全国の70億ほどのファンの諸君、おはよう。

元気にしていたか?

 

 

今日は葛藤の話をしようと思う。

 

 

葛藤とは、簡単に言うと引き裂かれるエネルギーだ。

 

 

『右へ進むエネルギー』と

 

『左へ進むエネルギー』が

 

同時にする存在、とでも言えば分かるだろうか。

 

 

ちょうど、イメージとしては「大岡裁き」のようだな。

 

 

この別方向へのエネルギーが同時にする状態を、葛藤と呼んでいるのだ。

 

 

それぞれ、葛藤を感じたときの身近な例に置き換えてみてほしい。

 

 

「あることをしたい」と思うエネルギーと

 

「それはできない」という前提のエネルギー。

 

その2つが同時に存在することで、葛藤は生じる。

 

 

 

そしてその2つは、『理性』と『感情』が別方向へ引き合うことが多い。

 

 

『○○をしたい。しかし、常識的に考えればすべきでない。』

 

のように。

 

 

 

『○○をしたい』と思っている感情の声を、『常識的に考えればすべきでない。』という理性の声が押さえつけている。

 

また、その逆もあるだろうな。

 

 

このように、葛藤は2つの異なる方向へのエネルギーが同時に存在する状態を指す。

 

 

勘違いしないように伝えておくが、この葛藤が悪いと言っている訳ではない。

 

あくまで、そういうエネルギー状態を指すということを説明しているに過ぎない。

 

 

 

しかし、葛藤は大きくなると痛みを伴うものになる。

 

引き裂かれようとしているのだから当然だ。

 

 

 

では、この葛藤の状態から抜けるためにはどうしたら良いか?

 

 

答えは単純だ。

 

そう、エネルギーの方向を一致させれば良い。

 

 

『感情』で感じた事と、『理性』で考える事を同じ方向に揃えるだけで、葛藤はなくなる。

 

 

……しかし。

 

それが出来ないが故に葛藤が生じているのだ、というのも理解できよう。

 

 

 

ここで手放すべき存在を明らかにしておこう。

 

それは『固定観念』と呼ばれるものだ。

 

 

固定観念とは、固定化された観念。

 

すなわち、疑うことなく、そうだと信じ込んでいる情報のことを言う。

 

 

 

『人は働かなければ生きていけない。』

 

『良いことがあれば悪いこともある。』

 

『人生、苦労の果に欲しいものが手に入る。』

 

 

この他、あらゆるすべての観念。

 

信じていない者にとっては固定観念ではなく、信じている者にとっては固定観念である。

 

 

このように、固定観念とは『信じ込んでいる事』を指す。

 

またしてもこれも、別に固定観念が悪い訳でもない。

 

 

何を信じるも当人の自由なのだらかな! フハハハハ!!

 

 

 

しかし、ここで知っておいてもらいたい事は。

 

 

『信じていることが、そのまま世界に反映される』

 

という事だ。

 

 

もちろんこれさえも信じなくても良いし、信じても良い。

 

 

 

更に、この固定観念は必要なければ手放しても良い。

 

自分自身で勝手に固定化しているだけなのだからな。外すのも当然自由だ。

 

 

 

葛藤の話に戻ろうか。

 

葛藤は、同時に存在する異なる方向へのエネルギー。

 

 

1つは『感情』、1つは『理性』

 

その『感情』と『理性』の方向が食い違う時、人は必ず「固定観念」に囚われている。

 

 

自分で固定化したにも関わらず、その観念によって縛られ、思考・行動が制限された状態になっているのだ。

 

ということは、この制限を外してさえしまえば葛藤はなくなる。

 

 

「固定観念」がなければ、『感情』と『理性』の方向が一致しないことはない。

 

故に、この「固定観念」さえ手放してしまえば、葛藤は生じないのだ。

 

 

 

どうだ、腑に落ちたか?

