神奈川明訓高校の場合、夏の予選は神奈川県大会で、明訓は同じ神奈川県の東海高校、白新高校、横浜学院と対戦した。

それで優勝すると夏の甲子園に出場。ここでは同じ関東の千葉代表も東京代表も出場する。

夏の甲子園が終わると翌年の春のセンバツに向けての予選の時期となる。
秋の神奈川県大会で夏の予選と同様、神奈川県勢と対戦、明訓がこれに勝つと、「神奈川」と「全国」の間の関東大会に出場。ここが夏とは違う点だ。

関東大会で明訓は例えば千葉のクリーンハイスクールや群馬の赤城山と対戦。
ここで優勝すると春のセンバツに選ばれる。
センバツでは関東、近畿、東海といった地域ごとの代表が出場する。


神奈川県予選(※)

●甲子園全国大会(各都道府県代表)

(選抜に向けた予選の時期)

神奈川県大会

関東大会

(年明け)

●選抜甲子園(関東、近畿、東海地方など地域代表)
(夏の大会に向けた予選の時期)


神奈川県予選

(※に戻る)

山田太郎は以下のような経緯で甲子園に出場した。

高1
夏 予選(徳川監督、土井垣主将)

夏 甲子園

秋 神奈川県大会(徳川監督、里中主将)

秋 関東大会(土井垣監督)

高2
春 甲子園(江川学院の中が山田を5打席連続敬遠)

夏 予選(渚、高代レギュラー入り、東海高校戦で里中復帰)

夏 甲子園(弁慶高校に敗れる)

秋 神奈川県大会(太平監督、岩鬼主将、東郷学園との決勝は雨で中止)

秋 関東大会(今までと違った相手多数)

高3
春 センバツ(終了後に里中休学)

(新潟明訓と練習試合)

夏 予選(決勝で里中復帰)

夏 甲子園(室戸、りんご園、巨人学園等と対戦)

(秋 県大会、作品で描かれず)
(秋 関東大会、作品で描かれず)

秋 ドラフト指名

センバツは高校球児の学年が切り替わる春におこなわれるが、普通は4月以降の学年で紹介される。山田が高1から高2に上がった春のセンバツの山田高2春のセンバツで、それに到るまでの地区予選は高1秋の県大会と関東大会であった。
山田高1秋の県大会までは徳川監督で、キャプテンは土井垣に代わって里中だったが、関東大会からがと井垣監督、山岡キャプテンの体制になり、これが山田高2春センバツ~夏甲子園まで続いた。
つまり高1秋とは高2の春から夏までの体制の始まりであり、高校球児は夏が終わった秋に事実上の「学年」が切り替わるわけだ。山田高1秋は事実上の高2の初期段階であるである。

山田が高1秋の土井垣明訓初期、土井垣が日本ハムから指名された。劇中で1977年、『プロ編』の設定で1992年のできごとである。この時期、岩鬼が2名ほどの「下級生」に球拾いを命じていたが、岩鬼は当時まだ高校1年生だったはずである。明訓入学予定の中学生だったか?