The Late Parade

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佐伯へ

詩とはことばでは表現しきれない比喩の大きな塊みたいなもんだ。



それはそのまま、現前する世界にほかならないんじゃないか。



我々はどんなにがんばっても目の前にあるありのままの世界を写実しつくしたり、完全なコピーはできない。



したがって、もっとも完璧に近く、もっとも曖昧な形で、詩というエクリチュールのうえにのせて、代替させる。



詩は世界のパースペクティブを、広がりや陰影の奥にあるかすかな見え隠れを、または可視できる部分や可視できない部分の含みを、ふんだんにちらばすことができる。拡散。そして聯縮。


道の向こうのビルの窓の奥に、犬の生首が浮かんでいたところで、だれがそれを絶対的に否定できうるだろうか。


歌詞とは可視なのかもしれない。


わたしたちはうごいている。それは光っている、正確には反射をしていることであり、呼吸をしていることで、時間に苛まれていることだ。

そのどちらか端の一方に、もしくはその両端かもしれないが、めくるめくかけがえのない、かつとりかえしようがないほど狂おしい望郷感や喪失感をたえず抱いている。


それは慶びであり祝福でもあり、同時に不安であり呪いでもある。


なのでぼくらはいつもそれによろこび悲しみ、安心し不安になる。笑う。笑う。笑う。


そういったこころのうごきを詩性と名づけたとするならば、

ひとはつねに詩性に依拠して生きていることになる。


いつもそれに突き動かされ、誘発と反発を繰り返す。が、けっして閉じない。


閉じるとは無そのものであったり、時間停止や、強引な破壊。不条理かつ合理的な死。


すると存在する事象すべては、独立したいっこの詩そのものであるような気がした。


その文律はどこまでいっても不可侵で、どんなに割り算をしてもますます割り切れなくなっていく。

割れば割るほど、純粋な、といえるくらい純粋ではないなにかしか見当たらなくなる。


これは大したことではない。あたりまえのことなのだ。




そう、それがあたりまえ。


自由意志といえるかよくわからないが、そのような電気めいたものを各々が発している。


不可侵で、流動的な文律を持つ詩。


本人も他人にもそれを解釈はできるが、どちらにも永遠に定義できない。ひっつきそうになったり遊離したりするが、完全に結合することも、完全に引き剥がすことも、できない。


なのでいつまでたっても流浪してる。孤独だ。芽吹いたり傷ついたり自他動的に繰り返す。


あとはその詩の長さや濃さや文脈次第だ



想像力が想像力を襲い、想像力が想像力を超えたとき、詩はその豊穣さと強度を構築し、個人の実存そのものとして世界を覆す。覆った世界に、いちいち天と地を区別して歩くことほど、それこそ正気の沙汰じゃあない。倒錯だ。























そう考えると、人間関係というものを、詩的にデフォルメしてみると、



小数点以下の奇数同士のわり算みたいなもんじゃないかね。



0,653÷0,211=3,0947867‥‥



と。前よりデカい、デタラメな数字ができあがる。 そんなもんだろう?ドン・ジュアン。
パンパンしたく、なってきちゃったよ




人間の描写

 等身大の闇が、ゆっくり晴れていく。それは光の到来なのだけれども、ぼくらはほんとうに、そんな光をこころから必要としていたのだろうか。光がうれしいのは、闇があったから、もしくは、闇が順番が過ぎて終わったから。たった、それだけなんだ。だから、闇あってこその光だし、光あってこその、闇だ。光単体とか、闇単体なんてありえないんだし、ありえないものに対しては、ぼくらは口をつぐむべきなんじゃないのかな。

 だからどちらか一方がそのなかで善で、どちらか一方が悪だなんていう“決めつけ”は、早計な気がするんだ。どちらも、大切だし、どちらも、存在価値がある。ぼくらはそのなかで順繰り生きているんだから。

 いつもいつもぼくときみ以外をみてるとおもうんだ。かれらは、ふたつに分けるのがとてもとても上手で、うまい。そして、そのどちらか一方を好き好んで、一方をすぐダメなものにしたがる。そうすると世界の地平がきれいにあざやかに描かれるのを信じているみたいに。そんなもんじゃなかったんじゃないかな。

 白黒きめれば、あとはすべてのものが自他動的に進んでいって、口を開きやすくなるとおもっているみたいだ。黒は悪。白は善。白だけ考えていれば良い。白のために、白によって、ぼくらは労働とか恋愛とかしてればイイ。そんなことばかり詰め込んで詰め込んでブクブク太って、いったいどのくらいメタボなんだよ。

 そうして気づいたときには黒いことを平気でしていて、そのくせ黒いことをした人に対してめっぽう汚いものでも扱うような目や思いを向けて。矛盾しながら、それでもやっぱり、ブクブク太っていく。

