今日は土曜日。

私達には土曜日のお決まりのルーティーンがある。

 

朝9時にハイドロセラピーへ。サウナと冷水に浸かるのを繰り返し、デトックス。

その帰りに近くにあるフレンチベーカリーで私達お気に入りのクロワッサンとフランスパンを買い、帰宅。そして家の掃除を済ませる頃には11時くらいになるので、

ブランチとして卵を焼き、アボカドやチーズ等と一緒にパンを楽しむ。

残りの一日はリラックス。エネルギーをリチャージする。

 

 

私達は平日に糖分を摂るのを避け(仕事の効率が悪くなるため)、週末に好物だけど食べない方が良い様なものを食べるという様な習慣を送っている。

グルテンたっぷりのパン、砂糖たっぷりのケーキ、炭水化物の塊であるピザ等。

 

 

一週間我慢し、食べるクロワッサンは本当に美味しい。

どのクロワッサンでもいい、という訳ではなく、近くのパン屋さんが焼くクロワッサンがとてつもなく美味しいのだ。フランスパンも。

 

 

 

***

 

 

あれ、食べることって、身体に得でなければ予想以上に無意味じゃない?

 
今朝ルンルンでパンを帰り道に買って、家の掃除を済ませ、卵と一緒に美味しく食べたが、
ふと考えが生まれた。
 
「別に本当に求めているわけではないものをなぜ食べるのか」
 
焼きたてのクロワッサン。さっくさくでバターが効いてなんとも絶妙な塩気と甘みのバランス。
美味しいのは確か。
 
今までなんだか貴重な存在のようで、こだわりのように感じていたけど別にどうでもいい、と思ってしまった。
そもそもハイドロセラピーでデトックスしたのになぜそれを全て無効にしてしまうようなことをしているのだ、自分はと。
 
いつも好きだと思ってしていることが、ただの習慣でしかないのかも、と気付いた。
 
 

習慣、お決まり、ルーティーン

ルーティーンや習慣は実際にいちいちこうしよう、等としないでいいように存在するもの。
一度生活に組み込まれたら後は身体が勝手に動いてくれる、逆に言えば、本来なら悪用されるべきではないのだ。
例えば読書の時間は一日の中でこの時間にする、運動はこの時間にする、等生きていく中で取り入れたいものを考えずにできるようにするのがルーティーンの役割なのである。
脳には考える量、力に限界があるので、いちいち「あーどうしようか、しようかしないか、いつしようか」等考えないで良ければ他の事に労力を費やせる。
 
けれどこれが悪用されると、今朝の私の場合。
クロワッサンを食べる、ということは必要不可欠ではなく、むしろしないに越したことは無いので、ルーティーン化されるべき行動ではない。
そもそも私達の土曜日は、食べたいものがあれば食べる、というだけの習慣なので、クロワッサンを食べる、というのは決して習慣の一部ではないのだ。
毎土曜日に食べたくなって食べていたから結果的に毎土曜日クロワッサンを食べる、という習慣があったかのように感じれただけであって、
 
本来なら食べたくないものを食べる必要は皆無なのだ。
 
というように習慣の理由自体が存在する必要のない時に、習慣を実行しては、本来ならする必要もしたいとも思わないのにしてしまう、という事態に陥る。
 
 

習慣の過程を目的としては習慣自体の目的は果たせない。

ハイドロセラピー中、私が考えていたのは日本食。
あー和食が恋しい。暖かい白米と卵焼き、頬張りたい、等クロワッサンとはまるで真逆なことを考えていた。
なのに身体は土曜日だし、身体に悪いものを食べる日よね、クロワッサン食べたいよね、などと勝手に習慣を実行し、気付いた頃にはパンを食べ終わっていた。
本来なら食べたいものをただ食べればいい、身体に悪いものを食べなくてもいいのに。
 
クロワッサン食べなければよかった、ということでは決してない。
何でも習慣化された、こだわりや行動は時に見直す必要がある、ということ。
人は、習慣やこだわりが存在する理由を目的にするはずが、その理由を時間が経つと忘れ、過程を目的として、理由が無くとも行動してしまう時があるから。
 
