暗く、保育士の方が、寝ない子をあやしておられた。孫も寝ているようなので、園内を散策した。きれいな蓮の花が咲いていたので、撮影した。

蓮の花


それから、近くの古書店に出かけた。沢山の本が棚に並んでおいてあった。岡本太郎の本「強く生きる言葉」があった。今更誰それの言葉など、あまり関心はないが、岡本太郎の言葉は、一読しておきたいと思った。別に刺激を受けたい、元気を貰いたいというのではない。懐かしい人だから、本を買ったのだ。

保育園



 もう大分前のことであるが、岡本太郎夫妻と1日に2度御会いしたことがある。もちろん、夫妻とは知己ではない。たまたまお会いしただけである。

 第1回目の出会いは仙台であった。わたしは、仙台で開催された学会に参加し、仙台駅の近くのホテルに宿泊していた。朝、ホテル内のレストランに出かけて、朝食をしていると、臨席のテーブルに、岡本太郎夫妻がおられた。友人が最初に、岡本太郎氏を認めた。「藝術は爆発だ!」という名言で有名な芸術家であることは知っていた。何かの雑誌に、パリに留学していた時、親しくしていたピカソからギターの画を書いてもらったと書いてあったのを憶えている。ピカソと親しい人かと感心した。

 第2回目は、その日の夜のことで、場所は広島市内のバーであった。わたしは、仙台の学会が終わった後、飛行機で広島に出かけた。広島大学の医学部の故三好教授に、講演を依頼されていた。講演の後、教授の案内で、夜の広島の繁華街に出た。その時はなんと4次会まであった。何次会かの時に、あるバーで飲んでいると、岡本太郎夫妻が入ってこられた。直ぐ傍のソファーに座られ、友人の方と歓談されていた。仰天した。この広い日本で、朝は仙台で、夜は広島で、岡本太郎氏と出会うとはあまりの偶然に驚いた。12時間の間をおいて、東北と中国で偶然にお会いした。岡本氏は著明な方なので、各地で講演をされておられたのかもしれない。それにしても、「太陽の塔」で有名な芸術家と、1日の中で、2度に渡って、しかもごく近くで、お会いできたのは、奇遇であり、光栄であった。一言でも、ご挨拶すればよかったと残念におもう。

 本の中に、次のような言葉があったので、紹介する。
「他人が笑おうが笑うまいが、自分の歌を歌えばいいんだよ」。
「相手に伝わらなくてもいいんだと思って純粋さを貫けば、逆にその純粋さは伝わるんだよ」

 わたしは、今ウェブ小説に連載しているが、読んでくれる人がいるのだろうかと一抹の不安を抱きながら、書いている。氏のように、持って生まれた天才ではない。凡庸で、素人の人間の小説など、はたして伝わるのであろうかと思っている毎日である。

 岡本太郎の言葉を使用すれば、どうあろうと、自分の文章を書けばよいのだよ。──

 
 先日、友人たちの誘いで繁盛亭に落語を聞きに行った。大阪の地勢に疎いので、まごつかないように、早めに出た。友人の指示どおりに、電車を乗り降りしたので、すんなりと繁盛亭に着いた。かなり早めだった。
 繁盛亭のすぐ裏には大阪天満宮が見えたので、参詣してきた。この地に天神さんがあるとは知らなかった。中には、池があり、数匹の亀が泳いだり、池の中におかれた灯籠の台石に乗っていたりしていた。甲羅干し?
 その時、面白いことが起きた。一匹の亀が水中からその台石にあがってきた。それを観た猫が、池の反対側にあった柵をくぐって、出て来て、かがんで亀をじっと観ていた。亀と猫、お互いに、じっと見つめ合っていた。

猫と亀

 ひょっとすると、猫がジャンプして、亀に襲いかかるかと思っていたら、そうでもなく、ただ、ただ、じっとみつめ合っていた。この猫にとっては、この亀はどのように写っていたのだろうか。おそらく、この猫はご近所さんと思うが、毎日見つめあっているような気がした。ひょっとしたら、「もしもし亀よ亀さんよ」とでも心中思っているのではなかろうか。亀は亀で、「早く猫踊りでもして」と思っていたのではなかろうか。この猫と亀の心の内を読み解ける人はいるだろうか。世の中分からないことが一杯あるが、この亀vs猫の心中は我々人類には絶対に分からないような気がする。
 過日、テレビを観ていると、アフリカのある川辺で、ワニが泳いでいた。そこへ、ライオンが出て来て、ワニにちょっかいを出していた。ライオンはワニを捕食するつもりなのか、その川辺を行ったり来たりしていた。ワニは水中に姿を消して、居なくなったと思っていた。ライオンは未練がましく、水辺で獲物を探していた。その時、水中から、いきなりワニが飛び上がって、ライオンをパクリと咥えて、水中へ引きずり込んだ。なんとも、ワニは賢いと感心した。百獣の王もワニの大口には勝てなかった。
 別の映像では、豹がワニを襲い、見事に仕留めて、あの重たいワニを
陸に引き揚げていた。
 つまり、このような野生の生き物のありようを猫と亀で、期待したのだが、当てが外れて、唯両者のにらみあいを観ていただけだった。

 ワニで思いだしたが、アフリカのある部族では、主食はワニであったが、子供ができなくなった。ワニの肉を毎日食べていると、精子の形成が低下することに気がつき、以後、部族の長老は海で魚をとってきて、男子に与えて、ワニは食べさせなかったとある。ワニの肉には、ゴシポールでも入っているのだろうか?

