満洲事変日中戦争、第2次世界大戦太平洋戦争東京大空襲と沖縄戦原爆満洲の悲劇
───────────────────────└→昭和の初めの戦争

『はだしのゲン』『ガラスのうさぎ』『ドラえもん』の「白ゆりのような女の子」「ぞうとおじさん」に共通しているのは、第2時大戦末期に子供だった世代の体験談がもとになっていて、すでに戦争をしているときから話が始まっていることである。
つまり、なぜ、戦争が始まったのか、誰が始めたのか、誰があおったのかという視点が缺落している。

 

彼らは「気がついたら戦争中だった」世代である。
例えば、第2次世界大戦でなく、イラク戦争やユーゴスラビアの内戦と分裂であれば、戦争の前に何があったか、語っている人は大勢いるだろう。
逆に、第2次大戦より遥か昔の戦争でも、シナの三国時代や日本の応仁の乱、関が原など、むしろ、戦争の原因と結果、政治勢力の変化のみが強調され、戦時下の悲惨さは余り語られていない。

 

人々が第2次大戦において持っている特別な感情は、歴史認識としては例外的なものかも知れないし。逆に我々が歴史をクールに見すぎているのかも知れない。

 

『はだしのゲン』では1945年当時、日本の民衆が進んで戦争を支持し、少数の反戦派を庶民自ら弾圧して、「終戦」後に反戦派に寝返った(そこは朝日新聞も同じ)点が強調されているが、第2次大戦が始まった理由については描写が乏しい。

 

日本での「戦争の記憶を語り継ぐ話」は「戦争が始まった」「戦争の時代だった」というように、まるで台風か地震でも起きたように戦争を語っている場合が多い。
戦争経験者でも、「私たちは戦争を始めてしまったのです」と自省、自戒の意味をこめて語る庶民は少ない。

 

沖縄で戦没者の慰霊がおこなわれたらしいが、やはり、「戦争は悲惨だ」「悲しい」というだけで、それを何万回繰り返しても戦争はなくならない。「鬼畜米英に復讐しよう」とか、「ヤンキーの歴史認識を正そう」とか、「アメリカ政府を訴えよう」とか、「アメリカの大統領が来たら日本への謝罪と賠償を要求すべきだ」という声は出てこない。「思いやり予算」などもってのほかで、ヤンキーが日本に賠償金をはらうべきである。北朝鮮はアメリカからの支援をもらっており、そうなると日本も核を持てばアメリカからのカネと物資をせびる口実を持てることになる。

 

手塚治虫の自傳漫画でも藤子・F・不二雄の「ぞうとおじさん」でも、「誰がやろうと戦争が悪い」という結論になって、かえってどこの国が悪かったか、各国の誰が悪かったかという視点が薄くなっている。
もし、『かわいそうなぞう』や「ぞうとおじさん」のようなことが第2次大戦字の中国の動物園で起きていれば、たとえ、動物に手をかけたのが中国人であっても、中国人民は「日本や西洋帝国主義のせいで動物は殺された」という風に、「誰のせい」ということを明確にし、その「敵」との戦いを正当化しただろう。

 

満洲であれ、樺太であれ、戦争が終わったはずなのに攻撃してきた「ソ連」が悪い。それを漠然と「戦争が悪い」という結論にすると、結局「誰も悪くない」という結論になる。実はこういうロシア、ソ連の脅威と闘うための日露戦争と大東亜戦争ではなかったか。