私達の週末に食べたいものがなければ食べなくていいのだ。
食べたいものがあれば自由に食べていいよ、という目的から生まれた習慣なのに、その過程自体が目的になってしまった。
だから習慣を実行するのではなく、過程自体を実行するためにパンを買い、食べた。
=習慣の実行は不成功。
つまり頭はいつの間にか、「よし!土曜日は身体に悪いものを食べる日だ!」と習慣の過程を目的と解釈し、逆に体に悪いものを食べなきゃ気が済まないようになっていた。
 
おかしい。
目的に全然沿っていない。
 
はぁ。。。いいのだがね、クロワッサンはとても美味しく食べたからいいのだがね。
 
いくら習慣とは言え、自分の心と体に、自分が本当に求めているものは何だろうと、時に自問自答するのはとても大切だ。
 
 
とこんなことを書きながらもう一つのクロワッサンに手を伸ばそうか考えている私です。
 

 

 

○○しなきゃ、早くできるようにならなきゃ、

早く生産性のある日々を送らなきゃ。

周りがこうしている中自分だけ....。

 

なんて自分をジャッジする声が頭の中に存在している時がある。

 

いつも私は何もできていない、と自分を責めるばかり。

料理、掃除、等私にとって、主婦として出来て当然なのだ。

頭もそんなに使わないし、同じ作業の繰り返し、誰でもできること。

 

 

***

 

でも夫が一声掛けてくれたお陰で心がとても解放された。

 

「今から二年後の誕生日まで、その考えを持つことはやめて。仕事もしちゃいけないし、ただ自分を勉強することにだけ徹すればいいよ、と。」

 

 

私は常に仕事しなきゃ、稼がなきゃ、そうじゃないと食事も食べるに値しない存在だと自分で自分をよく苦しめていた。

だから早く復帰しようと、どれだけ早く知識を吸収できて、どれだけ効率の良い時間を送れるか、等考える。

 

 

けど私の今の存在、状態は現実的に見て復帰にはまだ程遠い。

まだまだ社会というサバイバルゲームをプレイするにはスキルが足りないし、もっと時間をかけて少しずつでも着実にパワーアップしてから復帰したい、という思いは常にあった。

 

けどそれに常に反抗する頭の声。

 

「まだ仕事もできないなんて」「夫のおかげで生活を送れている、私は夫に何をしてあげられているのか」「なんて役立たずな人間なんだ」

 

 

私はいつも白黒はっきりした考えを持とうとしてしまう。

正直そっちの方が楽だから。

〇か×なら〇の方が断然いいし、△はすっきりしない。

×なら×で、学ぼうと改善する気になるのだが、△なら△でなぜ〇じゃないのか、と自分を無意味に責めに走る。○なら〇でさらに向上心が高まる。(△なら△で〇にする改善策に重きを置けばいいのは言うまでも無く分かる、けれども)

だからいつも極端な結論がはっきりできるまでとことん論破したいし、納得できるまで質問攻めにする癖がある。

 

だから夫がよく言っていた、「仕事はしてもしなくてもいい、自分のペースで復帰できるときにすればいいよ」という優しい言葉には自分の中で勝手に悩まされていた。

完全に△で、グレーな状態。

してもしなくてもいいよ、ということはしなくてもいいけどした方がいいんだ、けど夫は優しいから丸く言い換えてくれているんだ、と。

本当はしてほしいんだ、自分のペースということは、早い方がいいんだろうな、と

頭の中でぐるぐる自動翻訳作業が始まる。

そしてこの作業のたった一つの目的はというと、「自分を卑下すること」。

ただそれだけ。

 

そしてこれが今私が向き合わなければいけない問題なのだ。

 

 

こんな私を見て夫はとうとう呆れながら上記の言葉を発した。

とてもありがたい。多分夫は分かっていないだろうが、私の心にはとても余裕ができた。

 

これは私が仕事を本来はしたくないから、するな、と言われて安心しているというのではない。

全く真逆だ。引かれてさらに求めたくなるあのうずうずした男女の関係のようなものだろうか。

二年間という時間を掛けて自分を改造することに徹した方が長期的に見て確かに意義のあることなのは、自分でも分かっていた。けど頭の中で繰り返される自分の声との喧嘩。

 

今の私に何が一番大切で、するべきことなのか、たった一行の言葉が心に響き、今まで戦ってきた声はコテンパンに踏みつぶされた。

たった一行の言葉が人の心をがらりと変えることができる。

なんだか素敵よね。

 

 

 

***

 

 

自分という存在が自分の敵では、この世の中生きてはいけない。

社会はそれよりももっと大きな戦場だから、自分自身の中で戦っている様では、あっという間に取り残され、又は踏みつぶされてしまう。

 

