
○○しなきゃ、早くできるようにならなきゃ、
早く生産性のある日々を送らなきゃ。
周りがこうしている中自分だけ....。
なんて自分をジャッジする声が頭の中に存在している時がある。
いつも私は何もできていない、と自分を責めるばかり。
料理、掃除、等私にとって、主婦として出来て当然なのだ。
頭もそんなに使わないし、同じ作業の繰り返し、誰でもできること。
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でも夫が一声掛けてくれたお陰で心がとても解放された。
「今から二年後の誕生日まで、その考えを持つことはやめて。仕事もしちゃいけないし、ただ自分を勉強することにだけ徹すればいいよ、と。」
私は常に仕事しなきゃ、稼がなきゃ、そうじゃないと食事も食べるに値しない存在だと自分で自分をよく苦しめていた。
だから早く復帰しようと、どれだけ早く知識を吸収できて、どれだけ効率の良い時間を送れるか、等考える。
けど私の今の存在、状態は現実的に見て復帰にはまだ程遠い。
まだまだ社会というサバイバルゲームをプレイするにはスキルが足りないし、もっと時間をかけて少しずつでも着実にパワーアップしてから復帰したい、という思いは常にあった。
けどそれに常に反抗する頭の声。
「まだ仕事もできないなんて」「夫のおかげで生活を送れている、私は夫に何をしてあげられているのか」「なんて役立たずな人間なんだ」
私はいつも白黒はっきりした考えを持とうとしてしまう。
正直そっちの方が楽だから。
〇か×なら〇の方が断然いいし、△はすっきりしない。
×なら×で、学ぼうと改善する気になるのだが、△なら△でなぜ〇じゃないのか、と自分を無意味に責めに走る。○なら〇でさらに向上心が高まる。(△なら△で〇にする改善策に重きを置けばいいのは言うまでも無く分かる、けれども)
だからいつも極端な結論がはっきりできるまでとことん論破したいし、納得できるまで質問攻めにする癖がある。
だから夫がよく言っていた、「仕事はしてもしなくてもいい、自分のペースで復帰できるときにすればいいよ」という優しい言葉には自分の中で勝手に悩まされていた。
完全に△で、グレーな状態。
してもしなくてもいいよ、ということはしなくてもいいけどした方がいいんだ、けど夫は優しいから丸く言い換えてくれているんだ、と。
本当はしてほしいんだ、自分のペースということは、早い方がいいんだろうな、と
頭の中でぐるぐる自動翻訳作業が始まる。
そしてこの作業のたった一つの目的はというと、「自分を卑下すること」。
ただそれだけ。
そしてこれが今私が向き合わなければいけない問題なのだ。
こんな私を見て夫はとうとう呆れながら上記の言葉を発した。
とてもありがたい。多分夫は分かっていないだろうが、私の心にはとても余裕ができた。
これは私が仕事を本来はしたくないから、するな、と言われて安心しているというのではない。
全く真逆だ。引かれてさらに求めたくなるあのうずうずした男女の関係のようなものだろうか。
二年間という時間を掛けて自分を改造することに徹した方が長期的に見て確かに意義のあることなのは、自分でも分かっていた。けど頭の中で繰り返される自分の声との喧嘩。
今の私に何が一番大切で、するべきことなのか、たった一行の言葉が心に響き、今まで戦ってきた声はコテンパンに踏みつぶされた。
たった一行の言葉が人の心をがらりと変えることができる。
なんだか素敵よね。
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自分という存在が自分の敵では、この世の中生きてはいけない。
社会はそれよりももっと大きな戦場だから、自分自身の中で戦っている様では、あっという間に取り残され、又は踏みつぶされてしまう。
学校で習うのは、いかに自分自身を殺してでも社会に沿って生きていく方法。
○○していれば安泰は間違いない、○○すれば一生が保証される、等。私達自身の気持ちや考えは「安泰」の二の次。
そんな社会の中で、周りと足を揃えて奴隷化させられることが嫌で仕方なかった私。
社会を逆を行く人生で自分が自分のチームメイトでなければうまくやっていくことなど不可能だ。いつの間にか頭の中で生まれた自分を卑下する考え方を根本的に取り除かなければいいけないのだ。
安泰といえば、
将来をみることさえできないのに、安泰安泰、と皆追うのはなぜだろうか。
そこまで不安定さが怖いか?
