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『侍ジャイアンツ』文庫第7巻264ページから1974年自主トレ。

『侍ジャイアンツ』文庫第8巻34ページでシーズン開幕、後楽園で巨人×ヤクルト戦。
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』の創刊号によると、実際には4月6日におこなわれた。
阪神は大洋と岡山で試合。

『野球狂の詩』文庫第6巻162ページでは4月6日開幕。長島太郎はメッツの二軍でノックを受けていた。

『野球狂の詩』文庫第4巻91ページでは国分寺球場で阪神と東京メッツの試合(「恐怖のTO砲」)。
『野球狂の詩』文庫第6巻64ページでは甲子園球場で阪神と東京メッツの試合(「北の狼 南の虎」)。
これらは日付は不明だが4月であろう。
このシーズンでメッツの唐部、丘、火浦、阪神の王島がプロデビュー。
なお、メッツの日下部が新人王を狙っていたシーズンでは中日の藤波が前年ドラフト1位のルーキーだったので、日下部のプロデビューと富樫の一軍デビューも1974年春からであろう。

5月14日に川崎で、16日に静岡で阪神と大洋の試合(「史実」)。
『野球狂の詩』文庫第4巻128ページでは甲子園で5月に阪神と大洋の試合。海王神人がデビュー。
大洋は4月はほとんどの時期で4位、5月から6月前半まで5位と6位を往復していて、6月末から4位に浮上した。8月後半に5位に後退し、9月に一時、5位と6位を往復し、9月末から10月まで5位でシーズンを終えた。

『侍ジャイアンツ』文庫第8巻230ページでは、梅雨に入って、本塁打レースで王が田淵や衣笠に先行されていた。これは6月の時期。

『侍ジャイアンツ』文庫第8巻で広島3連戦が232ページから描かれ、263ページによると2戦目が雨で流れ、翌日に3戦目。
実際は6月25日と26日に2日続けておこなわれ、27日には試合がなかった。

『侍ジャイアンツ』文庫第8巻287ページではオールスター前にまた巨人と広島3連戦。これは7月2、3、4日か。

オールスターは7月21、22、23日でパ・リーグ3連勝。
野村がハラキリ・シュートの弱点を見抜いた。

『侍ジャイアンツ』文庫第8巻354ページ、「突如セ・リーグ後半戦にデビュー、みるみるうちに阪神、中日においつきおいこした番場蛮の新魔球」とある。これが巨人が阪神と中日を追い越してトップに立った時期とすると8月18日。
その後の巨人×中日の3連戦は8月27、28、29日に後楽園でおこなわれ、そのあとは9月21日、23日に後楽園で、28、29、30日に中日球場で、最後は10月14日に後楽園で2試合あった。

9月、長島太郎の初打席(『野球狂の詩』文庫第6巻163ページ)。
9月後半、中日と巨人が優勝争いを展開しメッツ最下位(『野球狂の詩』文庫第6巻166ページ)。
実際は9月初めに巨人が首位から2位に、中日が2位から首位になり、最下位は広島(9月に一時的に大洋とともに5位と6位を往復)。

10月5日、巨人×阪神の2試合が後楽園でおこなわれ、これがこのシーズン最後の巨×神。『男どアホウ甲子園』第28巻の最終回では場所が甲子園で阪神が勝ったが、実際は2試合とも後楽園で巨人が勝っている。
なお、藤村甲子園が新大阪驛で長嶋に勝負を挑んだのは、阪神が甲子園で試合をした翌日、広島で広島カープと巨人が3連戦の第1試合をおこなった日。例として5月25日か8月20日が該当する。
また、この時期の巨人と阪神の甲子園球場での連戦は9月10日、11日、12日で、11日がダブルヘッダーだったので4試合であった。

10月10日、メッツと阪神の最終試合。ここでメッツ優勝(『野球狂の詩』文庫第6巻74~88ページ)。火浦が20勝、国立がホームラン王(同112ページ)。
10月12日、中日が優勝(『野球狂の詩』文庫第6巻170ページ)。
10月14日、後楽園で巨人と中日の最終戦。『野球狂の詩』文庫第6巻171ページによると同日、国分寺球場でメッツと広島の試合。実際は巨人×中日戦2試合のほかは、川崎で大洋とヤクルトの試合が2試合あっただけであった。大洋とヤクルトは翌15日にも試合をしている。

中日とロッテの日本シリーズは10月16、17、19、20、21、23日。ロッテが4勝2敗で日本一になった。

『野球狂の詩』文庫第6巻114ページによると第6戦で千藤光がサヨナラHRを放ち、優勝は翌日11月15日の第7戦にもつれこんだらしい(「白球七五三」)。すると第6戦は11月14日だったことになる。
その優勝決定の当日、国分寺球場で国立が打ってメッツが優勝したらしい。国立ファンの藤子は7歳で国立からサインボールをもらった。知人である老人・新助が11月14日に急に倒れ、入院させるため、藤子は七五三の晴れ着はいらないと父親に言い、父親は晴れ着を買うためのカネを新助の入院費にして救急車を呼んだ。新助は入院できたものの、藤子は普通の晴れ着の代わりに、父親の作った背番号29(国立玉一郎と同じ)のメッツの指フォームを「晴れ着」にして国立を握手したらしい。
藤子という少女は国立との結婚を夢見ていたらしい。その後、『野球狂の詩』は続編も描かれたらしいが国立が藤子と結婚したかどうかは不明。
なお、子は1974年の時点で7歳とすると1967年生まれなので1987年で20歳、成人式出席は1988年の1月だっただろう。そのときは晴れ着を着れただろうか。
一方、「ルーキー15歳」(文庫第6巻123~152ページ)の立花薫は1974年で15歳とすると1959年生まれである。

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2011年6/26 6月