 繁盛亭の落語は面白かったが、「猫と亀」の無言劇もまた記憶に残っている。
 坂本龍馬の没後150年を記念して、この秋に京都国立博物館で特別の展示会があるという。期間は、10月15日から11月27日まで。龍馬の愛用の刀が3本1堂に並ぶ予定とかで、その中の1本の刀身には見事な彫りがあった。名工の作だろうか?ただ、愛用というと、龍馬は人を切ったことがあったかのような印象を受ける。大分前に読んだが、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』では、龍馬は、剣術は師範代となるくらいに達人であったが、人を切った話しは無かったような気がする。従って、愛用ではなく、佩刀あるいは差料にしていたくらいの表現がベターではないかと思った。あるいは、単に龍馬がつねに腰に差していた刀でよいのではなかろうか。司馬は、龍馬は刀には重きを置いていなかったと書いている。そのためか、暗殺という最後を迎えている。

 一方、新選組の局長の近藤勇は虎徹を、副長の土方歳三は和泉守兼定を所持し、池田屋騒動を含めて実際に使用したと記録にある。したがって、勇や歳三の場合は所持している刀を愛用したと表現しても納得できる。余談だが、私が小学生~中学生のころ、学校から上野の国立博物館に何度か見学にでかけた。子供向きの展示会でもあったのかもしれない。刀が展示してある大部屋と小部屋があり、自由時間になると、私は、真っ先のそこに飛び込み、あれこれ名刀を見ていた。たしか、正宗はあったのを憶えている。

丸顔メンバー

 さて、今から50年以上も前のことだが、当時、私は大学院の1年生であった。夏休みとなったので、先輩と立山に登ったあと、友人を訪ねて京都に来た。その当時、東京から京都間の汽車は8時間くらいかかった記憶がある。今は新幹線で2時間20分程度、時代の進展に驚く。深草にあった友人の会社の社員寮に泊めてもらい、友人が仕事にでかけた後、私は京都の町を散策していた。

 私の中学時代の修学旅行は九州一周であり、高校時代は修学旅行が無かった。旅行はあったのだが、事情があって、修学旅行は男子の参加は許可されず、女子学生のみが参加した。したがって、京都に来たのは、院生となった時が最初であった。南海の孤島に漂着したロビンソン・クルーソと同じで、千年の都に来ても、ひとりでどこへ行ったら良いのか検討もつかなかった。今時の中高校生のように、タクシーで京都観光するほど余裕はなかった。財布には九州までの帰路の運賃だけであった。そこで、ひとりで京都さがしをはじめた。

 とりあえず、八坂神社に出かけ、映画「新平家物語」の冒頭の部分を思いだしていた。確か、平の清盛の父忠盛が神社で夜間警護役をしていたと思う。夏の盛りで、神社の裏の丸山公園で、数人の子供たちがセミ取りをしていた。公園の一番奥の一段高いところに、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像があったような気がする。維新の勤王の志士を記念して、故郷の篤志家が、建立したのだろうと思った。あの時、坂本龍馬の銅像を見ても、高校の教科書を思いだした程度で、別に感興はなかった。故司馬遼太郎氏も、最初坂本龍馬と聞いて、維新の勤王の志士のひとり程度にしか思っていなかったとある。

 ブラ京都していると、国立博物館の前に出た。博物館があると知って、中に入り一巡した。お目当ての物はどこにも展示してなかった。受付に出かけて、係の人に尋ねた。「あのぅ、ここには新選組の事績は何かないのですか?」。

池田屋

 今思うと、顔から火が出そうな質問をしたのだ。係の年配の人は、「ここは国立博物館で、そういう類の物は一切ありません!国宝か重要文化財級の物しか置いていません!」とけんもほろろに言われた。と言うか、怒っているような雰囲気であった。たしかに、内部は荘厳な仏像や画が展示してあった。ドジッタ!と思った。おそらく、あの係の人は、同僚や家族の人に、「今日はえらくバカな若いのが博物館に来て、(新選組の事績)の有無を訊いたが、ここは何処だと思っているんだろうね。質問された私が馬鹿にされたような気がしたね」とでも話されたのではないだろうか。

 全くそのとおりだと思った。今思えば、京都の博物館に来たので、ついその時見たかった新選組に思いを馳せたようだ。我ながら、非常識な質問をしたと、恥じている。とにかく、子供のころから、映画や講談本の影響で、京都と聞けば、新選組と鞍馬天狗がまず思い浮かぶ。とにかく、子供にはどちらもヤタラに強く、憧れていた。

 今にして思えば、上野の国立博物館に行って、名刀コーナーに行かずに、「赤穂義士の事績」は展示してありますか?と、訊くのと同じことであろう。係は仰天しながらも、親切に高輪の泉岳寺を教えてくれたかもしれない。もっとも、心中、この男は方向音痴か?と思われたであろう。
  
 博物館を出て、町で食事をした後、店のご主人に新選組の事績を見学したいのですが、どこへ行けばよいのですかと訊いた。ご主人は、「新選組なら、壬生に行ったら、何かありますよ」—と言われるので、壬生にでかけた。ありました!新選組の壬生屯所があり、また新選組の初代局長の芹沢鴨が、土方歳三らに「士道不覚悟」と言われて、切られた家があり、庭には小さな墓が幾つか並んでいた。暗殺の現場は、現在菓子司の八木家であった。玄関に周り、ご主人に話しを訊いた。ご主人は、親切な人で、「家の中をご案内したいのですが、いま、物置にして使っているので、申し分けありませんが、中はお見せできません」と、言われた。壁、ふすま、梁にも血痕が残っているとかであった。

