くろごませんべいです
こんばんは
産まれた時から縁起の良い人のパターンは皆さんもいくつか知ってると思います
豊臣秀吉は母親が太陽が体内に入る夢を見た
というエピソードは有名です
殿様の出生時や妊娠時は似たような話が多いですが、一般庶民や家臣たちに忠誠を誓わせる効果を狙って夫人達が作った話もあるとは思いますリアリスト
アレクサンダー大王という海外の偉人も、父親フィリッポス2世は、妃オリュンピアスと結婚後しばらくして、獅子の彫刻をもって妻の腹の上に封印をする夢を見て、お抱えの夢占い師・アリスタンドロスはこれを、后が身ごもっており、子は獅子のように勇ましい性質を持っていると解釈したんだと言われておりますこうして生を受けたアレクサンドロス大王はその通り英雄です
源頼朝は3歳の時に乳母の内の一人が仏像を夢に見たとかでそこから寺院を貴んでます
では皆さんの場合は人生初のお宮参りで写真に龍型の光が入り込んでる人は神社へ参拝なんてしなくてもいざとなったら天が味方する天運の持ち主ですのでご家族の大昔の写真や画像を見てみて下さい
また、生誕時の吉祥現象よりもその後の生活で幾つか吉兆を見る人の方が断然多いです先ほどの源頼朝も3歳で吉兆の前触れを得ましたが、夫人の政子はもっと凄いです
大抵はスルーしちゃうんで勿体ない
こちら自分以外の人に現れた吉兆をずる賢く自分のものにしてますが政子は吉兆とその手繰り寄せの方法を知っていたからこそ他人の幸福を自分のものに出来てます
例え夢や前触れでも吉の知識を得ている事と自分に持ってくる方法を知ってる知識があってズルいですが努力するんでその結果でしょうね
では幸福とは真逆の事に切り込んでいきます
たったの100メートル300メートルで帰宅出来て安心のハズだったのにたまた通りすがりの計画性のない近くにいた誘拐犯にさらわれ無残にも殺害されてしまった人
犯人が前々から狙いを定めて周到に計算して行動を把握してたらまだ納得できる部分はあるけど、たまたまの偶然性の運の悪すぎは何とも言えないそんな事件も多いです
ネット社会と言われ始めた頃の昔むかしの事件で皆さんの記憶にあるかどうかわかりませんがネット掲示板という事が出て来てまだ年月浅く「この世に神も仏もない事件」と言われた事柄をあげますと
たまたま歩いていたら男性に神社へ道案内して欲しいと言われ言葉で説明せずに一緒に歩いて案内をした心優しい少女は神社境内で暴行されるという神も仏もない世界
また犯人は掲示板の依頼で〇月〇日〇時にドコドコを通る予定のムカつく女性を襲ってくださいという書き込み依頼に応じたものの,当の狙いの女性は予定を変更したために現れず空振りとなったけど、犯罪意欲モリモリの犯罪者の異常者のヤル気は抑えられず同時間帯に歩ていた未成年女子でもこの際いいやで起こった事件後にネットで他人を害する依頼の問題にもなった事件ですが
暴行依頼の書き込みをしたのは恨む女性です。被害者は全くの別人で降って湧いた災難
書き込み側もどうなったか知りませんが昔の事なので罰則適用で処罰なのかそれすら疑問
ネット掲示板で殺害予告や暴行依頼が多くなるから罰則を儲けろとかそんな世論で終わってます
誰かの恨みを背負ってても無事な人と
誰かに恨まれるようなことは一切ないのに降って湧いた災難に遭ってしまう天運がない人
もいるわけです
そういう人は生まれる前と後で不吉な事象が起こってたり、後に縁起の悪い前触れはあると思ってます親がスルーしてるか周囲が気づいてないか
鈍感力って大事というけど人生読めないとダメですので鈍感が良いわけでもない
私は占いをする以前に前触れを採用してます。前触れを外応と言います
