山田世代高1夏の甲子園II 

センバツで考える関東と中部、東海【地理】

山田が高1の神奈川明訓では、秋季大会で野球部が優勝したときに優勝旗盗難事件が起きた。土井垣が監督、山岡が主将になって関東大会を戦い、今度は神奈川以外の関東勢との対戦。山梨・甲府学院に勝利したものの、山田が記憶喪失になり、千葉のクリーンHSと対戦しているときに記憶が戻り、優勝旗も戻った。決勝で群馬の赤城山と対戦して優勝。ここで赤城山の木下は山田たちに「甲子園であおう」と言って去った。文庫第18巻、172ページ、少チャンCでは第27巻の中間あたりに相当する。ここで里中は「そうか、関東からは二校でるんだ」、山田は「うん、準優勝の赤城山もおそらく選ばれるな」と言っていた。

 

 

関東からは2校だけでなく、もっと出る。

 

 

 

山田世代高2(高1と高2の間の春休み)の選抜には、関東大会ベベスト2の明訓(神奈川)と赤城山(群馬)のほかに、東京から飯田橋実業と小金井大付属(「附属」でなく「付属」と表記)、ほかに、山田を5打席連続敬遠した中二美夫(あたるふみお)の江川学院が栃木から参加している。これは文庫第18巻の274ページ、少チャンCでは第27巻の末に書かれたトーナメント表でわかる。
└→出場校一覧表

 

 

 

明訓と赤城山が出たのはいいとして、それなら関東大会で赤城山の前に明訓と対戦したクリーンが選ばれず、中二美夫(あたるふみお)の江川学院が選ばれたのはどういう理由によるものか。春の選抜の選考基準に詳しくないのでよくわからない。

 

 

 

「現実」の高校野球史ではいつのことか。山田太郎が74年春に明訓に入ったことを基準にすると、この選抜は75年春になるが、山田世代高2を描いたときの話から考えると78年以降、79年ごろと考えるのが妥当である。
1979年春の選抜は第51回大会(Wiki)であった。

 

 

 

アニメでは岩鬼は高2春選抜の土佐丸戦で78年のヒット曲「夢想花」らしき歌を歌っており、この選抜のあとの夏の予選の期間に殿馬の乗った飛行機がハイジャックされ、飛行機が着陸した場所は78年から使用されている成田空港。しかも「夢想花」は78年秋のヒット曲なので、岩鬼がそれを春に歌ったのは79年春以降であろう(發賣前に知っていた可能性もあるが)。
山田世代高2夏の大会で明訓が敗れ、土井垣が日ハムに入ったときは79年夏であった。
└→明訓敗北前後(1979年ごろ)

 

 

 

79年には箕島(みのしま)高校が春夏連続優勝。

 

 

 

新潟明訓と戦った山田世代にとっての高2春の選抜は90年春(第62回、Wiki)、『プロ野球編』における山田世代にとっての高2春の選抜は93年春(第65回、Wiki)であった。

 

 

 

星稜高校1年だったときの松井秀喜が新潟明訓と対戦したのは90年秋の北信越大会。これは『ドカベン(番外編)新潟明訓対神奈川明訓』の設定では、神奈川明訓にとっての山田世代高2秋の関東大会で、太平監督率いる明訓ナインが中山畜産、大熊谷などと対戦していた時期である。一方、『ドカベン・プロ野球編』の設定では、1990年の秋において山田世代は中2、山田が鷹丘中学に来たのは中2のころだからその秋を挟んだ2つの春の間(90年4月~91年4月)であった。
└→W明訓対決は91年か94年か

 

 

 

山田世代高1秋の関東大会、赤城山戦で岩鬼がピーゴロになったとき、1塁手の落球でセーフになったが、もし、落球しなければ明訓はその時点で負けていた。
山田世代高2夏の予選、横浜学院との試合でも谷津の落球がなければ明訓は負けており、ブルートレイン学園も落球で勝利を逃した。
明訓の勝利はある程度、運によるところもあり、山田世代高2夏、弁慶高校に敗れたのも不思議ではない。