暑い日が続きます。
気候が年々変わったり災害が起きたり…



これも、長年かけた人災でしょうか。



明日、もしかして災害に遭うかもしれないと思うと恐い。
今のところ、家もある、地震も大雨も被害はない。だのに、生きてるのもようようの、か細いメンタルでもし、更に家をなくす、家族をなくすなんて目に遭ったら…



実際に被災された方々は、今も不自由な生活を余儀なくされているわけで、そのメンタルを思うと目も開けていられない。



ひたすら苦しさにただ囚われていては、不運をただ憎んでいては、その状況には生きることにひとつも希望が湧かないものですね。
生きていく方がどうかしたら、死ぬよりよっぽど辛い。死ぬ方がいくらも簡単で楽かもしれない。



健康でないとき、死ぬことより生きることはことのほか難しいように感じます。
必死に、生きる意味や、自分の価値や、前向きになれる芽、を探すけれど見付からない。




生きていかなければならないから、家が、家族が、職が、お金がないこと思えば不安になる。
例えばなんとか三ヶ月後のぶんまでの米や住居は保障されていても、その先の保障や蓄えや収入源がなければ4ヶ月後を思って今から不安になる。




もし。




"明日必ず死ぬ"ことが決まっていたら、案外潔い気持ちにならないだろうか。
あがいても明日の死を絶対に逃れられないとしたら、今現在がただひたすらに大切に思えるかもしれない。
過去に満足できていればひたすら穏やかに一日をすごし、やりのこしたことが多ければ、厳選して一日をやりたいことで埋め尽くす。




でも体があり、明日だけどころか、毎日いのちがあって、生きなければいけないから、不自由を自由に変えたくて悩むのでしょうね。




被災された方々や、御家族のかたを思えば、"本当に明日は我が身"と思い言葉も見当たりません。




家も家族もあるわたしですら、生きることがこんなに苦しいのに。
"贅沢をいうな"と眉をしかめられそうで、とても弱い自分が恥ずかしいです。




少しでも楽になりたいので、自己流ですが、苦しいとき、"明日わたしは死ぬんだ"と思って、今をみつめてみようと思いました。




本当に阿呆らしいですが、弱くて罪深いわたしが、「明日死ぬならば…」と考えていたら、死ぬ前になにかひとつでも良いことをしてみたくなるのです(笑)
無気力を抜けて、だれかに優しくしてみたい。
人の役にひとつでもたってから死にたいわね…もう最後なんだもの…





そうこうしていたら、失望の海に、小さな希望の光が灯ります。
体さえもてば、メンタルをごまかしごまかし、一日一日、生き長らえます。




生きるって、ああ。
弱虫にはなんで難しいの。