 私の事務所から歩いて 10分程度の場所に池田屋があり、毎日のように前を通る。記念撮影ができるように、
顔の部分が抜けている。だれでも新選組の仮の隊士になれる。司馬遼太郎の名作「燃えよ剣」で描かれた剣劇が実施された場所であった。新選組はたしかに、国宝級の国立博物館で展示するようなものではなかも知れない。いま、新選組が表に出るのは、時代祭で、背中に「誠」の字を描いた波模様のデザインの羽織を着た一団が通過するくらいである。行列を見ながら、古希を過ぎた年になっても、「新選組はいいな!」と思う。

 時代祭は、各時代を描いて、伝統的でいいけど、ただ粛々と歩いていくだけで、ちょっと寂しい。平安時代ならば雅楽、義経時代ならば、勇壮なホラ貝、鉦太鼓を鳴らして、あるいはテープでもいいから、適当な音楽を高めに流して、巡行するのもいいのではないだろうか。見物客は退屈しない。特に、外国からの観光客が増加した時代だ。以前、事務所の下で、「桜まつりーよさこい踊り」が、次々と通過したが、各グループは独自の音楽付きで、賑やかで、楽しめた。

 三条通りの池田屋から、河原町に出て、徒歩5-7分くらいのところに、旧近江屋がある。坂本龍馬が暗殺された場所だ。その龍馬が、今秋、国立博物館で特別展示されるというのだ。新選組は問題外で、龍馬はOKなのかと、ある感慨をもった。新選組も龍馬も、明治維新前の立役者で、同類ではないかと思っていたので、何となく釈然としなかった。もちろん、明治維新を政治の点から考えると、龍馬に分があるのは間違いない。あえて言えば、新選組は王城警護一本に力をつくし、龍馬は日本の将来を見据えていた。いずれも、非業の最後を遂げているのは、英雄の末路は哀れで、共通項を有している。

しんkほう

 幕末の京都から新選組と龍馬を消したら、京都は随分と寂しいものになると思う。新選組がないと、鞍馬天狗も、「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時、たちまちおこる剣劇の響き・・・」の相手がなくて、鞍馬山に逼塞したことであろう。

 桂小五郎と幾松の恋も、新選組があったからこそ、燃え上がったのではないか。2人の逢瀬の場となっていた木屋町の某料亭を訪ねた。そのとき、新選組が踏み込んで来た場合、鴨川に逃れるための逃げ口を見せてもらった。今、桂小五郎、後の木戸孝允は、京都市内の某ホテルの河原町側に、ハンサムな銅像と化し、町を見守っている。

 龍馬が暗殺されたとき、襲ったのは新選組ではとの疑惑があったが、違ったようだ。
 
 しかし、良くしたもので、タイミングよく、本夕、NHKでは、「歴史秘話ヒストリア」という番組で、「新撰組—ぼくらの友情と青春」を取り上げるようだ。「いいね!」と思い、快哉であった。解説は、NHKの看板キャスターの井上あさひさん。博物館には展示されなくとも、井上さんが新選組を案内されると、京都に観光に来る人は、とくに中高生は、事績探しをするのではなかろうか。もっとも、今は、新京極にでも行けば、「誠」の文字入りグッズは沢山あるので、京都土産の1つには、いいのでは。


 とまれ、帰って来た新撰組、今夕は楽しみだ!そのテレビを観て、私のように博物館で、新選組の事績を聞かないようにと祈るばかり。私も、秋になったら、博物館に行って、龍馬の偉業を見てこようと今から楽しみにしている。そうそう、司馬遼太郎が『龍馬がいく』を書き終えた年が、龍馬没後100年とかであった。

 最後に、50年前、私が国立博物館でその時の係官に、「坂本龍馬の事績は展示してないのですか?」と訊いたら、どのような返事を頂けたであろうかと、と思った。ひょっとすると、新選組と同様な取り扱いだったのか、あるいは、龍馬は別格で、その当時でも重要文化財扱いされたのかである。




大分前のことだが、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本が、ベストセラーになった。米国の作家ロバート・フルガム著で、本屋で立ち読みした程度であったが、今にして思うに、最近、思い当たることがあった。この作者は、「人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである」と喝破している。ちなみに、フルガムは大学院では神学を専攻している。

そうかも知れない。大学院の5年間で人生の知恵などはあまり習った記憶はない。ひたすら与えられた研究テーマに邁進した。当時、人生=研究であった。知恵は科学的知識を発展させ、また磨いていた。

わたしが保育園や幼稚園に通ったかもしれない1~5歳の時は、太平洋戦争の真最中で、また九州の片田舎であったので、保育園、幼稚園などという名のつく施設など皆無であった。園の待機児童ではなく、朝から晩まで、近くの小川で泥鰌が顔を出すのを待機し、追いかけていた。「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川」がわたしの保育園であり、また幼稚園であった。砂場もあったが、河原の天然の砂場であった。ひと泳ぎした後、甲羅干しするのに格好な場所であった。

したがって、気が付いた時は、いきなり小学校の1年生であった。気が付いたといっても、名前の書かれた鞄を貰って、遠い道のりを歩いている自分に気がついた程度であるが。

大学時代、教養課程で、ドイツ語を学んだが、「キンダーガーデン」という言葉を習った。この語が、幼稚園と意味するとわかって、なぜか、行けなかった幼稚園に憧憬の念を持った。過日、ドイツに出かけたとき、友人が「このごろドイツでは、少子化の影響で、近所の「キンダーガーデン」が閉鎖された」と聞いた。友人は小児科の医師であったので、思うところあったに違いない。友人に日本では閉鎖どころか、待機児童という言葉があると教えたら、驚くだろう。

