ついに最終章考察編です。
最初に言っておきます。この道の正体は明かせませんでした。
しかし、この道の真実についてかなり近いところまで行ったと思います。
さて、この道の真実に迫りたいと思います。
まず最初に見てみたのは、長野市行政地図情報
このサイトでは、長野市内の道路を区分別(県道、市道、農道)に表示している。
長野市行政地図情報でこの辺りの地図をみると以下の様になる。

上の地図を見ると大体今回の撤退場所とこの行政地図の末端がほぼ一致してることが分かる。
このことから恐らくこの行政もこの崩落から先の状況は分からないのだろう。
もう一つ面白い点が、この道なんと途中で分岐していたのだ。
大体この辺り

よく見たらトタンの方に道があるようにも見えなくもない・・・・・
これは要調査ですね。
ここからは本題、この道の行政の区分は
どうやら現在この道は市道として扱われているらしい。
ただ、この情報ではこの道の真実に近づいたとは言い辛い。
そこで、探索時の2つの仮定を元に調査をしてみた。
まずは、国道406号の旧道である仮定について詳しく調査をしてみたいと思う。
この国道406号戸隠付近は、昭和56年4月30日に国道として認定されるまで、白馬長野線と呼ばれる県道だった。
戸隠村誌ではこの白馬長野線について以下のような記述がある。
以上の記述より、国道406号の旧道と言われる北城長野線は道幅が3-4mとわかる。
しかし、今回の道は隧道は言うまでもなく、ほぼ全線道幅が3m以下であったのである。
更に、裾花ダム建設前の道路地図を見てみたが、旧道はほぼ川に沿って走っており、現在の位置に合わすとどうしてもダム湖の底に存在するのである。
(この地図を掲載したかったが、この位置は『地形図長野』と『地形図戸隠』のちょうど境目のため上手く編集できずに断念しました)
もう一つこの水没したという考えに拍車をかけたのが長野市誌にあるこの記述だ
以上の記述より付け替えられた道路は遥か上方であり旧道は水没したと考えられる。これよりこの道路が国道406号の旧道だという可能性は低いと考える。
次は、1944年に休止された善光寺白馬電鉄の未成区間ではないかという仮定について検証していきたいと思う。
まず、この隧道は善光寺白馬電鉄の未成道ではないということだ。
これは、善光寺白馬電鉄が使っていた車輛『善光寺白馬電鉄ゼ100形気動車』の大きさがこの隧道より大きいことである。
善光寺白馬電鉄ゼ100形気動車の基本寸法は全長12,020 mm、車体長11,300 mm、全幅2,680 mm、車体幅2,600 mm、全高3,555 mmであり、隧道のサイズより大きくなる。
また、この廃道の橋を超えた場所、地図でいうこの部分

この部分ではほぼ直角に道が曲がっているのである。
鉄道の線形についてあまり詳しくはないのですが、あの道の線形は鉄道の線形の可能性は低いと考えました。
これらの情報よりこの廃道が善光寺白馬電鉄の未成区間であるという可能性は低いと考えられる。
では、この廃道は何者なのか?
次に私が目を付けたのは、裾花ダム建設による付け替え道路という可能性だ。
まず最初に探した資料は、ダム工事誌である。
ダム工事誌とは、公共工事またはそれに類する土木工事が完了した際に、建設主体である国、自治体、または法人などから刊行される公式記録を記した書物。
多くのダムには工事誌が発行されている。これには、道路補償などの項目もあり、付け替え道路を調べるには最適だと考えた。
そこで早速図書館へ向かうが、裾花ダムにの工事誌がない・・・
次に県庁へ向かい行政情報センターにて、工事誌を探すがここにもない・・・
そこで長野県行政情報センターの目次検索で『裾花ダム』と検索をしてみると裾花ダムのパンフレットが何故か木曽と佐久の行政情報センターで閲覧できる。
そして最後にぐーぐるさんで検索をしてみるとあるpdfデータを発見し見てみると裾花ダムには工事誌は発行されていないみたいでした・・・
裾花ダムの事務所にいけば何等かの情報があると思うのですが、いかんせん冬になり裾花ダムまでの足がなくいけないので・・・・
ここで諦めてしまっては元も子もないので様々な資料を読み漁り貴重な情報を手に入れました。
その情報というのが『上水内郡誌』の裾花ダムに関する記載されていた以下の文である。
ここではじめて出てきました。『川場』という文字。
ちなみにこの『川場』角川日本地名大辞典や祖山村時代の村史で字を調べても記載がなかったので恐らく、この上水内郡誌に記載されている下川場農林道が今回通った道である可能性が高くなった。
ただ、隧道に関する話が一切なく、これで確定するのには少し情報が足りなかった。
まず最初に見てみたのは、長野市行政地図情報
このサイトでは、長野市内の道路を区分別(県道、市道、農道)に表示している。
長野市行政地図情報でこの辺りの地図をみると以下の様になる。