皆さんはアレキサンダー大王や豊臣秀吉のような縁起の良い話は耳にした事があると思いますが、生まれながらに神様に嫌われてるとしか言えないような、不吉しかない縁起の悪い事しか起こってない人物はあまりよく知らないんではないだろうかと思うので常識で知ってる事とは違う真反対側の縁起が悪いとしか言いようのない呪われた人物の話を紹介します
この話をまだ結婚してない方々で自分の結婚の先を判断するきっかけや、自分の最期を知る手掛かりの一つの参考になれば嬉しいです
余談
私は結婚の時に縁起が悪い事が次々起こっていて式が進む中で冷静に「この夫とはやがて離婚するので誓詞なんぞしなくていい」と思い、三々九度もフリだけで口をつけないそんなことをしてます
式の最中に片方のイヤリング紛失とか二つあるハズの片方紛失などありましたね。昔の記事に書いてると思いますが埋もれてると思います
暇だったら探してみてください
【人生の流れくろごま視点での印象も混じった偏りのある解説】
伊達政宗の母方の伯父、最上義光の娘として産まれた駒姫は子どもの頃から格段の美少女であり両親に溺愛され家中にも大切にされて育ちました。その前にはなりますが当時の社会的な政権はどうだったかと言うと
豊臣秀吉が太閤殿下となり日本の実権を得る動きの進行中に秀吉は後継者となる実子がいない事から消極的に甥の秀次を養子にし関白として後を継がせるつもりでいたのです当初は・・・です
関白秀次は伯父の秀吉と同じで好色で淫乱モノであります一方で学を誇り勤勉な文系エリートの一面もありましたが学のない秀吉とはあまり相性が良くないながらも均衡を保ちながら養子の役目は果たしてます
秀吉は実子が生まれると秀次が次第にじゃまになり、その心境を察した秀次はうつ病を発し狂乱めいた行動もあり不安定となりますが、史実では狂乱と言える残虐事件の真偽は不詳であり秀吉の作ったでっち上げ説もあり本当のところは真偽不明です。医師の治療記録は残されておりうつ病と喘息の治療をしてたのは事実です
この時期天下人になる予定の秀次がまだ気を病む数年前頃に最上義光は愛娘を献上する約束をした、もしくは秀吉と秀次の関係が微妙で病んでると言われた頃に娘を献上する事にしたのどちらかです
数年前の事であろうが発作的に急に決めたであろうが、親秀次派の最上義光は周りが見えておらず決断を間違えているとは言えます
京の都の作法などを姫に教育しその姿は才媛となり、まだ子どもの内から才を備えた美少女と大評判となったのが駒姫の運の尽き権力者は最上の家の娘で才媛ならば欲しますので早いうちから縁談はあったらしく、娘溺愛の父親は突っぱねておりましたそうな。当時の評判の記録は幾つかありますが、琵琶を弾きこなし和歌はお上手で何しろ美人と言った非の打ち所がない姫に育ってます
「小野小町がするたしなみは全て完璧。琵琶を弾じては傾く月の影を招き、花の下に歌を詠じては、移らふ色をいためたり」
という表記あり
また、彼女は後に処刑されますが処刑後、処刑命令をした豊臣秀吉の元に明国の使者が来て饗応の時に茶を出したけど茶人が立てるよりも
「小督かお伊満のお点前ならひときわ趣があるだろうに」
と教養人に言わしめる位の女性です小督は平家物語で「宮中一の美人であり琴の名手」か、徳川秀忠の嫁のお江与のいづれかの事
江与は淀殿の妹(江)で秀吉の命令で結婚と離婚を繰り返してますが殿方は秀吉の手前断れなかったかもしれませんが、淀殿、初,江という三人姉妹の中で一番縁談も多く結婚を望まれたのが江
誰も縁談を拒否する人もおらず、当の秀吉も淀殿には関心がなく当時は側室にしてませんが、この江には目を光らせてり襲おうとして未遂に終わり、妹を非難させる為なのか解りませんが淀殿の意向で三姉妹で一番最初に嫁がされてます。秀吉の命令で離縁で戻ってきたらまた秀吉は彼女に手を出そうとしてるので懲りない男秀吉ですやがて当時の感覚では結婚年齢を過ぎてる淀殿が側室になってます