さて、初孫が保育園に通っている。1歳3ヶ月で、毎朝娘が三条大橋横の保育園に連れて行き、夕方迎えに行く。一度、娘に付き合って、保育園に出かけた。事務所から歩いて7分くらいで、賀茂川を渡ると直ぐだった。お寺の境内に一階建ての園舎があり、入り口から入ると、柵が設けられ、子供達は30畳ほどの中で、遊んでいた。

鍵をはずし、中に入ると、孫は嬉しそうに寄ってきたが、はいはい姿で、すぐ向こうに行った。中にいた子供が2人寄ってきて、わたしの服を触ったり、持っていた鞄を触ったりしていた。珍しいのだろう。3人の保育士さんの姿がみえた。

最近、娘が孫を迎えに行った時のことである。面白いエピソードを聞かせてくれた。娘の顔をみると、孫は柵のところに飛んできて、何やら叫んで、柵の下で泣き出したようだ。母の顔をみて、うれし涙であったのだろう。すると、横から女の子が来て、孫の頭を優しく撫でていたという。その後、娘が孫を抱き上げ、連れて帰ろうとすると、その女の子が、孫の私物を入れたビニール袋をどこからか持ってきて。渡してくれたという。

娘は非常に驚いたと言った。小学生か、中学生ならばそれくらいはやるだろう。しかし、それをしたのが1歳児なので、仰天したと話した。よちよち歩きで、黙って、私の服を触るような子が、そこまでやるのだ。おもわず、宮沢賢治の詩が脳裏をよぎった。と同時に、この光景を賢治が見たら、きっと彼の詩に、以下のような一節を付け加えたであろう。
──泣いている子がいれば、傍に行って泣かなくていいよと頭をなで、
荷物を忘れた子がいるならば、取ってきて、はいと差し出す
わたしはこんな子になりたい──と。
1歳にして、この気配り。なんという優しい女の子であろうか。

今から20年経って、その子が成人し、女性となったとき、お目にかかりたいものだ。きっと内に優しさを充満した素敵な女性になっているだろう。三つ子の魂百までという言葉がある。2歳繰り上げて、一つ子の魂百までとなれば、その子の一生は、どんなに思いやりに溢れたものになるであろう。その園に砂場があったかどうかは分からぬ。仏教系の保育園なので、それなりのお話はあるだろう。

私が、大学院に入り、先輩の推薦で千葉県の下総中山に下宿していたことがある。法華経寺の本山の1つの中山寺の前であった。その家主の孫娘が、2~3歳であり、近くの中山寺の幼稚園に通っていた。ある時、家主のところに来ていた孫娘と話していたとき、幼稚園ではどのようなことを教えて貰っているのかを訊いた。

孫は、「み仏様のおしえをまもり、おともだちとなかよくし、・・・」と訥々と話した。まるで、観音様が教えを垂れているような感じがした。もちろん、その幼稚園には、砂場もあるであろう。そこで、泥だらけで遊ぶこともあろう。おとなしそうな子であったが、時にはおてんばすることもあろう。そのとき、わたしは24歳であったが、その子のはなしに胸を打たれたのを憶えている。


今回話題にした1歳の女の子と、千葉の下宿の孫娘の話しを纏めると、幼稚園には行きたかったと痛感した。1-5歳で学んだことは、終世忘れ得ぬであろうし、ことの善悪なども、先生の教えを受けて、身にしみて憶えたであろう。今の自分よりも、もっと周りの人に優しく、また思いやり深い人間になれたのではなかろうか。

物心がつく遥か前の日々の教えは、柔らかい頭に稀釈をされずにスッーと入って、知恵を形成したに違いない。小学校から大学院までの教育を受けたが、人生の知恵の取得に関しては、我が学歴に幼稚園時代がないことを残念におもうし、自分の精神面に欠けた部分があるような気がして、フルガム先生が羨ましい。ちなみに、その孫娘の父親は中山競馬の騎手で、1度優勝したことがあるとか聞いた。
先日、友人たちを誘って、京都市左京区仁王門通りにある寂光寺を訪ねた。この寺には既に5度参拝に来ているが、菩提寺ではない。今回は、友人たちにこの寺を有名にした本因坊の事績を紹介するためだ。一人は、碁の愛好家であるので、特に案内したかった。寺の山門脇には「碁道名人第一世本因坊算砂旧跡」と書いた大きな石碑が立っている。

そう、この寺は、かつて碁の初代家元、本因坊算砂(さんさ)が住んでいた寺である。と言っても、寂光寺は以前、中京区の寺町通竹屋町にあった。聚楽第建設に際して、秀吉の命により、鴨川東側の現在地に移転されたものだ。


(京都寂光寺、本因坊算砂の墓)

本堂前の広い中庭を通り、奥の一角にある墓所で参拝した。すこし苔生していたが、立派な墓があり、僧日海、一般には、本因坊算砂と呼ばれる僧が眠っていた。その後、本堂前の白い砂利石を敷いた庭に出ると、友人たちは寺内のあちこちを興味深く見学していた。私は、本堂脇にある高札の説明文を読んでいた。

その時、何処からともなく、声が聞こえて来た。低い声で、私に話しかけているようで、慌てて、周りを見渡したが、人影はなかった。しわぶきも聞かれたので、高齢者かもしれない。

「お宅さん、わしは本因坊算砂じゃよ、わしの墓に何度も参拝してくれるが、ご好意に感謝しているよ。先日は、大学のもと学生という若い女性を3人連れて来られたな。住職が本堂を案内したが、生憎とお宅も、女性たちも碁は出来ないと話された。わしの名前の本因坊に敬意を表しに来たとか。これも何かの縁、時間があったら、碁も習って下さいな」


(寂光寺山門にて)

