誰でも知っている戦国最後の覇者、徳川家康
一般的には苦労を重ねて天下を統一した人と言われており、自分自身も「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」と、まぁいい言葉なんだけどちょっとうんざりするような遺訓を残して、自分の人生が苦労の連続であったことを後世に絶賛アピールしています。
彼の一生を語る時、決まり文句のように「少年時代は今川氏の人質という不遇な境遇で過ごした」と表現されますが、本当にそうなのでしょうか。
実は彼の少年時代は幸福で充実していたのではないか。あの時代がこそが後の天下人徳川家康の基礎となったのではないか。
今回はそんな話です。
人質生活の始まり
(竹千代君像)
父の松平広忠が当時今川氏に従属していたため、松平竹千代(後の徳川家康)は6歳の時に人質として今川家の元に送られることになりました。
このこと自体は別に珍しいことでも悲劇的なことでもなくて、日本中で同じようなことが行われていました。
例えば、毛利元就の長男の毛利隆元は人質として大内氏に送られましたし、大河ドラマ「真田丸」で草刈正雄さんが名演されたのも記憶に新しい真田昌幸(真田幸村のお父さんですね)も人質として武田信玄のもとに送られています。
さて、竹千代ですが、途中の豪族の裏切りにあって、なんと今川ではなく織田信秀(信長をお父さんですね)のもとに転送されてしまいます。
そこで2年間暮らした後、今川が何かの戦いでとっ捕まえた織田信秀の長男(信長の兄)との人質交換で、ようやく今川のもとに送られることとなりました。
この辺りの顛末も「まだ小さいのにあっちこっち物みたいに送られてかわいそう」みたいな描かれ方をすることもありますが、今川氏の最大の敵であった織田信秀の長男と引き換えにされるぐらい、今川氏が松平氏を重要視し竹千代の価値を重く見ていた事がよくわかります。
そんなこんなで、今川氏のもとにおける竹千代の人質生活が始まりました。
人質生活の実態
徳川家康の小説とかでもよく「人質として肩身の狭い思いをしていた」とか「今川の家臣によくいじめられていた」とか、そういう描かれ方をされていますが、私はねぇ、そんなことは皆無とは言わないまでも、ほとんどなかったと思いますし、「いじめられたエピソード」は後で誇張されて捏造されたものなんじゃないかと思っています。(そう思う理由は後で述べます。)
むしろ、かなり大事に扱われて、かつ、かなりいい教育を受けさせてもらっていたんじゃないでしょうか。
先ほども述べたとおり、三河(今の愛知県東部)を支配するにあたり、今川氏は松平氏を非常に重視しており、竹千代はそのキーマンであったわけです。竹千代が今川への忠誠心あつい有能な武将に成長してくれることは今川の西方戦略にとって非常に有益なことになるため、丁重に扱われ、かつ武将としての英才教育も受けていたものと推察されます。
今川家という環境
当時の今川家の当主である今川義元、ちょっと前までは、公家にかぶれて圧倒的大軍を擁していながら油断して信長に打たれた愚将、というのが一般的な世評でしたが、最近だいぶ再評価されてきていますね。
(大河ドラマの「麒麟が来る」でも、片岡愛之助さんが猛々しい武将として演じてましたね)
彼は、分国法である仮名目録追加や寄親寄子制度の導入・整備など、先進的な領国経営を行っていた名君であったようです。
また、本拠地の駿府は戦乱の京都から避難してきた文化人も多く、そんなこんなで日本有数の先進地域となっていました。
今川家に人質としてきていたのは別に竹千代だけではなく、今川家に従っていた豪族から子弟が集って、将来の今川の藩屏となるべく、一緒にワイワイと(てのは想像ですが)教育を受けていたでしょう。
要するに見方を変えれば、竹千代は当時の日本有数の先進地域に「留学」して英才教育を受け、かつ人脈を築くこともできたと言えるわけです。
加えてですね、「留学先」の今川家は英明な君主のもと全盛期を迎えていた大国で、先ほど述べた先進的な領国経営が行われ、大国同士の外交戦(対武田、北条、織田)があり、大軍を用いた軍事作戦も盛んに行われていました。
これらを間近で学ぶことができたのは、家康にとって計り知れない財産になったと思うのです。
ついでに言うと、家康は意外と、今の進学校の受験生みたいに、真面目に勉強して習ったことは素直に吸収するキャラだったようで(その辺は信長とは全然違いますね)、まさに留学にはぴったりの性格だったと言えますね。
いじめられた伝説について
客観的に見ると、家康は今川家から以下のように遇されていました。
・父親が亡き後も今川家に保護してもらう
・領国も守ってもらう
・教育を受けさせてもらう
・今川氏一門の娘と結婚し準一門衆としての待遇を受ける。
これらのことは当然今川家の利益のためではあったのですが、家康は今川家に対し計り知れない恩があったことは否定できないでしょう。
にもかかわらず家康は、義元が死ぬやいなや今川家と手を切って織田と同盟を組み、後には武田信玄と組んで今川家を滅ぼしました。
そんな家康のマキャベリスト全開の行動は戦国時代には特に非難されるようなものではないけれど、江戸時代的価値観から見れば、明らかに倫理に反するわけです。
神君家康がそんな恩知らずな行動をとったとなっては色々都合が悪い、そんな矛盾を解消というか中和するために、数々の「いじめられた伝説」が作られたのではないか、そんなことを妄想しています。
家康の晩年
(駿府城)
家康は子の秀忠に将軍職を譲った後、人質としての幼少期を過ごした駿府に隠居することになります。
なぜ駿府なのか、もちろん、江戸に比べれば温暖であるとか、秀忠の権威と権力を確立するためには、江戸とある程度距離があった方がいいとか、実利的な理由があったのでしょうが、本当に幼少期に酷い目にあったのなら、そんな地に住む気にはならないと思うのです。
ただ単に、子どもの時の暖かい思い出の詰まった地で晩年を暮らし、そして死を迎えたかったのではないか、そんな風に思うのです。
皆さん、楽しんでいただけましたでしょうか?
ではまた