わたしは、1974年 予定日よりも1ヶ月ほど早く、無痛分娩で生まれました。
母が妊娠中毒症になりかけていたため、お腹の子供の栄養を吸収してしまう危険性があったからです。
2000gほどの大きさだったため、出産後すぐに、保育器のお世話になりました。
なので、退院は母よりも1ヶ月ほど遅れでした。
未熟児ということで、発育を心配されましたが ミルクの飲みもよく 大きな病気もせず健やかに育っていきました。
わたしには、7つ上の兄がいまして、私の誕生をそれはそれは、
今かと待ち望んでくれていたそうです。(←後日談で知りました!)
私が誕生した時、兄は小学1年生だったのですが、
登校の際 私を学校へ連れていくのだと母に毎日言っていたそうです。(←みんなに見せたかったのだそうです!)
わたしは、みんなに愛されてこの世に誕生したわけです!
ですが、物心がついた時には まったく反対の認識で生きていましたし、私の記憶の中で両親に思いっきりハグをしてもらった記憶が無いのです。
そんなことはないんじゃないか?…おもうのですが。
だって、幼い頃の写真を見てみると抱っこされているので!
でも。わたしの記憶は、ずっと怒られ母親の顔色をうかがって生きてきた感じなんです。
“のろまで”
“どんくさくて”
“要領が悪くて”
“笑わない子で”
話しても“何を喋っているのか、わからない”…etc
よく言われた言葉です。
そんな言葉を言われるたびに悲しい気持ちになりましたし、
自分ではそう思っていなかったので“そんなことないもん”と、いつも唇をギュッと固く閉じて嫌な顔をしていたと思います。
ですが、時折褒められる事があるんです!
そんな時は、小躍りするぐらい嬉しくなりますし、また母に褒めてもらいたくなり子供ながら一生懸命努力しました。
なので、ざっくりまとめると
幼少期は、母親の笑顔が見たくて毎日を過ごしていました。
おそらく、わたしも!という方が多いのではないかと思うのですが…
『言葉の虐待』
私の中では、ピッタリくる言葉です!
誰も母親の虐待を止められる人がいませんでした。
父が大抵は止めてくれるのですが、言うことなんて聞いてくれません。
母は常に“自分の意見が正しい”と思っていましたし、“私のいう通りにすれば全てうまくいく!”と思っていました!まさに!
我が家は『母の独裁国家』で成り立っていました。
なので、すべて母が作ったルールが適用され刃向かうと懲罰(言葉の虐待)が実行されたのでしょう!
とても地獄を感じますが、そんな生活の中ですごく緩いルールが存在しました!
それは…「食べること!」に対してです。
最後までお読みくださりありがとうございます。…また、明日の同じ時刻 My Story2へ つづく