平家物語の人物か徳川の嫁なのかどっちにしろ気品、容貌、立ち居振る舞い、すべてにおいて最高の品格「お伊満」は駒姫の呼び名です。彼女が「小督」と並べられたのは、駒姫がいかに美しく雅やかな女性として評判になっていたか解る話です
大昔でも今でも美人の評判が立つと男子は噂を元にして探ったり見に行ったりしますが家に籠って家から出ない美しい女性でもその姿を見た人の噂によって翻弄されるので美人は苦労する
武田の松姫は美人故に逃亡生活が難儀してたり、現代の話では芸能人でもない一般の女性で私生活が脅かされたのが、大相撲の姿勢が美しく所作も上品な最前列に座ってテレビで30秒流れるだけの美人大相撲の最前列の謎の品格を有する美人も国民の男性の疑問や相撲の業界の方々から「どこの女性だ
」と話題となりながらも、「接近したら警戒されて相撲を見に来なくなるから接近してはならない」みたいな男性同士の暗黙の抜け駆け禁止協定らしきがあったそうです
結局騒ぎは大きくなってしまい雑誌の記者に追われてしまい「一般ですので・・・お答えできません」と逃げるしかない苦労や難儀をしてますが単なる美人ではなく風格を有するたおやかな完璧美人とはそういう物
駒姫は最上の家でずっと過ごしていて人目に触れない秘蔵の娘ですがまずは家臣が姫を見て「当家の姫は美姫である」とか姫の自慢でもして、そんな話からどんどん噂になったんでしょうかまた殿様同士の饗応の時は下女がもてなすのでは無く、未婚の姫か奥方がもてなす事が多いので、最上家を行き来した殿様クラスの来客からの噂が出回ったとも考えられます
くろごませんべいの憶測と推測です・・・
既に天下人秀吉と養子秀次の不仲で明日はどうなるかもわからない雰囲気は諸大名に知れ渡ってるにもかかわらず、15歳となって立派な成人女子となった駒姫は父親の最上義光の命令で京の秀次の屋敷へ向かって出立しましたが、道中で秀次は豊臣秀吉の逆鱗に触れ高野山へ追放という知らせを受け、引き返す事も検討はあったでしょうが結局家臣の意向なのか父親の最上義光の意思か解りませんが
秀次の屋敷聚楽第へ向かい、聚楽第に入ったとも京都の秀次の別邸に入ったとも言われ(秀次は京以外に近江八幡にも居住地がありますので京都の邸宅は幾つかあったと思われます)
伊満の方と呼ばれ秀次側室という待遇で過ごしますが少なくとも秀次とは成人後には対面してません(両者は幼児の時に面識があったとも言われてますが秀次が関東平定に向かった事は事実ですが、最上の城へは立ち寄ってもいませんので最上の城へ行って一目惚れして姫を催促したという面識があった説は後世の後付けと思われます)
屋敷に到着しおおよそ1週間位で豊臣秀吉は秀次と仲の良い大名や家臣などを謹慎や蟄居を命じ、駒姫の父親最上義光も従弟の伊達政宗も謹慎処分となり
このままでは姫は良くて出家。悪ければ流罪か処刑であろうという話題が出始めた頃より1週間後、秀次は高野山で自害
秀次自害5日後は豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃で動揺する大名たちに対して、太閤秀吉は愛児秀頼(秀吉の息子)への忠誠を誓わせ、その誓約書に「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をし
慌てふためいてる中で秀次自害一週間後には秀次の妻子残らず処刑という命令が下され、駒姫は政争に巻き込まれて妻ではないのに妻として処刑される15歳。事実は側室候補だっただけです