 たのしい人生だね。楽そうで、自堕落で、病的で。

 それもあるけど、それがなくても、やっぱりぼくもひとのことはいえないんだけどね。ある程度、ウソをウソとおもわないでぼくもぼくを生きさせていた感はあるよ。だから、はっきり、ぼくも、そしてきみも、もちろんかれらも、こうして非難できてるんだ。

 でも、そんな傷口はかれらはどうしても好めない。その傷をいままでずっと直視せずに生きてきたんだから、無理もない。だから、ほんとは、傷つけたくないんだ。すると、たちまち、ひとりぼっちさ。

 孤独はさびしいかもね。でもそのさびしさも、ウソよりマシだとおもえるようになってきている。でもウソじゃない世界って、その他大勢にとっては、「だからなんなんだ」っていう世界だったんだよ。

 いつでも白銀色の世界を夢見てるかれらに陶酔し尽す勝利が約束されていた。その契約主はもちろんかれら自身であり、かれらの祖先であり、かれらの歴史そのものなんだから、あたりまえなんだけどね。神じゃなかったんだ。

 はっきりともう一度だけいうけど、神なんてものはなかったんだ。

 宗教は神に支えられているんじゃなくて、ウソをウソで塗り固める、けれどとても大切で温かいひとたち、身近でかけがえのないひとたちによって支えられていたんだ。

 だから、ぼくはそういう面では、宗教を攻撃したくない。それは、土足で巣の中に入るようなもんだから。そんなことすれば、どんな蜂だって刺しにくる。当然のなりゆきだ。当然の成り行きに異端とか正統とか区別しているヒマなんてない。

 かれらはとてもあたたかい。そして、あたためあっている。その病理のようなものを。

 ぼくらは動物や虫とおんなじなんだ。それ以上に複雑にすることも、それ以上に高尚にする必要も、ほんとはなかったんだ。 

 だまって死んでく生き物だっているし、押し流されて孵化できなかった生き物だっているし、一週間しか生きられない生き物だっている。そんなことは、嘆くことではない。

 いきなり巨大な生き物に鷲づかみにされたり、踏んづけられたり、食べられたり。そんなことは往々にしてある。あきらめることでも、避けることでもない。

 人間だけに例外なことなんて、もともとからない。そこがまず人間のウソのひとつだ。

 そんな不幸計算をしだすようなあたまのずるがしこさが、ぼくはあまりよくないとおもう。

 不幸を最小限で受け止めて、黙っていればよかったのに、黙っていなかったから、ぼくらは悲劇を生み出して、繰り返して、必要のない血と涙を流すんじゃないのかな。そうして、必要のない血と涙もまた選別して、人間らしいものは白に。法律に。道徳とかにして。微調整して。正義なんていうウソの巨塔で安穏しようとしたり、支配しようとしたり、操作しようとした。歴史と理屈のはじまりみたいなもんだ。ウソとウソを混ぜ合わせて、なんとなく見栄えのイイものだけをとりだす、みみっちくて、だまされがちなものだったんだ。

 そもそもが不幸なんてものじゃなかった、もっというと、不幸なんてものは最初から存在してなかったんだとおもう。不幸の概念は、人間のウソを発達させた、始原的なものなのかもしれないな。

 もっとよく、とか、できればよく、とか、そんな空白なもののために、見栄と意地と贅沢をつくそうとする魂胆が、不幸とか、悪とか、罪とかいう概念を醸成していったんだとおもう。なんにもないのに、いまもないのに、あるようにみせかける演技を嬉々として踊る阿呆。それが、人間。

 そしてそのうちひとや家族が増えるにつれて、それを正当化する手立てが、お膳立てがどんどん整っていった。そうなるともう、うなぎのぼりで調子に乗り放題。そのなかに真実らしきものやまごころらしきもの、人間を人間として意味づけるようなものが、偶然でてきて、それを信じて、もはや疑う余地もなく邁進し続ける。そうなると途中でリセットしづらいし、できない。だって、たしかな手ごたえのものは、たしかにあったんだから。

 そうなると、ウソをウソと指弾したほうが、ただの悪に成り下がる。悪にしなくちゃいけない。じゃなければ成り立たないし、人間の歴史を書き直さなくちゃいけなくなる。数百万年分。そんな途方もないことをやる勇気があるはずがない。人間は臆病で、表面的なんだから。

 それに上乗せするように、ここ百年ちょっとで、ずいぶんとお膳立てのいい存在がちょくちょくでてきたから、それらにぜんぶまかせることにした。そのツケをチビチビ払いながら、まだウソをつきつづけるのが近代人。

 近代人は、一生未来人にはなれっこない。現代人にも、なれないんじゃないかと、ぼくはおもっている。

 つねに未来が一歩先にあるのに、未来と並行して足並み揃えているばかりに、未来に近づきたくないんだろう。そうやっていつまでも距離を縮めず近づかず。一生近代人を演じきって幕をおろしたいんだろう。じゃなければ斬頭台に乗らされてもおかしくないから。さもしいね。

