大晦日、元日、共に仕事だった。3日の今日は休日で、明日も仕事だ。勤務先のショッピングモールは常に混雑している。


 車で通勤していたある日、自分の車の前にフェラーリが割り込んできた。群馬の片田舎でも、信号機は多く、フェラーリの性能を活かし切るのは難しい。信号待ちで前方のフェラーリを見ていた時、ふと横の畑を見ると、畑の脇の枯れ草の上で、黒の野良猫が日向ぼっこをしていた。


 この時、フェラーリの所有者、黒猫、どちらが自由なのかという思いが巡った。フェラーリを有する自由に付いてくる、維持費、ガソリン代、あるいはローンの支払い。黒猫のお金、仕事、時間に追われない自由に付いてくる、その日の食べる物、寝る所、暑さ寒さの厳しさ。


 自由を求めると同時に縛りが出てくるのは、至極当然のこと。縛りに不平不満を言うのも自由。こんなことは、既に偉い別の誰かがもっと上手く言っているだろうけれども、それも表現の自由ということでご勘弁を。何が言いたいのかと思うことも思われることも自由。自由と縛りは両天秤でキレイにバランスを取っている。


 わざわざこんなことを書いているのは、自分の縛りに対して、不平不満があるからなのだろう。