今回問題になったのは1979年当時、テレ朝の大山ドラ1年目の「一生に一度は百点を…」。1979年4月18日放送である。
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インターネットで調べると、当時の作画監督は本多敏行氏で、1950年生まれ(下注釋)らしいから1979年当時29歳。2012年に62歳になっていたはずだ。2013年の誕生日で63歳。 
『ドラえもん』の「一生に一度は百点を…」の原作はてんコミ第1巻収録で、原作には問題となる「落書き」は存在しない。
1970年代から1980年代初めまで、ビデオデッキは一般家庭に普及していなかった。
また、1973年の日テレ版ドラえもんもフィルムが破棄されたように、当時のテレビ局は自作の番組を残す発想もなかった。
ビデオデッキは一部では普及していたようで、1975年のNHK大河『元禄太平記』も当時NHKで高価なフィルムの使い回しをしていたせいで本編の映像をほとんど残しておらず、劇中で大石内蔵助を演じた江守徹が自宅で全話録画していたのが提供された経緯がある。もちろん当時、テレビ番組を自宅で録画できた人は稀であった。
ほとんどの一般家庭では1980年代半ばまでビデオデッキはなく、夕方はアニメ特撮の再放送が大盛況であった。本放送時、親にチャンネルを取られた子供が夕方に好きなアニメ特撮を一人でたっぷり見られた。
1970年代~80年代には再放送で人気が上がったアニメはたくさんあった。

該当作品の「精力」や「交尾」や「コンドーム」がどうのといった手書きの場面は、もちろん原作にはない。

大山ドラ初期、ドラえもんを見ていた人は録画はできず、ドラえもんの音声をテープレコーダーで録して、録音を聞きながら原作漫画を読むという手を使っていた。そういう手法が『コロコロコミック』の投書欄で紹介されていたのだ。
だからあんなきわどいことばがあっても2秒程度の場面で、しかも文字だけで音声ではないのだから当時の視聴者の記憶には残らず、再放送を意識して見ない限り確認も不可能だった。

ビデオテープは1986年のクワタバンドの『メリークリスマスショー』、87年の「I Feel Coke Sond Special」の時には徐々に普及していた。
なお、今回問題となったのは原作にないアニメスタッフによる落書きである。
原作では「ぶっ殺してやる」「口をきくのも面倒くさければ死んでしまえ」「世界中が君のレベルに落ちたら世の中は終りだ」というドラえもんの台詞もあるし、「人間製造機」ではのび太がしずかに「一緒に作らない?赤ちゃん」と言ってしずかの怒りを買ってボコボコにされる場面がある。これらの場面は問題ではない。問題にしない人は『ドラえもん』の根幹を理解しているわけで、それらを問題にする人たちは『ドラえもん』をわかっていない。
今回、回収の要因になった場面は『ドラえもん』の根幹ではなく、アニメという派生作品で追加された余計な部分であった。
もっとも物ごころついたときに大山ドラが放送されていて、アニメと原作の区別ができない人は、原作も問題視するだろうが、それは『ドラえもん』ファンとしては後(あと)の世代による誤解である。
『ドラえもん』の基本は1970年から1978年までの原作であり、1979年以降のテレ朝のアニメ版はあくまで後付けの二次的作品である。
 
「一生に一度は百点を…」は2005年7月1日に水田ドラえもんでリメイクされており、自分はこれは見ていないが、今回問題になった1979年当時の大山ドラの「落書き」は存在しないと思う。DVDを出すにしても2005年以降のリメイク版を出せばいいことだ。
2005年にアニメ『ドラえもん』が声優とともに絵も音楽もリニューアルされ、過去の作品のリメイクが進んだが、今回の騒動を見るとそのリメイクは実用だったことが改めてわかる。
それに今回のDVDは1979年当時のアニメを収録したものであり、大山ドラ時代を懐かしむ世代に向けたサービスのようなものだ。「一生に一度は百点を」は今後もドラえもん』でリメイクされるだろうから、それを見ればいい。
 
ただ、携帯電話、スマートフォンという「糸なし糸電話」に「コンピューターペンシル」の機能が追加されたグッズが普及していく中、作品がどうリメイクさせるか見ものである。
2011年の東日本大震災の直前、aicezukiを名乗る予備校生が京大の入試でケータイによるカンニングをした事件があった。一時的知識だけで人を判断する試験と、知識を外注することを普通とする世代の衝突であった。『ドラえもん』の「暗記パン」の話はそれに対する風刺でもあった。
 
4月24日(火)15時42分配信 
 
TSUTAYAで1979年版と2005年版の「一生に一度は百点を」が収録されたDVDをそれぞれレンタルして観比べてみた。
1979年版の場合、のび太がコンピューターペンシルで宿題を解く場面では、のび太はドイツ語を書いており、ノートの前のページにあったのはどうも大学の電磁気学の文字式や回路図のようであった。
該当する文字式をインターネットの検索で調べてみた。
微積を使う交流回路」というHPにある「インピーダンスZ=√(R2+(ωL-(1/ωC))2)」の部分が33年前の『ドラえもん』でのび太のノートにあった内容であろう。 
そしてのび太は P=vi=v。i。sinωx sin(ωt+φ) のような高校か大学の物理の文字式らしきものを書いており、これが小学校の宿題ではのび太でなくてもできなくて当然。次ののび太とジャイアンが受けたテストのほとんどは小学校低学年レベルの算数で、圓の面積の演算が1題あるくらいで、これでのび太は0点を覚悟し、ジャイアンはコンピューターの力を借りてやっと100点というのだから、問題の難易度の落差がすさまじい。
 
2005年版でのび太がやった宿題は分数の加減の計算で、受けたテストは少数の掛け算であった。
 
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2012年4/28 4月
 
関連語句

注釋
1950年生まれ
『巨人の星』の原作が始まった1966年当時で本多氏は16歳。『巨人の星』の星飛雄馬が青雲高校に入った当時、飛雄馬と同年齢だったことになる(プロ野球編の星飛雄馬は1951年生まれになり、1979年に『巨人のサムライ炎』が連載を初め、かつ『新巨人の星II』が放送された当時で28歳)。

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