学校で習うのは、いかに自分自身を殺してでも社会に沿って生きていく方法。

○○していれば安泰は間違いない、○○すれば一生が保証される、等。私達自身の気持ちや考えは「安泰」の二の次。

 

そんな社会の中で、周りと足を揃えて奴隷化させられることが嫌で仕方なかった私。

社会を逆を行く人生で自分が自分のチームメイトでなければうまくやっていくことなど不可能だ。いつの間にか頭の中で生まれた自分を卑下する考え方を根本的に取り除かなければいいけないのだ。

 

 

 

安泰といえば、

将来をみることさえできないのに、安泰安泰、と皆追うのはなぜだろうか。

そこまで不安定さが怖いか?

そこまで自分を会社に縛り付けてでも不安定な人生は避けたいものなのか?

 

保険に入るために福利厚生に目を向け、

貯金するために身を削りながらする残業。

将来の自分のために今の自分の身の健康や安全は無視し、ただただ将来の自分のために自分自身を投資する。

将来の自分のために、と嫌々でも給料が良いからと会社に入り、そのストレスは身体に悪いアルコールで発散。

「将来の自分のため」という考えや保険に頼り、健康という私達の存在の基盤はどうでもいい。

身体が悪くなれば保険がカバーしてくれる、保険の存在に依存し、甘える。

保険無しに生きる、という選択肢を考えたことがある人はどれだけいるだろうか。

(※保険会社は求められなければ商売になりません。求められるには人々が不健康である必要があります。ということは....。社会はこういう世界です。)

 

将来に集中した生き方は今を生きているとは言えない、ということは死んでいることと同じ。

将来のために今頑張る理由は何?

将来の予言者などでっち上げだ、と皆言うのに、自分自身の「将来のため、将来はこうなるから」という予言を信じ続けるのは何故?

将来こうなるから、と将来を予言した上で今の行動の基盤にするのは、どうして?

 

 

 

安泰という言葉さえ本来は存在しない、ただの架空のものでしかないのに。

いかに安泰な人生を送りたいからといってコロナが起きてしまえば安泰のあの字も無いのは多くの人が実感し目にしたことだと思う。

もう「安泰」という概念はこの世代に通用しないのは薄々気が付けることだと思う。

多くの情報が常に飛び交うようになった今、前のように一つのことをして一つの会社が何世代にも受け継がれる、というのは極稀で、それよりも状況に常に柔軟に適応する力がさらに求められるようになった。

私達の力は自然や未来の力には到底適わない。

できることと言えば、一つのものに依存しないで済むような環境、人間であること。

何が起きても常に適応する能力を備えること。

 

そうすれば今まで依存してきたものがふいに取り上げられたとしても、自分の力で考え、自分のスキルを使い、生き延びることができる。

「ああ、もう僕の人生はお終いだ...。」

ではなく、○○が起きた、じゃあこれからどうしていこうか、と常に前進し、柔軟に自分で考えていく力は、本当の自立という意味で、必要な力なのではないか。

 

 

安泰の言葉を頼りにし、安泰を設けてくれる存在に依存するのではなく、自分で考えて人生の選択をしなければいけない、ということ。

そして将来は決して安泰が約束できるほど予想がきくものではない、ということを踏まえなければいけない。

***

 

 

生存能力として持ち備えて普通くらいの話なのだ。

人間は変化に弱い生き物。

けれど変化する環境の中で生き続けるのは変化を受け入れそれに沿って変化していくことのみ。

 

 

***

 

長年培ってきた自分自身に対する思い込みや批判する習慣、簡単には取り除けない。

そしてそれでいいのだ。

いくら時間が掛かろうと、常に学ぶ姿勢、思考はどんな分野に対しても基盤になる。

学ぶ力さえあれば学ぶ内容は何でも良い。逆に学ぶ力がなくては、どんな内容も学ぶことはできない。

 

私に今何よりも必要なのは自分で考え、学ぶ力。物事を感情的に流されず、思い込みに捕らわれずに見ることができる力。正しい情報と間違った情報を見分けられる力。そしてそんな力を兼ね備えた妻を私自身のために夫は求めている。

 

甘えられる環境に感謝し、存分に甘え、自分が完全になった時に力を発揮し、恩返ししていけばいい。

それまでは学び、自分を修復し、力を蓄えることに徹する。そしてそうできることを有難く思う。

 

 

これこそが今、私ができることで、すべきことなのである。

長い目で見ていいのだ。

どうしようとか早くこうしなきゃという心配で頭を混ませていては新しい知識が入るスペースも無い。

 

 

大丈夫、将来の私はきっと前の自分とは比べ物にならないくらい強くなってる。

 

 

 

 

 

 

今鬱で悩んでいる方、人生最大のチャンスです。

 

どんなことが原因でしょうか?

