先日、ある友達と話していて、 

「不登校になる子って、やっぱりその子に問題があるの?」 

と訊かれました。ちなみにその友は、教育関係者ではなく、一般的なビジネスパーソンです。
僕は即答しました。 

「不登校になるのはその子の責任じゃない」 

と。 

『その子の責任じゃない場合がほとんどだ』というような中途半端な物言いではなく、
「その子の責任じゃない」
と反射的に言い切ってみせた自分自身にちょっと驚きました。この仕事を始めて15年が経ちますが、もしかしたら5年前なら、『ほとんどだ』みたいな言い方をしていたのではないかと思います。

「じゃあ、何が理由で不登校になるんだろう?」
友に重ねて質問された時に、僕が言ったのは、
「流れ、フロー、としか言いようがない」 

ということです。 

抗えない流れが生じて、その流れに身を委ねているうちに不登校児になったり高校中退者になったりする。でも、その経緯の中で、本人に絶対的な非があるわけではない。むしろ、悪いことなんて何もしていない。 

友は、 

「なるほどな……。流れってあるもんね」 

と、しみじみとした語調で言いました。 

そう。善い流れ、悪い流れ。たいていの人の人生にはその両方が不規則的に生じます。もちろん、本人の努力やら他者の助けやら何やらで、悪い流れを越えていけることもある。
だけど、悲しいかな、
《どうにもなんないんだ……》 

ってこともあると思う。 

なんでもかんでも自己責任論で片付けちゃう冷たい阿呆が増えている世の中ですが、そうじゃない。どうやっても抗えない流れに巻き込まれて、孤島のようなところへ行き着いちゃうことだってあるのが、人の人生だと思います。 

ならば、そういう人を見つけたら、助けられる人が助けるべきだし、しんどい人は逡巡することなく、
「助けてくれ!」 

と声を上げるべきです。というか、「助けてくれ!」と声を上げやすい社会を作ることが、大人の責務のひとつなのではないでしょうか。それは不登校児や中退者の問題に限らず、です。今苦しい人が、「苦しいんだ。助けてよ」と言いやすい社会。 


僕個人の話で言えば、と前置きしてから友に語りました。 

「今更、金持ちになれるとか教育界のカリスマになれるとか全く思っちゃいない。能力的にも無理だけど、脳梗塞やら喘息やら大きな持病もあって、時間的な制限だってあるから。出来ることは明らかに限られてる」

 「……」 

「でも、残された時間の中で、できる限り『たすけてくれ』に応えたいと思ってるんや」 

「うんうん」 

温かい声で相槌を打つ友に向かって僕はこう言い足しました。 

「うちには性格的に優しくて、能力的に秀でた若者たちがたくさんいる。うちの講師たちなら、苦しい子をちゃんと助けられるねん」 

友は、僕の言葉を受けて、 

「今私に話したようなことブログで書いてよ」 

と言いました。なので、書いてみました。