 そんなあたま、ちょん切っちゃえばイイのに。とたまにおもう。ラクになれるのに。文字通り楽に死ぬひともたくさんでてきちゃうけど。それがこわいんだろう。ぼくだってこわくないといえば、ウソになる。でもそんなウソよりもっとひどいウソをついている事実は、変わらないのにね。

 だから生きる以上はウソをついている自覚を持たなきゃいけない。そのうえで、ウソをついてでも守らなきゃいけない存在もいれば、愛さなくてはいけない存在もいる。すべては欺瞞の俎上に乗っているものたちばかりなのだけど、あたたかいものには変わりないんだ。いきなりウソは帳消しにはできない。すこしずつ、ウソと折り合いつけながら、ゆっくり、ウソをつく必要のなかったときに、戻れたら、ぼくらは光も闇もひとしくいとおしくなるかもしれないな。遠い遠い未来の話だけど。

ある分裂病者の恋文

 かなりの年月は浪費した。けど、それでよかったのかもしれない。それは、わたしの傲慢で、あなたへの自己愛のおしつけになりかねないかと、いつもビクビクしているが、どうしようもない部分があるので、そこはそこで修正しながら、伝えなおしていけばよいとおもう。

 あなたに伝えたいことはたくさんある。けど、それをすべて伝えることは、愛ではない。恋か、それよりもっと下にある、わたしの心のぞんざいで荒削りな部分な気がする。

 たしかなことなど、なにひとつハッキリはしていないけれども、ことばにした瞬間、届かなくなる気持ちがたくさんあるから。だから、わたしは形も、こころも、あなたに託して負担をかけるような真似だけはしたくない。わたしのすべては、形にも、こころにもならなく、あなたと結合すべきものでもない。それはあなたもおなじことがいえる。

 ただ、わたしはわたしの人生を、まず生きる。それとともに、あなたに寄り添ったり、離れたり。それを繰り返すことに意味がある。気がするんだ。ぼくがぼくである以上、そして、きみがきみである以上、その放物線は、半永久の、平行線。その事実だけは、うごかせないんだとおもうんだ。どんな神さまだって。

 ぼくらはだれにも連続しない。しえない。

 わたしは、わたしだけで完結している生き物なのです。そして、あなたも。だから、わたしに任せられても困るし、あなた任せもいけない。

 ことばをことばとして口にだす瞬間とおなじように、かりにわたしたちに子どもが授かったとしても、その子が、世に出た瞬間、その子はだれともつながっていなくなる。われわれみなすべてが、つながる瞬間など、億万分の一秒の、結晶に結晶を重ねたきらめく瞬間だけで。それはけっして、だれにも認識することはできない。認識できる現実世界では、ぼくらは進んで、別個のものにならなくちゃならないんだ。

 でも、別個のものだからといって、ぼくはきみも、そしてもし生まれることがあるとするならばぼくらのこどもも、大切にできないわけじゃない。

 ただ、大切にする、という概念は、えらく強固な殻と、繊細な膜に覆われていて、空気に触れた瞬間、それはとても脆く、儚く、変容して、気がつくと宙を飛んでいっている。祝祭で高調した温度のように。

 そんな不安定な代謝活動ばかりひっきりなしに起こるのが、ぼくらが生きている世界で、人生なんだとおもうんだ。だから、ときに不安になったり、怖れたり、いやになったり。それは避けられない。おたがいを憎んだり、妬んだり。とりつくろうのにつかれたり。そんなことはきっとある。

 そんななかぼくだけがきみの支えになってやれる自信なんてないし、ぼくがいなくなれば、解決するべきことだってあるかもしれない。

 そうおもうと、ぼくは、きみにとってなにものにもなれない無力に、打ちひしがれるだけ打ちひしがれるかもしれない。

 でも、それはきっと、いまのいまのぼくがいけないだけなんだとおもうんだ。いまひとりで連続しているぼくが、ね。だから、ぼくは、たとえきみと離ればなれになろうとも、ぼくの軌道を変えるよう、ぼくのためにがんばらなくちゃいけない。それはきみのためにつながることだけど、きみのためじゃあない。ぼく自身のため。そうしてもう一度、でも、何度でも、振り向かせてみようとおもう。

 ぼくはぼくで、そのつど、生きて、変わって、だれよりも自分を愛するつもりだ。

 そうして、そんな連続しているじぶんが、きみのしあわせの一翼を荷え続けられるように、つねにじぶんのためだけに生きる。

 愛しています。

 そして、ぼくはぼくを愛し続けます。

 そんなぼくと、また手をつないで歩いて、きみをしあわせにしたい。