そこまで自分を会社に縛り付けてでも不安定な人生は避けたいものなのか?
保険に入るために福利厚生に目を向け、
貯金するために身を削りながらする残業。
将来の自分のために今の自分の身の健康や安全は無視し、ただただ将来の自分のために自分自身を投資する。
将来の自分のために、と嫌々でも給料が良いからと会社に入り、そのストレスは身体に悪いアルコールで発散。
「将来の自分のため」という考えや保険に頼り、健康という私達の存在の基盤はどうでもいい。
身体が悪くなれば保険がカバーしてくれる、保険の存在に依存し、甘える。
保険無しに生きる、という選択肢を考えたことがある人はどれだけいるだろうか。
(※保険会社は求められなければ商売になりません。求められるには人々が不健康である必要があります。ということは....。社会はこういう世界です。)
将来に集中した生き方は今を生きているとは言えない、ということは死んでいることと同じ。
将来のために今頑張る理由は何?
将来の予言者などでっち上げだ、と皆言うのに、自分自身の「将来のため、将来はこうなるから」という予言を信じ続けるのは何故?
将来こうなるから、と将来を予言した上で今の行動の基盤にするのは、どうして?
安泰という言葉さえ本来は存在しない、ただの架空のものでしかないのに。
いかに安泰な人生を送りたいからといってコロナが起きてしまえば安泰のあの字も無いのは多くの人が実感し目にしたことだと思う。
もう「安泰」という概念はこの世代に通用しないのは薄々気が付けることだと思う。
多くの情報が常に飛び交うようになった今、前のように一つのことをして一つの会社が何世代にも受け継がれる、というのは極稀で、それよりも状況に常に柔軟に適応する力がさらに求められるようになった。
私達の力は自然や未来の力には到底適わない。
できることと言えば、一つのものに依存しないで済むような環境、人間であること。
何が起きても常に適応する能力を備えること。
そうすれば今まで依存してきたものがふいに取り上げられたとしても、自分の力で考え、自分のスキルを使い、生き延びることができる。
「ああ、もう僕の人生はお終いだ...。」
ではなく、○○が起きた、じゃあこれからどうしていこうか、と常に前進し、柔軟に自分で考えていく力は、本当の自立という意味で、必要な力なのではないか。
安泰の言葉を頼りにし、安泰を設けてくれる存在に依存するのではなく、自分で考えて人生の選択をしなければいけない、ということ。
そして将来は決して安泰が約束できるほど予想がきくものではない、ということを踏まえなければいけない。
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生存能力として持ち備えて普通くらいの話なのだ。
人間は変化に弱い生き物。
けれど変化する環境の中で生き続けるのは変化を受け入れそれに沿って変化していくことのみ。
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長年培ってきた自分自身に対する思い込みや批判する習慣、簡単には取り除けない。
そしてそれでいいのだ。
いくら時間が掛かろうと、常に学ぶ姿勢、思考はどんな分野に対しても基盤になる。
学ぶ力さえあれば学ぶ内容は何でも良い。逆に学ぶ力がなくては、どんな内容も学ぶことはできない。
私に今何よりも必要なのは自分で考え、学ぶ力。物事を感情的に流されず、思い込みに捕らわれずに見ることができる力。正しい情報と間違った情報を見分けられる力。そしてそんな力を兼ね備えた妻を私自身のために夫は求めている。
甘えられる環境に感謝し、存分に甘え、自分が完全になった時に力を発揮し、恩返ししていけばいい。
それまでは学び、自分を修復し、力を蓄えることに徹する。そしてそうできることを有難く思う。
これこそが今、私ができることで、すべきことなのである。
長い目で見ていいのだ。
どうしようとか早くこうしなきゃという心配で頭を混ませていては新しい知識が入るスペースも無い。
大丈夫、将来の私はきっと前の自分とは比べ物にならないくらい強くなってる。