助命嘆願がされたそうですが謹慎食らってる最上が他家や淀殿に働きかけられたのかの疑問は残りますが、助命嘆願しても秀吉には聞き届けられなかったとも、助命は渋々したものの伝令が間に合わず処刑された後だったとも
山形では京都の衝撃事件が伝わったのは8月山形にいた一族重臣が協議した結果で8月上旬に最上家嫡男義康が大沼明神に「松は伐採しないので最上家の安泰と父義光の命の無事」の祈願状を捧げ神頼みする最上家
祈ってどうすんでしょ
アホか
この神頼みを息子がしたという事に非常に感激した父親最上義光
人の心って明日はどうなるかわからんとは言ったもので父親としては太閤秀吉に目を光らせられて監視されてる最上家なので何も出来ない息子の思いやりの行動にはいたく感激したものの、やがてはそんな事も忘れ去ったかのように息子を亡き者にしようとします
最上義光は性格が悪いのです
残酷な余談話ですが駒姫の連座により父親義光もどうなるかわからんので、父親の無事を祈ったこの孝行息子の義康は勇猛で勉学はできて優秀であり心優しい評価があるものの、後に父親義光と不仲になり、秀吉に娘の命を奪われた義光はその反動で徳川家康と懇意になるものの、家康はそういった事情で急にすり寄ってくる最上なんぞ信用をしてはいません
徳川家康は有力大名の長男に娘を嫁がせ婚姻関係を結ぶ一方で大大名の最上家嫡子の義康には縁談を結ぼうとはせず無視し、義光の次男とは仲よくなっており、親義光としては家康と縁続きにならないのも気になり焦りもあり家康に気に入られてる次男を立てた方が良いはずだとなる思考
家康サイドは駒姫の処刑をきっかけにして反太閤秀吉の為に親しく寄ってくる最上義光には伊達政宗という親族関係も無視はできず、最上と伊達はの仲は争いもあったりして微妙な関係であっても仲良くなってしまったら徳川に取っては非常に大きい危ない勢力ですので困るのです
伊達政宗と義光嫡男義康はある程度仲が良いのでこれを切っておきたいのが家康ですわざと義光の次男と仲良くする家康
また、義光派閥と嫡男義康派閥の家臣同士の対立があり両者に伝える事実は歪んで伝わるので父子の関係は悪化次男は家康に気に入られ家康の本心もわからないまま嫡男を排して次男を後継者にするかどうか家康に相談する義光
当然家康は「そのようにしたらいいのでは」位にしか言ってませんが最上家がまとまってない事は家康は嬉しいのです
家康の狙いは大きい大名の最上家の弱体化ですまんまと最上義光はその策に引っかかってます
秀吉に対して復讐心があり、関ケ原では徳川の為に大きな働きをした最上ですけど義康は廃嫡され自害。それも父親義光は秀吉と同じように「高野山へ行って謹慎」と言い渡し、息子は途中家臣に襲われ落命です
親と子が名前を分ける事を姓名判断では親族殺と言いずっと命を引っ張り合うので親子は漢字を分け合わない事が名づけの原理原則の掟ですまた忌文字「義」はマズいです
さて、緊急事態で姫は処刑で殿様は謀反を疑われ絶体絶命の危機で山形の最上家家中は神頼みの続きです
事態の動き大体5日~1週間で変化しており、ネットや電話もない飛脚の時代で1週間で命令が動くという事は豊臣秀吉の実際の命令は3日や5日等の短期で次々決めてるんではないかと言った感じです
神頼み虚しく姫の生母は他界ご飯が喉を通らず衰弱したとも自殺したとも言われてます
駒姫はこの夫人に相当溺愛されて教育され育ったので母親の悲劇はいかばかりか
また最上義光自身も堪えたらしくご飯が喉を通らない日が続いたと言われますが大名ですので政務があるので急変事態に家の存亡がかかってるのでやる事あって忙しいので物思いにふける暇なしですので生きているともいえる
後日、豊臣秀吉は最上義光に使者をつかわして
