読者の皆さま、こんばんは!

 

最近、とあるアメンバーさんから、とんでもない本を書いている人がいると教えてもらいました。

 

その名も「学歴狂の詩」という本で、著者は佐川恭一さんという方。

 

1985年生まれ、滋賀の田舎の公立中学から、洛南高校特進コースへ進学(東大寺学園・ラサールにも合格)、一浪を経て京都大学文学部へ進んだ著者は、『学歴』に異様なまでの思い入れがあるらしく、田舎の神童だった頃の思い出や、洛南高校で出会ったイタイ友人たちの話を、赤裸々に語っています。

 

私はまだ読むかどうか迷っていて注文もしていないのですが、ネット上では部分的に切り取って公開しているようです。

 

例えば、現在公開中の東洋経済ONLINEでは、次のような記述があります。

 

東大に現役合格した友人と京大に落ちた私の「決定差」、"学歴狂"の高校時代を振り返る、私は「スーパー学歴タイム」の真っ只中にいた | 学校・受験 | 東洋経済オンライン

 

(記事より引用)

私の通っていた某R高校の特進コースでは多くの者が京都大学を目指していたが、当時は学校として東大合格者も増やしていこうと模索している最中だった。京大合格者数ナンバーワンを保持しつつ東大の数も増やしていき国公立医学部もバンバン受かって最強になろう!というのが、おそらく当時の我が校の目指すところであった。裏を返せば東大・京大・国公立医学部の3種以外は高校の進学実績として完全に無ということであり、それらを目指さない者はその時点で「己に負けている」のだった。

(中略)

私は京大にだけは絶対に合格しなければ気が済まなかったが、はっきり言うと、その先の人生はどうでもよくなっていたのである。これは真面目に聞いてほしいのだが、真の学歴厨は「学歴さえ高ければあとはどうでもいい」という謎の期間、「スーパー学歴タイム」を経験する。

 

 

もう完全に頭おかしいですね(笑)

 

他にもいくつかこの本の切り取り記事を読みましたが、今回は以下の記事を取り上げたいと思います。

 

"田舎の神童"が学歴至上主義に染まった原体験、「天才と勘違いした私は"学歴狂"になった」、塾でVIP待遇・ヤンキーからも一目置かれる存在に | 学校・受験 | 東洋経済オンライン

 

少し長いですが、引用します。

(時間のない方は赤字部分だけお読みください)

 

「佐川恭一」という名前を聞いてピンとくる方はよほどの物好きだろうから、簡単に自己紹介しておくと、私は京都大学を出ている。1985年生まれ、滋賀出身で、小説を書くこともある。とりあえずそれだけ知っておいてもらえれば十分である。まずは、私が学歴に取り憑かれてしまった経緯について紹介しておきたい。

京大を卒業している私だが、そもそもは京大などというワードすら出てこない世界(滋賀の田舎町)でハナタレ小僧をやっていただけだった。

父は高卒、母は短大卒。父はかなり貧しい母子家庭で育っており、その流れでうちも貧乏だったのだが、父が会社の仕事でメキメキ頭角を現してだんだんマシになっていった。

父は大卒をブチ抜いて出世していたからか「大学なんて出ても社会では役に立たん」みたいなことをよく言っていた。一方で母は、父が大卒を攻撃するのはコンプレックスの裏返しだと考えていたようで、私に何とか大学は出てほしいと思っていたらしい。

父の実際の心理はわからないが、この母の漠然とした思いのおかげで、私と妹は大学に行くことができた。私の一族で、少なくとも冠婚葬祭で集まる近しい範囲で大学を出ているのは、私と妹だけである。

家がその程度の感覚なので、小学生の時はすでに廃刊された『学習と科学』という学研の雑誌を購読していたのと、あとはそろばん塾に通っていたぐらいで、中学受験なんて考えもしなかった。

家族の誰にもそんな発想はなかったし、私の小学校から私立中学に進んだ人間は一人もいなかったと思う。小学校のテストの点数は良かったが、テストのレベル自体が低いので周りも高得点を取っていた。

 

事態が変わり始めたのは小6になる直前、友達に誘われる形で地元のそこそこ大きな学習塾に入り、算数と国語のテストをはじめて受けた時のことだった。そのテストの成績が小4からずっと塾に通っている生徒たちよりも良かったとかで、先生が「この子はものすごい逸材です」みたいなことを母に言ったらしいのである。

私の住んでいた滋賀の田舎町で「ものすごい逸材」と言えば、公立の「彦根東高校」に行くものと相場が決まっていた。滋賀の公立ナンバーワンと言えば「膳所高校」なのだが、私の時代にはまだ学区制があり、私のエリアから膳所の普通科を受けることはできなかった。

