最後の病院であるS大病院では、いよいよ化学療法の治療が始まることになった



治療はMRIを取る間隔を短くして病気の進行に注意しながら、まずは化学療法単独で始めることに




化学療法の経過によって、放射線治療を始める時期を慎重に見極めることに




このときのKの状態はトイレに間に合わないことが増え、ベッドのシーツ替えを日に何度も看護師さんにお願いしなければならず、自信を無くして、気持ちは暗く沈みがちだった




自分では頼みにくくなってしまい、失敗しても我慢していたこともあった




私が病室に着いてKのおしりの辺りのシーツが冷たくなっているのに気付いて、すぐに替えてもらったこともあった




年頃の男の子が、若い看護師さんたちにこんなことを頼むのは、いくら病気でも、恥ずかしく屈辱的なことだったと思う




ベッドの側にポータブルトイレを置いてもらったり、尿瓶を借りたりしたのだが、点滴の管と片腕が繋がっているし、左半身が麻痺しているため、なかなか上手くいかなかった




上手く出来ない悔しさで、ベッドの上で泣きながらご飯を食べたこともある




「早く治療を終えて元気になってお家に帰ろう!」

「今、Kくんに出来ることは、リハビリを頑張ることだよ」と私は話した




それでも、私が好物の食べ物を持ってくると、元気百倍!といった感じで「わ~い!!ママ、ありがとう!!おいしい!!」と言いながら沢山食べてくれたK




私はそんなKの素直な明るさが大好きだった

少し涙しても、励まされると、その人の言葉に一心に耳を傾け、すぐに気を取り直して前向きになれる子だった




トイレ対策として、私はシーツまで汚して看護師さん達に余計な面倒をかけないように、いつもおしりの下にバスタオルを何枚かひいておいた




Kの下着やパジャマ、タオルなどの沢山の洗濯物が出て、私は毎日コインランドリーを行ったり来たりしていた




そうして過ごすうちに、看護師さんからオムツの話が出た時はとても辛かった

まだ中学生のKは当然嫌がった




意識はしっかりしているのだから、何とか頑張って自分でトイレに行きたかったのだろう




でも、ステロイドの副作用もあって排尿間隔が普通より短く、日に何度も失敗するうちに、本人ももうオムツを受け入れざるを得なくなってきていた




化学療法が始まったのは、Kがそのような状態の時




主治医の先生方から事前の説明があった




この時、先生は抗がん剤が生殖機能に及ぼす影響についても触れ、息子の精子を将来の為に保存するのかどうかという問題をあげ、そうするの場合の病院名とだいたいの費用について先生が知っている範囲で教えてくれた




唐突な感じがしてとても驚いたけれど、私は、多分、息子は身体的にはもう生殖能力はあると思うと伝えた



ただ、命の長さが後どれだけと言っている時に、息子の結婚や孫の誕生のことまで考える余裕はなかった




それに、このことをKにどう説明したらいいのか考えがまとまらなかったし、実際にそれを中学生の息子にさせることに対しても心理的に抵抗があった




Kには悪性脳腫瘍だとか、はっきりした専門的な病名は伝えていなかった




ただ、脳に出来てしまった腫瘍を消す為に治療していることは伝えていた




でも、命に関わる程のものという認識は全くなかったと思う

出来た場所が脳ということで、場所が場所なだけに、大事をとって慎重に治療していると思っていたと思う



抗がん剤などという言葉や、使っている薬の名称はKには知られないように細心の注意を払っていた




それなのに、これから飲む薬で、将来、子どもを作ることが出来なくなる恐れがあるなどと聞けば、いくら親の言葉を信じ切っている素直なKでも、さすがに不信感を持ち、自分で色々と調べ出すのではと思えた




先生に率直にそう伝えたところ、この話しはこれ以降話しに登ることはなかった



当時はでも、かなり悩んだ
命を救うことで精一杯と言われながらも、先生は遠い遠い未来の為の話をしてきたのだ




でも先生はきっと、Kの命はそんなに長くはないと分かってたのではないか

だとすれば、何故こんな選択肢を私達に提示したんだろう




私たちに希望を持たせる為に言ったのかもしれないし、一つの可能性として言うべきことだから言ったまでなのかもしれない




それでも、どうしても違和感を感じてしまうのはいけないことだろうか




今ではこれでよかったと納得はしている

でも、あの時の複雑な思いは今でもはっきり覚えている




いよいよ抗がん剤が始まる
期待と不安…
どちらかというと、期待の方が大きかった

やっと治療を受けられる

前に向かって歩きだせることが単純に嬉しかった




Kならば得体の知れないこの病気にも勝つことが出来るような気がしていた