上の地図を見ると大体今回の撤退場所とこの行政地図の末端がほぼ一致してることが分かる。
このことから恐らくこの行政もこの崩落から先の状況は分からないのだろう。
もう一つ面白い点が、この道なんと途中で分岐していたのだ。
大体この辺り

よく見たらトタンの方に道があるようにも見えなくもない・・・・・
これは要調査ですね。
ここからは本題、この道の行政の区分は
名称
戸隠南432号線
分類
市道その他
路線番号
93432
道路種別
市道その他
戸隠南432号線
分類
市道その他
路線番号
93432
道路種別
市道その他
どうやら現在この道は市道として扱われているらしい。
ただ、この情報ではこの道の真実に近づいたとは言い辛い。
そこで、探索時の2つの仮定を元に調査をしてみた。
まずは、国道406号の旧道である仮定について詳しく調査をしてみたいと思う。
この国道406号戸隠付近は、昭和56年4月30日に国道として認定されるまで、白馬長野線と呼ばれる県道だった。
戸隠村誌ではこの白馬長野線について以下のような記述がある。
国道406号線
大正12年に県道として認定された現在の国道406号は、昭和20年代から30年代にかけて、まだ県道北城長野線と呼ばれ、道幅3-4mの狭い未舗装の道だった。しかも車の通行は、長野からの場合は、実質的に鬼無里村止まりという袋道の状態だったのである。
当時の記録によれば、長野市から鬼無里までの間に、桟道は実に78ヵ所もあり、急カーブも多く危険な道路であったという。また、道が狭く待避所も少なかったため、車同士のすれ違いにも苦労するという状況が続いていた。
<中略>
当時の県道北城長野線が、現在の状態に大きく近づく契機となったのは、裾花ダムの建設である。長野市小鍋地籍のこのダムの建設よって、村内のいくつかの集落とともに、この区間の道路も水没することになったのであるが、それに代わってダムの周辺には、約4.6kmの長さにわたり付替道路が新設されたのであった。昭和41年6月に完成したこの道路は、元の道に比べてカーブが少なく距離も短くなり、道幅も5mと広げられたため、より安全な上、長野市までの時間が短縮されたのである。
『戸隠村誌』より
大正12年に県道として認定された現在の国道406号は、昭和20年代から30年代にかけて、まだ県道北城長野線と呼ばれ、道幅3-4mの狭い未舗装の道だった。しかも車の通行は、長野からの場合は、実質的に鬼無里村止まりという袋道の状態だったのである。
当時の記録によれば、長野市から鬼無里までの間に、桟道は実に78ヵ所もあり、急カーブも多く危険な道路であったという。また、道が狭く待避所も少なかったため、車同士のすれ違いにも苦労するという状況が続いていた。
<中略>
当時の県道北城長野線が、現在の状態に大きく近づく契機となったのは、裾花ダムの建設である。長野市小鍋地籍のこのダムの建設よって、村内のいくつかの集落とともに、この区間の道路も水没することになったのであるが、それに代わってダムの周辺には、約4.6kmの長さにわたり付替道路が新設されたのであった。昭和41年6月に完成したこの道路は、元の道に比べてカーブが少なく距離も短くなり、道幅も5mと広げられたため、より安全な上、長野市までの時間が短縮されたのである。
『戸隠村誌』より
以上の記述より、国道406号の旧道と言われる北城長野線は道幅が3-4mとわかる。
しかし、今回の道は隧道は言うまでもなく、ほぼ全線道幅が3m以下であったのである。
更に、裾花ダム建設前の道路地図を見てみたが、旧道はほぼ川に沿って走っており、現在の位置に合わすとどうしてもダム湖の底に存在するのである。
(この地図を掲載したかったが、この位置は『地形図長野』と『地形図戸隠』のちょうど境目のため上手く編集できずに断念しました)
もう一つこの水没したという考えに拍車をかけたのが長野市誌にあるこの記述だ
裾花ダム計画は、昭和37年4月、国に採択され、同39年9月には県道付け替え工事が着工した。路線の決定は、左右両岸の利害が反するため調整が難航した。小鍋地籍から土合地籍までけわしい絶壁をぬって、6ヵ所の隧道と2本の橋によって結んだ。けわしい絶壁を最大80m上方へ付け替える工事により、その鉄橋は裾花大橋と命名された。この県道付け替えによって芋井地区西部の峡谷地帯の交通事情は格段に向上し、のちに小中学生の通学区も市街地へ変更されることとなった。
『長野市誌』より
『長野市誌』より
以上の記述より付け替えられた道路は遥か上方であり旧道は水没したと考えられる。これよりこの道路が国道406号の旧道だという可能性は低いと考える。
次は、1944年に休止された善光寺白馬電鉄の未成区間ではないかという仮定について検証していきたいと思う。
まず、この隧道は善光寺白馬電鉄の未成道ではないということだ。
これは、善光寺白馬電鉄が使っていた車輛『善光寺白馬電鉄ゼ100形気動車』の大きさがこの隧道より大きいことである。
善光寺白馬電鉄ゼ100形気動車の基本寸法は全長12,020 mm、車体長11,300 mm、全幅2,680 mm、車体幅2,600 mm、全高3,555 mmであり、隧道のサイズより大きくなる。
また、この廃道の橋を超えた場所、地図でいうこの部分