私はまず彦根東高校を目指すという目標を立てられ、真面目に塾に通った。とはいえ、小学校時代にはドラクエやFFやダビスタをやりまくっていたし、彦根東の価値もよくわかっていなかった。なんかまあ、塾行ってこのままやってりゃ入れそうやな、という感じだった。

そのまま公立の中学に入ると、定期テストや実力テストというものが始まる。私はそこで5教科480〜495点ぐらいを取りまくり、それが結構ヤバイということになった。私は「天才」ということになり、私も「僕は天才なのでは……?」と思うようになった。

一方、塾の方でも小学校時代より大規模な全国テスト(と言ってもせいぜい近畿地方が塾の勢力圏なのだが)が行われ、そこで1〜4位ぐらいをコンスタントに取り、やっぱり天才ということになった天才ということになると、やる気が出る。私は誰に言われるでもなく異常に勉強するようになった。

そこで塾は私に、某R高校や東大寺学園高校、ラ・サール高校を目標にやっていこうと言った(ちなみに、灘は某R高校と受験日が一緒なので受けられないと言われたが、そもそもその塾で全国1位を取っても灘の合格率は20~40パーセントだった。塾自体が灘に対応していなかったのだ)。

いや、近くの彦根東でいいです、とはもはや思わなかった。私はより高い目標を目指して自分に過剰な負荷をかけることに、そしてそれが成果として表れる現実に、快感さえ覚えるようになっていった

塾の同じ教室には私以外にも2人ほど全国ベスト30に入るぐらい優秀な生徒がおり、塾は「田舎に奇跡的に集ったこの3人の宝を育てなければならない」みたいになってなんと私のいたいわゆる特進クラスが特進A、特進Bに分割された。

わざわざ塾が私たちのために編成を変えたのである(これは記憶違いの可能性もあるのだが、私の通っていた教室には最高レベルのクラスが設置されておらず、たぶんそれを勝手に作ることもできなかったので、上から2番目のクラスを2つに割り、片方を疑似最高クラスとして扱ったみたいな感じだったと思う)。

私はこのVIP待遇を見て自分を完全に天才だと確信した。これは田舎特有の現象だろう。東京や大阪ならもっとレベルの高い塾が乱立しているし、周りに自分よりできる人間はいくらでも見つかったはずだが、私のいた滋賀の田舎町には、私を超える人間が見当たらなかったのだ。

視野が狭すぎる、と言われればその通りなのだが、まだインターネットも発達していなかったし、SNSなんて影も形もなかった。私には遠くにいる強豪の姿が見えていなかったのである。

しかし、この視野の狭さが私の勢いを加速させた。「自分は天才だ」という思い込みは、私を勉強にドハマリさせたのである。私は神に与えられたこの才能を腐らせてはならないと思い込み、勉強に勉強を重ねた。

勉強していない時間をいかに減らすかということにこだわり、風呂に入る前には間違えた問題を紙に書き、風呂の壁に水分で貼り付けた。頭を洗っている時以外はそれを睨んだ。記憶術の本を読み、夜眠る前には必ず暗記物をやるようにした。

通っていた公立中学の授業はもはや完全に無駄だった。簡単なワークを終えて余った時間で、隠れて塾のテキストをやった。同じ塾の特進Aの菅井君などは、なんと授業中に某R高校の赤本を机に丸出しで解きまくり、先生からベランダに呼び出されて激怒されていた。私はさすがにそこまであからさまにやる度胸がなかったので、「菅井、やるな」と思っていた。

そんなこんなで、私は勉強に明け暮れる中学時代を過ごした。公立中学なので(?)ケンカに明け暮れるヤンキーもいたし、ガチのヤクザの息子もいた。しかしヤンキーたちですら私を天才と認め、温かく応援してくれた。

普通にガリ勉と言われていじめられても良さそうなものだったが、私のガリ勉ぶりとそこから叩き出す偏差値は──自分で言うのもなんだが──町内では常軌を逸しており、ほとんど神の領域に達していた(あくまでも町内では)。ヤンキーたちもおそらく私のことを、国の未来を担う逸材だと考えてくれていたのだ。

こうして田舎町の公立中学を制圧した私は、東京や大阪や別の塾や私立中学にどれほどの猛者(もさ)が潜んでいるかも知らず、自分の頭脳を日本有数の宝と思い込み、受験に向けて飽くなき努力を続けた。

この頃、私は人生で最高に調子に乗っていた。もうあれほど調子に乗ることは二度とないだろう。たとえこれから芥川賞やら直木賞を獲っても、100万部売れても1000万部売れても、メチャカワアイドルから告白されてもノーベル文学賞を獲っても、中3の頃以上に調子に乗ることはありえない。

(中略)