「今日は、友人たちを連れて来てくれて、有り難う。お一人は、碁の趣味があるとかで、腕も良いらしいね。一局でも、対局してあげたいものだが、なにしろ、わしは腕も、指もないので、碁石が持てずに、残念じゃ」と言って、フフフと笑った。

「ところで、最近、お宅たちを含めて、ここに来る人たちの話をそれとなく聞いていると、朝鮮(現在は韓国というようじゃな)の碁の名人と南蛮人の作製した電気仕掛けの「からくり人形」で碁の勝負をしたら、何と、「からくり人形」が4勝1敗で、圧勝したとか。えらい人形が出来たもんじゃて。直接観戦していないので、詳細は不明だが、どういう棋譜であったのか、興味深々じゃよ」

「わしは織田信長公から、碁の名人という称号を頂いたし、生前の碁の試合では、連戦連勝で、負けたことはない。自慢ではないが、秀吉公主催の試合では、わしは圧倒的な強さで勝ち、公からご褒美を頂いた。家康公からは、江戸に招かれ、碁の家元を拝命し、20石、10人扶持の録を頂いた。あの宮本武蔵が、細川藩に客分として採用された時は、堪忍袋の5人扶持(18石、7人扶持)だったそうだ。どうも、命がけのチャンバラよりも碁石パチりの方が、給料は少し高いことがわかって驚いたよ。とまれ、「からくり人形」如きに負けるはずはないよ。所詮、人の作った人形など、多寡が知れているわ」.


(寂光寺中庭にて)

「そりゃ、今世界で一番強いと言われる韓国の名人が4敗したからには、わしも、全勝出来るとはよう言わないが、そう易々とは負けまいて。いずれ、わしの一門で、不世出の天才と言われた道策や秀策が出てきたら、「からくり人形」など一勝も出来んじゃろう。ふたりとからくり人形の対決は見たいもんだて」

「人形というのは、顔に表情が出ないので、相手の心の内が見られないので、韓国の名人も碁石だけで、勝負を進めたのじゃろう。人形の顔に表情が出れば、この名人と人形の試合は面白くなりそうじゃ。碁は、対局者の顔や姿や、間を見ながら、その心理状態を斟酌して、碁石を打たないと、勝てないというのがわしの経験じゃ」

「なにぃ?そのからくり人形は自分で学習して、過去の棋譜を全部暗記して、その上で、さらに、独自の碁を作り出すのか?「深層学習」と言うのか。わしにはさっぱり分からんが、人形が比叡山で、千日修行でもして、悟りを得るようなものかね。その「からくり人形」は夜も寝ないで、学習出来るのか?何ということだ!ウーン、それでは次の試合では、その韓国の名人は1勝も出来なくて、全敗する可能性があるな──」


(本堂内にて、この場所で本因坊戦が実施された)


「人形が、自ら学習能力をもって、進化するとすれば、ちと恐ろしいことになりそうだな。その学習能力の早さが桁外れとすれば、人間の智力を凌駕するのは時間の問題だろう。となると、我々人間とは全く異なる次元の手を打つ可能性がある」

「まあ、しかし、今の話は碁の話だ。趣味の話で、勝つても負けても別にどうということではない。わしは、碁の名人で、家元だなどと言われているが、あくまで余技で、本職は寺の僧侶だ。仏の教えを守り、法華教を広めるのが、役目だ。敢えていえば、そんな南蛮製の「からくり人形」を真正面に相手にしないで、別の和製の「からくり人形」を考案して、人形同士で碁を戦わせたらいい。飛騨の高山では、精巧な「からくり人形」を作っているが、あそこに依頼して、碁のできる新しい人形を作ればいいだろう」。お宅も理解できるだろうが、わしと馬がかけっこをして、わしが馬に勝てると思うかね。そんな話じゃないかな」

「ただ、この噂話を聞いて以来、わしが心配しているのは、この「からくり人形」の頭が、碁ではなく、別なこと、はっきり言って、実戦の場に応用されると、大変なことになると案じているよ。そうだろう、我が国の今までの戦を全部、記憶して、それをもとに、日本全土を碁盤に見立て、新しい戦略を立てられたら、戦の天才と言われる武田信玄や、信長公、秀吉公も、そして家康公も、連戦連敗かもしれない。真田丸なども、鎧触一蹴されるだろう」

「となると、「からくり人形」を操る人、あるいは「人形」自身が、天下を取ることは大いに可能だ。壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、桶狭間の戦い、長篠の戦いなどの実践の詳細と関与した人物の心理などを理解、記憶されたら、その人形を軍帥とした武将は、群雄割拠の時代を終結し、あっと言う間に、天下を統一するだろうな。だれが勝残るかは知らんが、信玄が、その人形を手に入れたら、もっと早く瀬田の唐橋に風林火山の旗が翻っていたかもしれない」

「信玄には残念ながら、京都へ一足先に上洛してきたのは、信長公であった。征夷大将軍となり、天下に号令を掛けるのは、もう時間の問題であった。公の旗印の「天下布武」が成り立つ寸前であった」。


(寺町通りから見た本能寺、寺内には、信長の墓所、蘭丸等本能寺で殺害された部下の墓がある)

「──信長公といえば、天正10年6月1日、つまり、あの「本能寺の変」が起きる前日の夕刻にわしは公とお会いした。その日の午前中は、宿泊先である本能寺に、信長公は、親交のある殿上人や博多の豪商を招き、書院で茶会を開いた。安土から、多数の名器を持参されて、茶を振る舞われた。後日、本能寺の僧侶に聞いたが、公は上機嫌で、数日後には、中国・四国方面へ戦に出るという緊張感など全くなく、戦ごとの話しも皆無であったとか」