「娘を死罪に行ったことを不快に思うだろうが、関白秀次が反逆を企てた以上はやむをえないことと思うべきであるこうなったからには汝の罪科も許してやろう
」
という言い方をして来て義光はこれに対して「有難き御上意」と答えただけだったそうです
ただ不公平極まりない処断であったのは不納得であったとされます
謀反の疑いで自害した豊臣秀次には正妻がおり池田恒興(元織田信長近習)の娘の若御前です。彼女のみは処刑前に秀吉は特別に移動させ実家に帰してるのですが、それは豊臣秀吉は池田恒興に恩義があるので特別扱いです正妻の若御前は武家の娘らしく自分も自害しようとしたとかとも言われてますが実家へ帰ってます
またこの殺戮事件の引き金は秀次側室で正室位の権力を持った一の台が引き金とされてます
元々太閤秀吉の側室だった一の台は秀吉が大嫌いで病気を理由に実家へ戻り、今度は秀吉の甥の秀次の側室となり堂々と花見の宴会の際に秀吉の前に甥のお嫁さんとして現れたので秀吉は恨んでいたとされます太閤殿下の側室なのになんで関白の夫人に収まってるのかという事で秀吉は周囲の人の手前、顔を潰されたのです
秀吉は離縁してるという風で対応してますが、秀吉は無許可で離縁や再婚する女性は基本的に処刑しますので養子の嫁なら手討ちも世間の目が合って出来ないそんなところです
太閤秀吉は一の台と甥秀次の間に子どもが生まれたと知るとこの夫婦に介入して「一の台が育てる事を許さない」と命令し、生まれた子は別の家で他人によって育てられることに。これが親子離れで不運ではなく結局子どもは別宅にいたために命が助かってるので目先の不運に惑わされてはならんと思う
とは言ってもこの一旦は命が助かった子どもは命拾いしても壮絶な最期となりますが・・・
また、一の台は関白秀次の正室として大名や有力者に金貸し業をやっていて、今でいうサラ金とか消費者金融みたいな事をしてたので風聞が良くなくこれも豊臣家にとっては良くはない声が上がり始め、秀次妻子全員処刑となったと言われてます
このしたたかな女性一の台は情報察知能力が優れてるのか、処刑がありそうだと知ったら秀次との間の自分の子どもは事前にうまく逃してますが、成人を迎えそうな年齢になってる昔の亭主との間の娘は豊臣秀吉に呼び出され暴行された後処刑場へ送られて処刑されてます宮の前です確か
元々一の台は立ち回りも小ズルい女性ですこちらにまとめてます
駒姫には全く関係がない事ですが昔の秀吉と一の台の間の問題のとばっちりとしか言いようがない事と、自分が救われないのは親の交友関係と親が権力者に恩を売っといてない薄情だからでしょう最上は立場によってはごますり系ですから・・・豊臣へと言い徳川へと言い。そんな姿勢があるので他の大名は自慢の娘を権力欲しさに関白へ売ったと言われるのです
一の台の一番初めの亭主との間の娘の宮ノ前も最上の駒姫も、共通事項は本人が何も悪くはなく人望もあっても親がろくでもないと子どもは時として悲惨な状況に巻き込まれ、また誰も助けはしないそんなモノ
駒姫処刑の際には秀吉の側室の淀殿が秀吉に働きかけたと言われてます。当時は最上はまだ淀殿の派閥にいたからか秀吉の正室おねが一番力を持ってそうですが最上は正妻のおねを頼ってません淀殿に働きかけたという噂はありますがそういう姿も力関係で立場を変える奴です。正室を無視して秀吉のお気に入りの側室淀殿には働きかけるそういった部分も最上のやらしさ感じます
後に淀殿を見限り家康についてる時点で、彼が淀殿に助けて欲しいとお願いしたかどうか噂の域ですので真偽不詳ですが淀殿は秀吉に助命を発言しているにも関わらず、そんなことは無視してるのかあっさり敵になる薄情者です次男が家康に気に入られると至れり尽くせりの優秀な長男すら害する部分からも薄情者と考えられるのですが、果たして非の打ち所のないと言われた駒姫はそうは言っても性格は遺伝するので最上義光のような性格だったかのか