最終的に、私は某R高校と東大寺学園高校とラ・サール高校に合格し、母を狂喜させ、塾の先生たちを狂喜させ、クラスメイトたちに祝福された。友人たちは、当時サッカー界で大活躍していた中田英寿を引き合いに出しながら、「佐川君は日本におさまる器じゃない」と言った。「世界のナカータを超えられるのは恭ちゃんしかいない!」

私は度外れたアホだったので、「確かにな」と思っていた。というか、小学校時代にサッカー部を即やめた経験からサッカーが嫌いになっていたので、「中田とか球蹴ってるだけやん」と本気で思っていた。

私の脳内では、セリエAで活躍することより、東大寺に合格することの方がはるかに上だったのだ。私はそのまま、家から通える某R高校に進学することになる。

特進コースだったとはいえ合格した中では当時もっともレベルの低い高校だったので、私はそこで軽くトップを取り、大学は最低でも東大、もしそれが簡単すぎるようなら海外の大学も視野に入れようと思っていた。そんな調子だったので、私はまさか自分が地獄の高校・浪人生活を経て、命からがら京大文学部に滑り込むことになろうとは、夢にも思っていなかった。

 

(引用、ここまで)

 

著者が田舎の神童だった頃の思い出話ですが、よくぞ書いてくれたと私は思います(笑)

 

これは、勉強適性の高いギフテッド凡人が、人生のどこかで必ず一度は経験する時間であり、程度の差こそあれ、みな佐川氏と同じような状況(赤字部分)に直面するというのが、私の見解です。

 

佐川氏の回顧録は「地頭上位者が一般人と同じ土俵で戦うとこうなる」というのを如実に示したものであり、そんな著者でも「浪人を経て、命からがら京大文学部に滑り込むことになった」という事実は非常に示唆的です。

 

これはまさに、人間の地頭格差は対数で認識しなければならないほど大きいが故に起こる現象なのです。

 

佐川氏は、中学時代、自らを天才ではないかと思うほど万能感に満ち溢れていたと書いていますが、これは言ってみれば「スーパー地頭タイム」であり、「一般世界」から「本来の地頭ポジション」に移行するときに出現する「ボーナスステージ」です。

 

スーパー地頭タイムの特徴

 

●「地頭」と「立ち位置」が「平衡状態」に達するまで続く

●中学受験では小5後半からの追い上げ組がこれを味わうことができる

●高校受験組は、さらにより深く味わうことができる

●その時のことは何歳になっても異様なほど鮮明に記憶している

●社会人になってドロップアウトしてしまった後も、輝かしい記憶として残り続ける

●誰になんと言われようと、これを上回る快感はありえないと確信している

 

 

私は以前、「地頭に比べたら、育てられた環境なんて、学力にほとんど影響しない」と主張したことがあります。

 

それは、仮に親が教育に興味がなく、「勉強なんてどうでもいい」という雰囲気の家庭で育ったとしても、この佐川氏と同じような地頭レベルであったとしたら、人生のどこかで、自分は凄まじく勉強ができるのではないか?ということに否が応でも気付いていしまうからです。

 

逆に、持って生まれた地頭が相当高いのに、一度も「自分はもしかして頭がいいのではないか」と気付くことなく、「自分はバカ」と思い込んだまま、小学校・中学校・高校のテストを全て「低得点」で「潜り抜ける」ことなんて、できると思います?

 

そんなん、針の穴に何回も連続で糸を通すくらい難しいと思います。

 

中学受験しようがしまいが関係ありません。

公立中学校に入っても、地頭が良ければ、まるで吸い寄せられるように、自らの「適正地頭ポジション」に移行していきます

 

むしろ公立中学校のほうが、自らと周囲の地頭格差がデカいので、勉強で頭角を現すことが最もコスパがいいことに気付きやすいのです。

 

特に思春期の到来と重なる中学時代は、自分は他者より勝っているのか、負けているのかということを、痛いくらい気にする年頃です。

 

中学生のポジションなんて、金や社会的地位では決まらないので、せいぜい顔面偏差値、コミュ力偏差値、スポーツ偏差値、学力偏差値の4指標くらいです。

 

この中で「顔面偏差値」はだいたい上位100分の1くらいで頭打ちになるのに対し、「学力偏差値」は天井がなく、どこまでも高みを目指し続けられると同時に、「スポーツ偏差値」のように上位1000分の1に入らなければ食っていけないというものでもないので、地頭人間にとって極めてコスパがいいのです。

 

したがって、まともな理性のある地頭上位者なら、「学力偏差値」で勝負するのがどう考えても得策であることに絶対に気付くはずです。

 

以上の理由から、地頭ガチャで勉強適性遺伝子を引いた人間は、親がどのように育てようが、小学校・中学校のどこかで「スーパー地頭タイム」を不可避的に経験することにより、最終的には「地頭」と「立ち位置」が「平衡状態」になるまで移動し続けるというのが私の考えです!!(笑)