「わしが21歳の頃、信長公が寂光寺に来られて、碁のお相手を依頼されたことがある。公の手は拙い方ではなかった。わしの碁を打つ手には、ひどく感心しておられた。
その時、信長公が帰宅される時、寺の山門前で、お見送りしたが、広い寂光寺の周辺は、信長公の馬廻り衆や、弓衆などががっちり固めていた。馬廻りの侍は、みな大男で、長い斬馬刀を背負っていた。騎馬の相手が乗っている馬を切る刀でな、普通の人には持てないような大刀であった。そりゃ、猫の子一匹入る隙間もないくらい、厳重な警護であったよ」

「しかし、あの日昼前に本能寺に呼ばれたが、寺の周囲の護衛が殆どいないのを見て、驚いたものだ。以前とは大違いだった。もっとも、本能寺には、空掘や土塁も築いてあって、防備は確かなので、護衛も軽くされたのかもしれない。それにしてもだ、いまや世間の注目の的となっている信長公の周辺に、護衛兵が少ないのには合点がいかなかった」


(本能寺内の織田信長の墓所)

「ご存知かと思うが、当時信長公の命を狙うものは、各地にごまんといた。武田や浅井、朝倉の残党、石山本願寺の門徒、叡山の焼き討ちを逃れた僧兵、各地の武将達、信長公に僅かな隙でもできたら、命を狙って襲ってくるはずじゃ。信長公は、戦の世の常とはいえ、武将や軍兵だけでなく、無辜の民に至るまで、随分と惨いことをされたのはわしの耳にも入っている。伊勢長島では、2万の人々が焼き殺されている」

「あの日、わしは本能寺の別室で鹿塩利賢と対局していた。信忠公が宿舎に帰還されたあと、信長公はわしらの対局を観戦された。すこし酒臭い息であったし、また頬は紅潮していた。碁は順調に進んでいたが、なんと三劫が出来て勝負がつかなくなった」

「お宅は碁を打たないということで、劫のことは知らないと思うが、劫とは要するに1子をめぐる石の取り合いのことじゃ。劫が生じたら、囲碁のルールで、すぐに取り返すことはできないので、何処か別のところに打ち(これを劫立てという) 、そこを相手に受けてもらってから取り返すのじゃが、これが3箇所にできると、1子の取り合いが永遠に続き、勝負がつかなくなる。これが「三劫無勝負」と言われるものじゃが、こんなことは滅多に起こるものではない。わしと利賢は不吉だと思ったが、公には黙っていたよ」

「しかし、わしらの顔に出た不安感と、碁石の動きが止まったのを観て、信長公は、酔いも冷めて、不安そうに、碁盤をじっと観ておられた。わしが、この碁は1子の取り合いが長く続く、と言うと、信長公の顔色は青白くなった」

「公は、その瞬間、我が身と信忠公の置かれている状況に、気が付いたのではなかろうか。常に身の回りを守ってくれている剛力な馬廻り衆や軍兵がいない。今夜は20人くらいの小姓と数名の侍だけだ。馬廻り衆は、知行地に返し、5日に本能寺に集合し、光秀の軍勢の後を追うことになっている。相手が誰にせよ、今囲まれたらおしまいだ。茶会に気をとられ過ぎたことに気がつかれたーと思う」

「傍にいた小姓に、蘭丸を呼べと大声で言われた。蘭丸が来ると、なにやら小声で話していた。用件を聞くなり、蘭丸はただちに、急ぎ足で外へ出た。信忠に連絡を入れたものと思えるが、時すでに遅すぎたようであった。光秀の軍勢は老の坂に向かっていた」

「碁は3番打ったが、もう真夜中になっていた。わしと利賢は本能寺を出て、それぞれの家に帰宅した。本堂の入り口にいた宿直の侍達が、数名、門前で見送ってくれた。来た時と同様に、山門近くの松明の明かりの傍に立つ護衛の兵士の姿は疎らであった。寂光寺に着くと、わしはすぐ寝所に入って、横になった。緊張していた所為か、眠れず、微睡んでいた」

「暫くすると、町で何事かが起きたようで、寄せ貝、陣鉦、押し太鼓の音、大勢の人の喚声が上がり、軍馬のいななきが静かな京の空に響きわたった。回廊に出て外を見ると、先ほどまでいた本能寺と二条御所から、紅蓮の炎が上がっていた」

「寺の若僧が出かけて、様子を見てくると、桔梗の紋入りの旗印から、明智光秀の軍勢が、主君信長公に謀反を起こしたことが判明した。信長公の周りに、無敵の馬廻り衆、軍兵がいないことを知っていたのは、諸国の敵よりも、味方の光秀であったのだろう。蘭丸兄弟などの奮戦も空しく、1万3千の大軍に攻撃されて、勝負はすぐついた。信長公は自害し、火を放って、自らの体を焼いた」

「わしは、前夜の手薄な本能寺の様子を察知したので、信長公に、至急大津へでも退去し、安土に飛脚を飛ばして、応援の兵を待っように進言すればよかった。さすれば、お命は助かった可能性がある。わしは、後悔している。碁をしながら、1子先が読めなく、破れたような気分であった。「からくり人形」にでも問えば、答えは、即座に出て、「信長公は本能寺から脱出せよ」と、出たのではなかろうか。もっとも、わしなど一介の若い僧侶が、信長公に、身の危険を提言するなど笑止千万で、取り合ってもくれなかったであろうがのう。公は敵に襲われるなど、夢にも思っていなかった筈だ」