太平洋戦争と同じで特攻で死んでいった人たちは性格なんて美化されるんで彼女も処刑されて美化されてる部分はあると思うのですが性格を伝える伝承が残ってないのでどうかわからないです
駒姫処刑後、関白秀次と仲が良い為に聚楽第を行き来して親密であるからこそ謀反を疑われた最上義光と伊達政宗は謀反の疑いが晴れ謹慎も解除
義光は豊臣秀吉には逆らえず、大震災の時は秀吉を無視しして徳川家康のお見舞いをするくらいしか反撃しようがなかったのですが秀吉が没した後は娘の処刑の恨みがある為か徳川へ着いてます
駒姫自身は15で亡くなってますが、彼女一人の処刑問題からその余波が大きく、最上家はその後もメンタルを病んだ一族ですので人間関係が病み、人を疑い続け家臣や殿様などの関係が悪化し全体が上手く行かなくなります
駒姫とは長期的観点で見ると最上家にとって「ただ生きてるだけなのに災いを呼ぶ姫」であったと言えます
①自慢の姫の噂で権力者を招き寄せ
②それがきっかけでお家が後に謀反人となる豊臣秀次ぐと懇意になり
③秀次の側室へあがる
④②③を良く思わない他大名から父親は「娘を売った殿様」呼ばわりされ評判は下がる
⑤無実で処刑され生母は自殺
⑥優秀な人材が集ってる最上家家臣も神仏神頼みで現実を見ない傾向が強くなった
⑦父親は秀吉への恨みで徳川へ急接近するも家康はお家騒動が起こるような対応をして結果長男横死
⑧優秀な長男を亡くし父親衰弱
⑨駒姫の処刑でメンタルが悪い殿様の父親が家臣同士の派閥争いをまとめることが出来ず最上家衰運となるも徳川への働きは充分すぎるが得たものはあったのか
本題です
【縁起が悪い事ばかりの人生の曰くつきの駒姫のエピソード】
伊達政宗は当時15歳既に成人ですが伯父の最上義光とは争いが匂う立場の微妙な関係です。たまたま秋の季節にそんな敵対且つ母方の伯父である最上義光に歌を贈っていますこれは姫出産の時の贈答歌ではなくて、単にたまたま松と名山の和歌を送ったというフラッとした出来事でした
山形の名山の千歳山を謡い
「恋しさは 秋ぞまされる 千とせ山の あこやの松に 木隠れの月」甥政宗独眼竜
甥に対して最上義光はこう返してます
恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月」最上義光
丁度その日、義光の奥方が産気付いて、一人の女子を産んだのです。ここまではなんだか縁起が良さそうに思えますね和歌のやり取りをしてる父親です
ただこのお産の前後に最上家内には様々な不吉な事が立て続けに起きていたと言われてます私は歴史学者ではないので詳細は不明。義光の奥方は夫義光に対して
「姫の生まれた日に伊達政宗殿から山形の名所の千歳山を詠んだ歌が届いたのはきっと厄払いと幸運の前触れ縁起が良いですねぇ
千歳(千年)山は霊験あらたかな名山ですので、この姫の名前は『ちとせ』でいかがですか
」
義光は浮かない顔をして
「千歳山は名山でも『ちとせ』と姫に名付けるのは良くない昔出羽の国の安倍貞任の娘が『ちとせ』という名でちとせ姫は両親を滅ぼしたといった悪い言い伝えがあるからダメだ
名山に倣うなら他に湯殿山
羽黒山
御駒山
などにちなんで名付けた方が良い」
というので、奥方は
「湯殿の姫ではちょっと」
しずかちゃんみたいにずっとお風呂へ入ってるか、背中を流す庶民商売や、ヤラシイ男性を引き寄せそうなイメージがしますね
「羽黒の姫では・・・それも微妙」
天狗とか色黒の女性になりそうな渋い姫のイメージが湧く
結局この夫婦は名山の消去法で
「御駒山から取ってお駒で決定じゃ名山のご加護があるぞ
」