 

 

 

この情報を聞いて、仮にこんな言葉が出てきたとしよう。

 

『そうは言っても、そう簡単にいくなら誰も苦労しない。』

 

 

フハハハハ、そうだ。気づいたか?

 

 

その発言こそ固定観念に縛られ、葛藤が渦巻く存在そのものなのだ。

 

 

『そんなに簡単に葛藤を手放せるなら、手放してしまいたい!』と心では思っているのに、

 

『そう簡単にうまくいくなら誰も苦労しない』という固定観念が働き理性でそれを押し止める。

 

 

では、この葛藤を解くにはどうすれば良いか。

 

『そう簡単にうまくいくなら誰も苦労しない』という固定観念を、手放せば良いのだ。

 

簡単だろう?

 

そう、簡単なのだ。

 

 

しかし、『そう簡単にうまくいくなら誰も苦労しない』という固定観念を持ち続けている限り、その世界を生きることになる。

 

よって、簡単ではなくなるな。フハハハハ!

 

 

この仕組みは、分からずとも良い。理解せずとも良い。

 

 

ただ「そうなのか」と受け入れて、固定観念を手放してみよ。

 

 

 

それだけで『固定観念は簡単に手放せる』世界を生きることになり、固定観念を手放してゆくたびに、この世界で葛藤を体験できなくなってゆくであろう。

 

その違いを楽しみにしているが良いッ!

 

 

フハハハハハ!!

 

 

では、今日はここまで。

 

さらばだッ!

 

元気にしていたか?

 

まさか沈んだりしていないだろうな。

 

 

 

目に見えぬウィルスなどに怯え、我を失ったりしているようでは闇の勢力の一員としてはまだまだ半人前よな。

 

フハハハハ!

 

 

……なに、闇の勢力の一員ではないだと?

 

 

まあそんな事は些末な問題よ。

 

 

 

それよりも重要なのは、諸君らが目に見えぬ恐怖に踊らされ、先の見えぬ現実に不安を覚え、政府の要領を得ない対応に憤りを感じ、混沌となった世の中に振り回され、我を失っていないかどうかであるぞ。

 

 

どうだ、自分の胸に手を当てて今一度正直に考えてみると良い。

 

 

自分が身を置く感覚が、

 

「思いやり・調和・やすらぎ・心地よさ」に基づくものなのか。

 

「恐怖・怒り・不安・ジャッジ」に基づくものなのか。

 

 

どちらを選ぶも自由だが、

 

選んだままの答えが形となって現れる。

 

 

そう心得ておくが良い。

 

 

 

そして、闇の炎の使い手であるこの俺から言わせてもらおう。

 

『恐怖』や『不安』などの感情、それらは全くもって闇の正しい使い方ではないッ!

 

 

闇は飲まれるのではなく、飲み込むことが正しい使い方なのだ。

 

 

 

 

しかし、今日はそれについては触れないでおこう。

 

 

まずは、諸君らにこびりついた恐怖や不安といった偽物の闇を取り払い、本来の光の力を取り戻してもらうとしよう。

 

覚悟するが良い。

 

フハハハハ!!

 

 

 

ステップ①

 

『ジャッジを手放す』

 

 

良いか、諸君。

 

『許し』は恐怖からの解放の第一歩だ。

 

 

すべてを許せたものは、すべてから解放される。

 

これは真理だ。

 

 

『許せない』が故に、そこに執着が生じる。ネガティブな感情が渦巻き、コントロールしたがる。

 

極論から言うが、そこに『恐怖』がなければ人は執着しない。

 

 

『恐怖』があるからこそ、執着が起こるし思い通りにコントロールしようとする。

 

そしてそれが自分の期待した通りにならないと、『裏切られた』『酷いことが起きた』『人の気も知らないで』と、自身の感情をその事情になすりつけて自分の外側に置き、「自分ではどうにもならない事」としてそれを責める。要は『許さない』のだ。

 

そして外側へ置いた事象をずっと責め続け、自分には責任がないと放棄する。

 

