ライターmonogatarino_rekishiさん(最終更新日時:2012/7/14)投稿日:2012/4/19

『仕置人』から『仕事人』まで、中村主水の裏稼業の変遷は江戸時代後期でも3回あった

必殺シリーズの時代設定を考えると、『仕留人』から『仕事人2009』まで時代が逆行しており、文化・文政、天保、幕末のそれぞれに「仕置人」から「仕事人」までの経緯が種類(3種類)存在したと解釋するのが妥当である。
簡単に書くとこうなる。

文化│
文政│壱:文化・文政の中村主水が裏稼業
__│┏『仕置人』(文化・文政)・・・文政時代と假定
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__│┗『仕事人』(文化・文政)・・・『仕事人2007』『2009』などはこの時代
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天保│弐:天保の中村主水が裏稼業
__│┏『仕置人』(天保)・・・『仕置屋』が天保時代と假定
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__│┗『仕事人』(天保)・・・『オール江戸警察』『意外伝』など
嘉永│(└→『主水死す』)
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幕末│参:幕末の中村主水が裏稼業
__│┏『仕置人』(幕末)・・・この次が『仕留人』
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__│┗『仕事人』(幕末)・・・『大老殺し』『横浜異人屋敷』『ブラウン館』など

『必殺仕置人』の時代設定は文化・文政年間のようで、1804年から1829年までになるが、他のシリーズとの関連で考えると主水は1818年(文政元年)までには裏稼業を始めていたようだ。『旋風編』では1819年1月に主水がオランダ商館から表彰されているので、1818年末には主水は政、銀平、順之助、お玉と組んでいたのだろう。1820年(文政3年)2月14日には主水は書庫番に移っている(『2007』)が、同年4月8日以降には闇の金融組織との抗争があって奉行所を解雇されるだけでなく命の危険もあった(『裏か表か』)。1821年(文政4年)には主水は自身番に移っっている(『2009』)。『2010』で主水が江戸を去ったのはその直後と思われるが、1828年には主水は江戸に戻って南町奉行所の定町廻り同心に復帰していた(『春雨』)。

天保の主水の場合、『新仕事人』と『仕事人III』の間の『大集合』の舞台は1842年ごろであろう。元からくり人の仕掛の天平が主水に仕事への参加を呼び掛けたが、これは旧からくり人グループ壊滅後とすると1839年の蛮社の獄の後である。一方、『III』で順之助が加わって『IV』の時期に『仕事人アヘン戦争へ行く』で主水たちが香港に言ったのは1842年のことであった。『仕置屋』で主水が南町から北町に移ったのは鳥居耀蔵が南町奉行になった1841年末(陽暦では1842年初め)の前後である。ただ、奇妙なのは『IV』最終回で主水が仕置した南町奉行が戸浦六宏扮する鉄蔵こと山岡銀二郎だったことだ。この時期の南町奉行は鳥居耀蔵だったはず。1844年の鳥居失脚が主水による暗殺だった可能性があるが、それが描かれたのは『仕事人Vオール江戸警察』で、『仕事人IV』の後の『仕事人意外伝』では主水が花屋の政・組紐屋の竜と「初めて」組んだのが1843年から1844年かけての時期で、鳥居失脚前であろう。ただ『意外伝』終盤で主水が平手造酒(ひらてみき)を暗殺しており、『江戸警察』で主水は平手と組んでいたので、『意外伝』の話は『江戸警察』の後日談まで含むことになる。

幕末の主水の活動は、まず1853年の黒船来航時に仕留人を結成し、翌年黒船再来の時に糸井貢が殉職したことで解散。5年後の1858年は安政の大獄の時代。水は加代、政、影太郎と組んで仕事をしており、1860年に主水は桜田門外で井伊直弼を暗殺。3年後の1863年には清河八郎の浪士隊に参加し、鍛冶屋の政や蝶蝶の朝吉も仲間だった。慶喜が将軍になった1866年以降に主水は花屋の政・組紐屋の竜と組んでいた。1868年の鳥羽・伏見の戦いで主水は佐々木只三郎を暗殺した。

『必殺仕事人V不運竜虎編』の第2話「将軍の初恋騒動!」で大御所・家斉の死が描かれており、これは1841年のことで、鳥居甲斐守が南町奉行になったのはその直後。一方、続編の必殺SP『大老殺し』は約20年後の1858~1860年、安政の大獄から桜田門外の変までである。『風雲竜虎編』第7話の「主水の刀を研ぐ男」は主水の刀を研いで15年のキャリアだったらしいが、これが1841年から15年前だと1827年で文政年間であり、1858年から15年前だと1843年で天保の改革の時期である。
『横浜異人屋敷』で主水が清河八郎の浪士隊に入った時、、主水は町奉行所で勤務して22年だった。北町と南町合計か南町だけか不明だが、1863年から22前は1841年前で、まさに「将軍の初恋騒動!」『仕置屋』『江戸警察』の時期だ。
その『江戸警察』で鳥居奉行のもとで働いていた主水は奉行所に勤めて23年だったが1841~1844年から23年前であろう。すると1820年ごろの文政初めから主水は町奉行所の同心だったことになる。