何かきっかけはありましたか?

何に鬱になるほど悩んでいるのでしょうか?

自分との対話を通して掘り下げたことはありますか?

 

 

鬱は怠け、仮病、たいしたことない、など

日本では横目で見られることがよくあると思います。

 

鬱、というだけで避けられたり。

鬱、というだけではぶかれたり。

鬱なんか病気じゃない、なんて辛い気持ちを押し殺して仕事や学校に無理矢理行ったり。

 

 

鬱は、なるだけ得なんです。

鬱は、私達の心が「ねえ!何か違うよ!何かがおかしいよ!」と私達に投げかけてくれている、目覚めのサインなんです。

 

人それぞれ、鬱の原因はあるかと思います。原因さえ分からない人もいるかと思います。

 

 

正直、鬱ってなったらもう一生、前の自分には戻れないんですよね。

良い意味でも悪い意味でも。(私達の考え方次第)

鬱にならなければ気付かなかったことって想像以上に多くて、しかもその大体が気付けて正解だったり。

 

 

 

鬱は私達の頭と心が調和してないときに起こります。

行きたくない学校や仕事に行かなきゃいけない。

したくないことをしなくちゃいけない。

自分が自分自身にしていることに嫌気がさしている時にも。(自己嫌悪や自己卑下等)

自分の心のニーズが満たされていなかったり。

何かが「違う」時。

 

大抵は調和していないことさえ気付きません。

私達はストレスや心の痛みと向き合って対処する、ということを教わることが無く、

会社での先輩、親は仕事が終わればお酒でストレス発散。

嫌なことがあれば甘いものや買い物で発散。

そんな大人達の背中を見て育つ私達は、それが大人の生き方なんだ、と何の異常にも気付かず、同じように上司からの嫌がらせはお酒で発散し、嫌な事があればケーキやたばこに走ります。

外的な要因があれば自分自身と向き合うことも必要無いので、嫌な事がある度モノで解消する、というループが出来上がり、気付けば感情が麻痺。

だから逆に鬱になることがないんです。

 

 

私達の人生は私達がいないと存在しないもので、私達が主人公。

なのに私達という主人公の大事な「感情」を麻痺させてまで何かをするって、

「周りのもの」に人生を乗っ取られていることではありませんか?

 

 

周りが私達が同じように思うだろう、と考えるのと

周りも私達と同じように考えるだろう、と思うのは大きな間違いです。

 

 

周りのすることは私達もするべき、では決して無いのです。

だから周りとは違う道を歩み、鬱になっている皆様、それでいいんです。

鬱になる、ということ自体自分の声に耳を傾け、道を歩み始めたサインなんです。

だから鬱になってよっしゃー!なんです。

 

 

今鬱で悩んでいらっしゃる方、まずは自分に拍手してあげましょう。

自分の心の声に気付けた自分、ありがとう、よくやったねって。

 

 
 

鬱になったらこの先どうするかが勝負なんです。

鬱という山を乗り越えるだけの力が自分にはある、
自分の人生は鬱に乗っ取られるよりも価値があるものだ、
自分はもっと大切にされるべき存在で、
鬱を抱える日々よりももっと良い日々に値する人間だ!
と信じる事から始まります。
 
 

けれどこの山の勝負に挑むのは大いなる勇気とエネルギーが必要です。

今まで辛いご経験をされてきた皆様、そのエネルギーがチャージできるまで、思う存分自分に優しくお休みを与えてあげてください。
 
人間の心と体というものは面白いもので、疲れているときは当然活力がでないし、疲れていないときは活動的になるものです。
疲れ、は身体が疲れているから感じるものです。
だからちゃんと休んでいいんです。身体が欲しているんですから。
 
 
 
充分に休みが取れた時、自然に力が湧くようになります。
そしてその時には、その溜まった力は、
自分を大切にすることに使い始めてあげてください。 
 
 
 
ではまた次回♡