と名付けられる本人が悪いわけではないのに全く神のご加護がない姫となります
続いて最上家の慶事に喜んだ義光は、駒姫誕生の祝いの連歌会を催そうとしたのですところが、山形には連歌のできるある程度の身分の者がいなかった為に義光は駒姫の時世の句で御付きの女房と連歌風の時世の句を残した後に死すという「レンガ死」に通じるのですが「連歌士」を探すのです
「この際町人でもだれでもよい
歌の道は身分の上下を問わない
」
と町奉行に命じて連歌が出来る人物を捜させたのですが連衆(連歌参加者)となる者が見出せず、結局連歌は沙汰止みとなったのですこの事態を遠くにいる伊達政宗15歳は「不吉」を覚えたもののこの際には伯父にそれを言わず、15年後の姫の処刑で
「元々誕生の祝儀連歌の止むも不吉なり」と政宗は語ったというので当時のこの事態は覚えている様子が伺えます殿様が娘の誕生を祝うパーティーを企画しても誰も参加しないという喜ばれない姫
山形は田舎故教養人がいないという訳ではないのです僧侶であれば連歌位できるハズ
最上義光は神仏を尊ぶのでちょっとの無礼があっても宗教人ならお手討ちも無かろうと思われますが何故か皆スルー
私も数年前香道で師が
「香道はお歌も出来ませんとなりませんけど・・・歌会を交えた香席は誰も参加しない
皆さん
和漢朗詠集くらいはお勉強なさい
」
というお粗末レベルですので(今の銀座でも。鎌倉のレベルはどうか知りません)・・・銀座の会の教室は見た目と師匠はご立派でも中身教養レベルは師匠は頭を抱えるレベルなんだと思われました。それからコロナを理由に一向にお席が始まりません
で、初心者の私は足止め食らってます
昔も今も連歌や歌会はハードルが高いのだろうと思われます
最上義光は駒姫以外の娘は身内や臣下に嫁がせているのですから、権力欲で豊臣秀吉の次の後継者の予定の秀次に自分から希望して駒姫を差し出したとは考えにくい点はありますが、他の大名は秀次の縁付きになって野望の為に娘を差し出した計算高い男と思われてる事は当時の記録にアリ
政治的思惑が一切なかったのかと言われれば、嘘になると思います。彼もまた、戦国乱世を生きて来た武将ですから、婚姻という政策で戦を収めたり、最上を繁栄させて来たのです
しかし、愛娘たちの幸せを祈る一人の父親だったというのも、また事実。性格は悪い殿様でも娘は格別だった様子
姫誕生の祝いの宴会が連歌会という事もあって知識スキルが必須な為に参加者ゼロでは義光も夫人も家臣たちもさぞやがっかりしたと思われます文字が読める家臣達なんだからムリクリ参加して殿の顔を立てて縁起の良い「鶴亀末広
」とか適当に言って酒を盛ってれば良いけどそれもしない
駒姫は幼児のうちから東国一と誉れ高い美少女に育ちますが7歳頃にまた不吉な事が起こります夏に真夜中に起きてきて父親の布団の中に潜り込み「こわいものが来る」と泣くばかりの毎日。連日に渡り娘が夢に怯え衰弱してしまい父親は悩んで家臣を呼び
「お駒が夢に怯えるんだが、ワシの日頃の行いや殺生がまずいのか祟られてるのかどうか
」
家臣はおっかない殿なんで殿の殺生がイケないとは言えず真逆の事を言う
「殿は寺社仏閣をたいそう大事にされておられるので
妖がそれを妬み
姫の夢に出てくるのでしょう
ならば悪夢を食べる獏の絵をこの城の中に置いてみては如何でしょう
」
義光は早速獏の絵を描かせ、獏の絵が出来てからは姫は悪夢を再び見ることはなく快方に向かったという
姫の生まれつきの不吉話は
①連歌師【レンガシ】と募って誰も不参加で祝いなし
②処刑前に女房と連歌のような歌を残して他界【レンガシ】
姫は2種の和歌を残してお亡くなりです一つは仏教思想の句、もう一つは最上家女房と呼応する句
そういう人生が決まってたという話です