子供の頃、夏といえば決まって母の実家がある栃木にいったものだ。母の兄弟5人は、8月のお盆の時期にそれぞれの家族を連れて本家に集まる習わしになっていた。 その頃の私にとっては、これが夏の ビッグイベントで、一人っ子の私は、年の近い従兄弟たちと何日かを過ごせるということが嬉しくてたまらなかった。 田舎に向かう車窓の景色がビルの建ち並ぶ都会から田園風景に変わってくると、もう興奮を抑えることができないのだった。

 田舎は何度訪れても新しい発見に充ちていた。

ザリガニ、ゲジゲジ、アブラゼミ、ガガンボ、ヤモリにヒキガエルカブト、クワガタ、オニヤンマ。 グロテスクな異界の住人たちに迎えられ、親戚一同揃い踏みのにぎやかな日々が幕を開けるのだ。

 田舎の朝は早い。 子供たちは年長の従兄弟を隊長に早々と外に繰り出すのだった。セミの喧噪をBGMに、川に続く田んぼの畦道を延々と歩く。 長い道程も入道雲に見守られ、強い陽射しがエネルギーになった。 川は浅瀬の清流で、キラキラ輝く川面をのぞいてアユを探した。 少し上った所には滝があって、滝壷の轟音は全ての音をかき消したから、皆はしぶきを受けて光る笑顔でコンタクトし合った。 そんなことが楽しくて楽しくて都会での日常がどんどん霞んでいった。

 ある日の夕方、急に夕立に遭ったこともあった。 バケツをひっくり返したような雨と激しい雷のとどろき、すさまじい稲妻は木を真っ二つにした。 自然は時に友達であり、時に鋭い牙をむく恐ろしい存在であることも知った。

 夜は浴衣に着替えて大人の人達と盆踊りに行った。 昼間とは違う闇に包まれた道を懐中電灯の明かりを頼りに歩いた。その光を逃すと闇の世界に引き込まれそうで、誰彼ともなく手をつないで遠くに聞こえる太鼓の音を目指した。  空と大地は天の川でつながっていた。

 一日フル稼働した私達は、さすがに力尽きて広い座敷に敷かれたちょっとカビくさいふとんで雑魚寝した。 あれはたしか小学校に入るか入らないかの年だった。例によって雑魚寝して、夜中にふと目を覚ましたことがあった。皆の静かな寝息と共に、柱時計の時を刻む音が響いていた。 それを聞いているうちに私はだんだんと恐くなってきたのだ。  何が恐いかって・・・、時が刻まれると共に着実に「死」に向かっている・・ということが。そして明らかに先に逝ってしまう両親を思うと、たまらない悲しみと恐怖に襲われた。 年端もいかない子供の私が、初めて「死」を恐いと感じた時だった。   今にして思えばきっと、田舎の生活で感覚が研ぎ澄まされて感受性が豊かになっていたのだろう。

 ともあれ、あれから永い歳月は流れ祖母も両親も他界した。栃木の田舎も随分と様変わりして昔の面影はなくなった。それでもあの頃の光や空気、皆の笑顔や耳にしたいろいろな音、道、川、山はそれぞれ小さな粒子となって、私の心の中に小惑星を作っている。それは再び訪れるにはあまりに遠い所にあるけれども、確実に存在するのだ。

 「リメンバー」を聴いて、そんな夏の原風景が蘇った。