この部分ではほぼ直角に道が曲がっているのである。
鉄道の線形についてあまり詳しくはないのですが、あの道の線形は鉄道の線形の可能性は低いと考えました。
これらの情報よりこの廃道が善光寺白馬電鉄の未成区間であるという可能性は低いと考えられる。
では、この廃道は何者なのか?
次に私が目を付けたのは、裾花ダム建設による付け替え道路という可能性だ。
まず最初に探した資料は、ダム工事誌である。
ダム工事誌とは、公共工事またはそれに類する土木工事が完了した際に、建設主体である国、自治体、または法人などから刊行される公式記録を記した書物。
多くのダムには工事誌が発行されている。これには、道路補償などの項目もあり、付け替え道路を調べるには最適だと考えた。
そこで早速図書館へ向かうが、裾花ダムにの工事誌がない・・・
次に県庁へ向かい行政情報センターにて、工事誌を探すがここにもない・・・
そこで長野県行政情報センターの目次検索で『裾花ダム』と検索をしてみると裾花ダムのパンフレットが何故か木曽と佐久の行政情報センターで閲覧できる。
そして最後にぐーぐるさんで検索をしてみるとあるpdfデータを発見し見てみると裾花ダムには工事誌は発行されていないみたいでした・・・
裾花ダムの事務所にいけば何等かの情報があると思うのですが、いかんせん冬になり裾花ダムまでの足がなくいけないので・・・・
ここで諦めてしまっては元も子もないので様々な資料を読み漁り貴重な情報を手に入れました。
その情報というのが『上水内郡誌』の裾花ダムに関する記載されていた以下の文である。
長野市の上水道用水確保、電力開発、裾花川上流沿岸地域の開発を目的として、裾花川渓谷(小鍋地区)に高さ88.5mの多目的ダムを建設することになった。これは昭和36年(1961)のことである。このようにして裾花総合開発によるダム建設工事は翌37年に着工され、昭和44年(1969)末に竣工した。この工事に伴い道路関係でも関連した事業が行われた。県道長野白馬線の改良はダム建設に次ぐ大工事で、つけ替道路のため、小鍋地区には、小鍋隧道1・2・3号、七階沢隧道、裾花大橋、城岩トンネル、裾花トンネル、萩久保橋、川下隧道、戸隠橋が建設された。さらに戸隠村内の参宮線改修・折橋架替、綾織橋および宮田線改修、川下・下楡木・間中橋間の村道新設、下川場農林道の開設、下内。中組・坪山地区道路整備、戸隠橋の架設替、参宮橋架設などが行われた。
『上水内郡誌』より
『上水内郡誌』より
ここではじめて出てきました。『川場』という文字。
ちなみにこの『川場』角川日本地名大辞典や祖山村時代の村史で字を調べても記載がなかったので恐らく、この上水内郡誌に記載されている下川場農林道が今回通った道である可能性が高くなった。
ただ、隧道に関する話が一切なく、これで確定するのには少し情報が足りなかった。
今回の考察はここまでです。
とても中途半端な結果になってしまいました。
もし、これが下川場農林道でありダムの補償工事として建設されているのならば恐らくダム建設時の工事資料なんかに情報があるはずなんですが・・・・・
もし、この辺りの情報がありましたら情報提供お願いします。
ここからは蛇足
もしこの道が下川場農林道と仮定して、いろいろ調べてみた。
農林道と言う程であるのでこの道は畑などに接続してるはず・・・
しかし、現地探索では畑など耕作地は見かけなかった。
ここで国土地理院で公開されている航空写真を閲覧してみた。
もしこの道が下川場農林道と仮定して、いろいろ調べてみた。
農林道と言う程であるのでこの道は畑などに接続してるはず・・・
しかし、現地探索では畑など耕作地は見かけなかった。
ここで国土地理院で公開されている航空写真を閲覧してみた。
ここからは次回・・・・
忙しくて全然書き進められず申し訳ないです・・・・
とりあえず書き進められてる部分のみ公開いたします。
2月になれば時間があると思うので恐らく完結は2月中旬予定です。






























