江戸時代末期、水戸斉昭と孝明天皇が攘夷派だったのか。もし島津と井伊が開国を望むなら、島津と井伊で手を組み、朝廷を戴すのが筋だった。逆に朝廷から見れば幕府も薩摩も開国派である限りは朝敵。薩摩は開国派だったのに攘夷派の力をも借りて、朝廷を動かし、幕府を倒そうとしていたのか? /#西郷どん/

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@asahi 西郷隆盛(1828~1877)生誕190年。
大久保利通(1830~1878)没後140年。
鹿児島では西郷隆盛が人気だが、その反動で、大久保利通に対しては批判的な人が多いのか。
#西郷どん 
#明治維新150年(2018年は #明治151年。2017年が #明治150年
posted at 08:05:48
@asahi #西郷どん 
#戊辰戦争150年
#明治維新150年
#西暦と元号どっちがわかりやすい
1877年(明治10年)西南戦争、西郷隆盛没
1878年(明治11年)紀尾井坂の変、大久保利通没
西郷の墓地で大久保の法要「待った」 反発受け名称変更:朝日新聞デジタル
posted at 08:09:27
 
@suga_kinako #西郷どん
1858~1859年の「安政の大獄」の時点で西郷隆盛が何歳だったか計算する場合、元号だと文政10年から安政5年まで何年か数えるのが大変です。元号にはこういう弱点があります。西暦だと西郷隆盛の生まれた年は1827年(陰暦)または1828年(陽暦)で、1858年当時30歳くらいだったとわかります。
posted at 12:42:34
 
返信先: さん
 
返信先: さん、さん
で描かれている「安政の大獄」(1858~1859)の時代は、日米修好通商条約締結(1858)の時期で、今から約160年前です。
 
第28回「ふたつの遺言」(斉彬の最期)
第29回「天璋院篤姫」
第30回「将軍の母」第31回「さらば幾島」
 
薩摩の隠居の言うことは一理ある。島津斉彬は藩の財政を浪費して何をしたかったのか?井伊直弼は条約を結んで開国した。外国の言いなりがダメなら、斉彬と吉之助は異国と戦争をしたかったのだろうか?
 
1858年、徳川家定没。島津斉彬没。月照没
1859年、島津斉興没
1860年、井伊直弼没
1863年、薩英戦争
1867年、大政奉還
1868年、戊辰戦争
1877年、西南戦争
1894年、日清戦争
1905年、日露戦争
井伊直弼が倒れ、江戸幕府が滅ぶと、日本は内戦を経て、異国との戦争の道へ突き進んだ。
 
返信先: さん
薩摩で島津久光が「国父」と呼ばれていたようですが、孫文も中華民国の「国父」として有名です。1851年に清朝で洪秀全の「太平天国の乱」があって、1864年にそれが終わった後、孫文が生まれたのは1866年、日本では薩長同盟の時期でした。
 
 
島津斉彬は改革派だったようで、開国派だったかも知れないが、幕府を倒すために、攘夷派だったはずの水戸斉昭の力を借り、斉昭の息子・慶喜を将軍にしようと工作し、武器を集め、戦争の準備をしていた。国を開き、戦争を避けようとしていたのは井伊大老の方だった。
 
返信先: さん、さん
今年は日本の外交においていろいろな意味で「160周年」である。今年は だから、日米修好通商条約締結から明治維新まで10年。 より が便利なのはこういう「150周年」「160周年」という計算が簡単にできること。
 
  
進歩的な考えの持ち主だったはずの島津斉彬が国粋主義的な水戸徳川家と組もうとしたのが問題。しかし明治以降を否定する人は江戸時代が現在まで続けばよかったのか?おしんが方向に出されたのは明治40年だから庶民は相変わらず苦しかったようだが。
6:13 - 2018年5月7日        
 
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