 

そこに、『恐怖』がないはずがない。

 

 

全く怖くない物事に、責め心は起きない。コントロール意思は生じない。

 

『許し』てしまうからだ。

 

 

「ああ、別にそれなら大丈夫。OK!」

 

そう許してしまえるものには、恐怖はない。

 

 

 

つまり、『許せない』のは『怖い』から、である。

 

 

「あの人を許せない!」と憤っている時に、まさか恐怖を感じているなど思ってもみなかった事だろう。

 

しかし、これは真実である。

 

もちろん、信じたくなければ信じなくても構わないぞ。

 

 

闇の使い手は寛大な事で有名だからな。フハハハハ!!

 

 

しかし、その感情が『認めたくない』というものなら、1度騙されたと思って受け入れてみるのも良いだろうと思うがな。

 

その気持ちは、受け入れるのをエゴが阻んでいるだけだからな。

 

委ねてしまえば、楽になるというものだ。

 

 

……なあに、もしも結果的に騙されていたとして、騙された相手が闇の使い手だったなら「ああ、信じた自分が馬鹿だった」と開き直れるではないか。なあ?

 

フハハハハ!

 

 

まあ、その言葉を受け入れるかどうかさえも自由である。

 

諸君らの決定を尊重しよう。

 

 

闇の使い手は寛大な事で(以下略

 

 

 

話を戻すが、

 

『許せない』=『恐怖』である。

 

つまりはそういう事だ。

 

 

逆に言えば、『許せ』てしまえば、『恐怖』はなくなると言うことだ。

 

簡単だろう?

 

 

 

しかし、永きに渡りこびりついた『許せない』感覚を手放すには、相応のステップを要する場合が多いゆえな。

 

今日はその1つ目、まず行うべき事を紹介しよう。

 

 

 

それが『ジャッジを手放す』ことである。

 

 

ジャッジとは、言い換えれば批判や非難のことだ。

 

これを持っている限り、恐怖からの解放はないと思って良いだろう。

 

 

逆に、このジャッジさえ手放してさえしまえば、目の前から『許せないこと』は急激に消滅する。

 

圧倒的に恐怖はなくなり、同じ景色を見ても、見違えるように平和に見えるというものだ。

 

 

では、このジャッジの手放し方であるが。

 

 

 

 

 

 

 

『わたしはジャッジを手放す』と、宣言するのだ。

 

 

 

 

 

 

誰に対して?

 

 

自分に対してだ。

 

 

 

 

それだけか、と思ったか?

 

 

無論それだけではない。

 

 

 

 

しかし、はじめの大きな一歩である。

 

 

 

 

そして、明日から。いや、たった今から。

 

 

ジャッジをやめてみるのだ。

 

 

「あいつ、本当にXXだよな。」

 

「上司のXX、マジありえないんだけど」

 

「政府の対応はどうなってるんだ!」

 

 

他者への批判や非難、その言葉や想いをピタッとやめてみると良い。

 

 

 

しかし、これまでの生き方の癖でつい、不意に出てしまうこともあるだろう。

 

 

そんな時は、

 

「ああ、いかんいかん。ジャッジはしないんだった。今のはナシ! あいつは別に関係ない、今のはジャッジじゃない。」

 

と、気づいて訂正すれば、セーフという事にしてやろう。

 

 

どうだ、闇の使い手は寛大だろう? フハハハハ!

 

 

 

 

もう1度言うが、信じるも信じないも自分次第である。

 

信じたいと思ったならば、やってみれば良い。

 

 

 

まずは今日から一週間。

 

ジャッジを手放してみるが良い。

 

 

 

 

……もしも万が一。

 

この記事を見て「違う、それは間違っている。何が何でも指摘してやろう」と思った人がいたならば、そなたに伝えよう。

 

ジャッジを手放してみるが良いッ!!

 

 

フハハハハ!!!

 

 

 

さらばだ。Bye❣