「もちろん、信長公は引く事を知っておられる。かつて、娘婿の浅井長政が反旗を翻したとき、朝倉との戦いを止め、ただちに安土に逃げ帰っている」

「近い将来、新式の強力な火縄銃を駆使できる「からくり人形」が発明されたら、そして、その発明者が世界地図を見ながら、覇権を狙うとすれば、あるいは人形自身が、地球を征服すると仮定すれば、あと20~30年後には、地球の運命は大きく変わるじゃろう。詰まらん話をしたが、春の日の陽炎の言葉とでも思って、忘れておくれ。また碁の好きな友達をここに連れて来て、碁の話しでもいいし、「からくり人形」の話しでもして下さい。待っていますよ」

「そろそろ行かないか?」という友人の声で、我に返った。白日夢でもいい、本因坊算砂と話しができれば、と思いながら、仲間と一緒に寺を後にした。(終)


備考:本因坊算砂(1559-623、64歳)、織田信長(1534-82、49歳)、宮本武蔵(1584-645、61歳)。碁の知識は、畏友福島宏氏にご教示頂いた。過日、住職大川定信氏に、元学生達と一緒に寂光寺本堂内を案内して頂いた。記して感謝。
昨日(4/4)は、桜見物に出かけた。御池通りをまっすぐ東山に向かって歩くと、事務所から7分ほどで、木屋町に着く。高瀬川に沿って、すこし上ると、見事な桜が咲いていた。毎年、春になるとここにきて、川に係留した高瀬舟と酒樽をみる。

写真を取ったが、「年々歳々花相い似たり 歳々年々、人同じからず」を想い出した。たしかに、「人同じからず」で、京都は今ものすごい数の異邦人だ。爆買いならぬ、爆訪である。とくに桜の季節沢山の人が来ている。内藤先生が、フェースブックに、「京都に来ないでください。いま外国人で一杯です」と警告を出すくらいだ。

いつぞやは、通りを歩いていると、横の外国人夫妻と子供の会話が聞けた。ドイツ語で話しているので、てっきりドイツ人家族を思い、話かけた。もちろん英語である。ドイツ語は聞けば、ドイツ語と直ぐ判る程度だ。大学の教養で、第2外国語として、ドイツ語を選択して、die, der, dasと憶えたのが、もう半世紀前だ。そのときも、専らシュニッラーの作品などを習ったが、会話はなかった。


残念ながら、ドイツからではなく、オーストリア人で、ウィーンから来られたとかであった。夫人の方が、積極的に話してくれた。京都は素晴らしいとのことであった。二回目の観光とかであった。ご主人は若いが、不動産会社の社長とかであった。ホテルではなく、旅館に宿泊しているらしく、高倉通りで、お別れした。

ウィーンには学会で4回ほど訪ねた。ある時は、専攻分野で、同じ分野の研究をしている人がウィーン大学の外科の教授をしているので、訪ねた。生憎と教授会とかで、暫く研究室で、実験でも観ていて欲しいとのことで、若い研究者が2人を紹介してくれた。どちらも医師で、就職先が見つかるまでは、研究しているとか話していた。


驚いたことに、この大学の1学年の学生数は700人と聞いた。日本の約7倍だ、こんなに沢山の学生をどのように教育するのだろうかと首を傾げた。単純に計算しても、700x6=4200人の医学生が在学していることになる。1学年の学生を一度に講義すると、コンサートホールなみの教室がいると思った。


講義の受講は問題ないが、臨床実習が出来なくて、順番待ちとかであった。医師の数が溢れる筈で、就職が困難なのは判るが、EUとなっているので、ヨーロッパは、希望すれば、どの国でも、医師として、働ける。2~3時間待っている間に、世界最初に胃ガンの手術に成功したテオドール・ビルロートの銅像などを見学した。私の友人の先輩教授である。

その夜は、教授夫妻の案内で、町の中を見学し、あるレストランで夕食をご馳走になった。多種類のチーズとソーセージが置いてあった。ベートーヴェンがよく来たレストランと聞いた。彼の住居の近くであった。別の機会に、ベートーヴェンのお墓もお参りしてきた。墓の直ぐ後ろにドングリが落ちていたので、拾って、お土産にした。

今から買い物に出かけるが、100円ショップにも、外国人が来て、購入している。1ドルショップだ。あちらにもあるのだろう。

折角だから、桜の写真をアップする。高瀬川の傍の桜です。かつては、新撰組の隊士達も、市中見回りに際しては、夜桜を見学したのであろう。
1: ある金曜日の夕方、一日の実験が終了したので、研究室の扉を閉めて、町に出た。久しぶりに、町で飲もうということになった。純大に今から皆で町に飲みに行くが、どうするかと聞くと、一緒に行くという。お母さんにその旨伝えておくように言った。大学のあるマノアからワイキキまでバスで約10分。シェラトンワイキキホテルの一階の奥にある、海とプールの傍にあるバーに向かった。

テーブルが1つ空いていたので、椅子を集めて、のんびりと雑談した。皆それぞれ好きなカクテルを注文した。私は、ブルーハワイを注文し、純大は、オレンジジュースを注文した。ナッツが置かれたので、それを摘みながら、私は小さな傘のようじの刺さったサクランボ?が乗ったグラスのカクテルを、飲んだ。純大の飲み物にも、傘のようじがオレンジの切れ端に刺さっていた。もちろん、オレンジを絞った本物のジュースだ。


ハワイ独特の見事な色の夕陽が沈み、次第に空が暗くなった。暫くすると、プールも閉められ、人影がなくなった。海からは微風が吹いて、横では生バンドが賑やかに演奏していた。踊っている人たちもいた。みなハワイの夜を満喫していた。

コールリッジの詩のように、「陽の欠片が落ち、一挙に星が輝き、またたくまに闇がやってきた」であった。1週間の実験の緊張がほぐれて、順大も含めて、皆ほっこりしていた。ウサギの脳の血管を取り出し、装置に固定するまでは、緊張する。途中で血管が切れたら、一日が終わる、というか、一日が無駄になる。

