西本願寺と門前町(前篇) | 京一花日記帳

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毎月16日は、西本願寺の門前町「いちろく市」の日!

今日の京都は、昨日から一転、快晴!気持ちよく冷えた中を、自転車で訪ねました。


まずは、西本願寺へ。

御影堂門




*西本願寺 (正式名称: 龍谷山本願寺)*

浄土真宗本願寺派の本山。

浄土真宗を開いた親鸞聖人(しんらんしょうにん)さま(1173-1263)の没後、娘の覚信尼(かくしんにん)さまが、聖人の遺弟たちとともに、京都東山大谷に廟堂(霊をまつるところ)を建てて、そこに聖人の遺骨と影像を安置したのが、本願寺の始まり。

その後、第11代宗主顕如上人(けんにょしょうにん)さま(1543-1592)が、ここ堀川六条に寺の基礎を定めました。

1994年12月、「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されました。


阿弥陀堂




西本願寺(以下:本願寺)といえば、幕末好きとしてはやはり、新選組が屯所とした場所という印象が強いです。

新選組は、壬生村の八木家・前川邸を屯所としていましたが、 1864年の池田屋事件以降、隊士が増えたため、1865年3月、ここ本願寺へ屯所を移しました。

ここ本願寺は、長州と深い縁があり、尊王攘夷運動で幕府と対立していた長州藩士たちの拠り所となっていましたので、それを封じる意味もありました。


新選組が屯所としていたのは、境内の北東、「北集会所(きたしゅうえしょ)」と、 「太鼓楼(たいころう)」でした。

北集会所は、1873年(明治6年)、兵庫県姫路市の亀山本徳寺に一部移設され、現在ここに残るのは、「太鼓楼」のみとなっています。




(ちなみに本願寺門前町は、この地図下部、堀川通を挟んだ東側です。)


こちらが、現在の太鼓楼。境内から見たようすです。




修復されながらも、ほぼ当時のままの姿で残っているそうです。

太鼓は、時を報せたり、法要の合図として打たれていたもので、太鼓楼はその太鼓を備えるための建物です。 現在は、二つの太鼓が収められているのだとか。

立派な鬼瓦がたくさん。(新選組局長・近藤勇氏を思い起こさせます)




この太鼓楼横に建つ門の瓦も、凝ったつくり






↓境内外から見た太鼓楼




北集会所は、どんなものだったのでしょうね…。見てみたかったです。

この太鼓楼はかなり狭く見えます。 100人以上の隊士が寝泊まりした屯所ですから、北集会所はやはりもっと大きかったのでしょうね。

この太鼓楼の西側には、「安穏殿」があり、「本願寺ブックセンター」が置かれていました。




本願寺にまつわる本が集められているそうです。




「お寺を子どもの居場所に」「ひとりでも多くの子どもたちにお念仏の教えを伝えたくて…」と、キッズサンガ(sangha = 仏教徒の集団)という活動が行われていることを知りました。

本願寺が中心となり、全国で活動が行われているそうです。




すっきりと晴れた青空に、御影堂(ごえいどう)が映えました。




明治維新後、新選組結成時からの隊士、島田魁氏は、ここ本願寺の守衛をつとめ、太鼓番もしたそうです。


ヒヨコ

さて、この本願寺の御影堂門の真向かいに、本願寺門前町の入口の?門があります。




ここをまっすぐ東へ進むと、




「門前町いちろく市」の第一会場、「本願寺伝道院」です。




いつもなら、この伝道院周辺に出店が立ち並び、第二会場「龍谷ミュージアム」もあるいちろく市ですが、

なにせ、出店予定であった野菜農家さんたちが、最近の大雪により畑が雪に埋もれてしまい、農作物を収穫できず、今日のいちろく市はちょっと寂しい感じとなっておりました…。


でも、おかげで、お茶を販売していた方とゆっくりお話ができました。




宇治のお茶屋さん、「利招園茶舗」さんのお茶です。

かぶせ茶(茶畑の段階で布?をかぶせて光合成ができないようにし、カテキンの生成を抑えることで苦みを最低限に抑えたお茶)の、玉露を購入しました。

パッケージもオリジナルだそうで、とても可愛いですね♡




このあたり一帯は、仏具店が並びます。

(さっきの、門前町入口の門を逆から見たようす。真っ直ぐ行くと本願寺です)




いちろく市が行われている通りは、上の写真の通りと交差し、本願寺前の堀川通と並行していて、油小路通といいます。


油小路といえば… 新選組と御陵衛士の「油小路の変」ですが、それはまた後篇に書くとして、

油小路通では、もう一つ、新選組に関わる大きな事件がありました。


伝道院から徒歩数分、油小路通を北へ上がるとある、 「旅籠 天満屋跡」




そう、あの天満屋事件が起こった場所です。


*天満屋事件*

1867年11月、坂本龍馬氏・中岡慎太郎氏らが暗殺されました。(近江屋事件)

土佐藩の陸奥陽之助氏(のちの陸奥宗光氏)は、いろは丸沈没事件で龍馬さんに恨みを持っていた(※)紀州藩の犯行であるとし、海援隊・陸援隊士らと共に、紀州藩公用人であった三浦休太郎氏を討つ計画を立てます。

※龍馬さんの海援隊が借り受けていたいろは丸が沈没した際に、沈没の原因となった衝突相手の紀州藩は、龍馬さんの追及により、多額の賠償金を請求されたのです。

危険を察した紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦氏の警護を依頼し、

ここ天満屋において、新選組の斎藤一氏、大石鍬次郎氏ら7名が、三浦休太郎の護衛に就きました。

1868年1月1日、陸奥氏・海援・陸援隊士ら16名が、三浦氏と新選組隊士らが天満屋2階で酒宴をしているところを襲撃。

灯りが消され暗闇での乱闘となりましたが、新選組・紀州藩がそれぞれ援護を送ったときには、すでに襲撃側は姿を消したあとでした。

結局陸奥ら襲撃側は、三浦を討つことはできず、同志の十津川郷士出身の中井庄五郎氏が返り討ちにあい、命を落としました。


この地には、中井庄五郎氏の殉職を示す石碑が建てられていました。






私がこの地に天満屋があったことを知ったのは、昨年12月23日、同じくこの地で行われていた、 「京北マルシェ」に行ったときでした。




現在の京都市右京区にある地域「京北」の、特産物が並ぶ市でした。




またこの市で、この本願寺門前町のゆるキャラ、おりんちゃんとも初対面しました♡




話しかけると、「チーン」と音を鳴らして答えてくれる、とってもかわいいおりんちゃんです♪

お餅つきをしたり、しめ縄をつくったり、京北の方と触れ合いながら、素敵な市を思いっきり楽しみました。皆さまとっても温かくて、、ありがとうございました。


私はこの京北マルシェに行った際に、天満屋事件とこの地とのかかわりを知ることになるのですが、

続きはまた後篇にて…