1時間半ほど、雑談をした後、お開きになった。阪大生3人と私と純大の5人で、ビルには100ドル少しであったので、おおまかに5で割って、1人20ドルの分担で了承された。チップは年長の私が置いた。純大からも20ドル集めた。ウェイターが支払いをレジに届けた後、彼はぽつりと、「ジュース1杯20ドルかぁ」と言った。


どきりとした。こういう飲み会の時では、通例会計は割り勘と相場が決まっているので、単純に割ったのだが、純大はオレンジジュースだった。カクテルよりは安い筈だ。普通のお店では、紙コップ入りのジュースは、せいぜい3~5ドルだ。そう言われて、20ドルは拙いなと思ったが、皆は席を立ったので、そのままにしていた。あとで、皆で飲む時は、飲まない人でも、追加注文した人でも、同額を払うのが普通と説明しながらも、忸怩たるものを感じた。

その時は、2杯目を注文して飲んだ人がいたように記憶する。話の中には、研究室での教授の話、助手の話もあり、純大も、会話に参加していた。つまり、その日のコンパの一員だ。しかし、子供に割り勘の説明が理解できるか否かは、不明で、弱ってしまった。結局20ドルは払って貰ったままであった。それに、こちらも、カクテルを飲んでいい気分。

単順に考えて、子供心には、1杯20ドルのオレンジは高かったのだろうなと思った。場所代も彼の勘定には入ってはいないだろう。家に帰って、「お母さん、皆さんとホテルのバーに行ったけど、ジュース1杯20ドルだった」と言われたら、どうしょうと冷や汗が出る思いだった。誠に、気が回らぬことであったと今でも、あのオレンジを想い出すと、「すまん」と思うことしきりである。


先日の式では、純大は注がれた酒をごくごく飲んでいた。いつの間にやら、酒が飲めるようになったようだ。かなり強いと感じた。いつの日にか、純大に、「無法松の一生」のリメイク版に出演して、あの松五郎を演じてもらいたいと夢見ている。酒を飲んで酩酊するくらいの男でなければ、あの松五郎になるのは、難しいだろう。坂妻の松五郎は、秀逸であった。彼は酒を飲み、祇園で遊びまくっていたと聞く。その人となりが、あの役を見事に演じて、万雷の拍手と涙を勝ち得たのであろう。

2: 彼が大学生のころ、偶々ヒルトンワイキキホテルの中庭にある和食店で会ったことがある。純大は、そのすぐ前には三船敏郎氏とお茶を飲んでいたとかであった。食事の後で、2階のカラオケ店に行き、歌を歌った。S教授夫人、研究生、彼と彼の妹と私、私の娘の計6人で、歌った。私が憶えたばかりの高倉健の「時代遅れの酒場」を歌った後、純大からコメントを貰った。

「先生の歌は、歌うというより、話している感じですね」。「かもね、じゃ、純大も歌えよ、ビートルズの「イェスタデー」を知ってるか?それと、お父さんのヒット曲、「すきま風」を歌ってよ」。さすがに米国の大学に通っているだけあって、ネイテイブのように、「イエスタデー」を実に綺麗な発音で、歌った。見事であった。


他の席には、一人の中年の男性がいて、我々と交互に歌っていた。専ら、「兄弟舟」「兄弟仁義」の類の男っぽい歌であった。なんと「すきま風」も歌っていた。やけ酒でも飲んでいるような調子で歌うので、聞く方がしんどかった。

純大の妹(真由美さん)の番になった。一般にこういう時は、恥ずかしいとか言って、パスするかと思ったら、なんとマイクを握って、最近の流行歌を颯爽と唄いだした。これまた兄同様に歌が上手いので、唖然とした。遺伝だろうか。

先日の結婚式で、純大に「イエスタデー」を歌ってくれと電話で頼んだが、歌う人は他にいますからと言っていた。敢えて歌うように頼むと、「そうですね、考えときます」と言った。事実、ある有名な女性歌手が、歌を披露した後、「純大さんも歌は上手なので、いつか聞かせて欲しい」と言っていた。司会者がフォローしなかったので、純大の歌は聞かれなかった。時間もなかったのであろう。自分の息子が歌う「すきま風」を聞いたら、杉氏は、驚くに違いない。


3: 純大が本「命のビザを繋いだ男」(NHK出版)を出した。一冊贈呈された。表紙裏には、岡部先生へ Jundai Yamadaと署名してあった。一読して、また挿入された数々の写真を観て、かつて一緒に遊んだ少年が、成長して、此の様な優れた本を一冊上梓したことに感銘を受けた。改めて、昔のアルバムを見ていたら、彼と妹さんたちが、S教授の自宅で、先生の奥様の裁縫用のクジラ尺を持って、チャンバラゴッコをした後の写真があった。



今太秦に缶詰されて、撮影中のようだが、一息入れたら、また何かよいテーマを見つけて、本を書くと良いが。粗稿が出来たら、大学で心理学を学んだ夫人にも一読して貰って、文章を推敲して頂けるだろう。純大および夫人の今後のご発展を楽しみにしている。

追記: このハワイの研究室で、動物の血管標本を使用に慣れたので、帰国後、秋の学部学生実習では、従来の小腸の摘出標本に加えて、血管標本も使用した。血管を輪状に切って、セルフィン(ステンレス製の極小の洗濯ばさみ)で吊るして、薬物の効果を学生たちに調べて貰った。研究でも、また純大およびご家族と知己となったことでも、この一夏は得るところ非常に大であった。