私は勝負が嫌いだ。
徒競走や書初め大会、学内コンテストなど通常義務教育の中でほとんど強制的に参加させられる大きな勝負から、なにか決め事をするときのじゃんけん、暇つぶしのあっち向いてほいなど、その程度でも一般的な人々のそれに対する感情よりも私は比較的強い嫌悪感をそれに対して抱いていると自覚している。些細な勝負でも感情が高ぶってしまうのは、全く自分の意に反しており、ごく不便なことなのである。
このことに気が付いたのはここ数年のことだが、私がこんなことになってしまった原因はなんとなく見当がつく。それは私が正真正銘の一人っ子で、かつ相当な負けず嫌いということだ。完全に悪い意味で気位が高く、乳児期から青年期にかけて経験した“負け”の感覚があたかもトラウマのように私の脳裏に焼き付いているのだ。
私たちが若年期に経験する遊びというものは、その大半が勝ち負けを競うものである。前述したじゃんけんなどの手遊びをはじめ、鬼ごっこやわりばし、ドッジボールなど(ドッジボールは特に本当に嫌いだった)、私からすれば酷く恐ろしいものばかりである。
私は勝負のたび密かに心臓を震わせていた。勝てば汗を握りながらも深く息を吐いて安堵を抱きしめ、しばらくたてば落ち着けたのだが、負けてしまえば体の中の臓という臓が泣きわめくように忙しなく蠢いて、そこからしばらくは夜の暗闇に包まれるとその感覚を思い出して腹を痛めたり、吐き気に襲われたりしていた。
そうして私は気づけばことあるごとに発生する日々の勝負イベントをどのように無難に、そして自然に回避できるかどうかを探りながら生きることになった。勝負に捕らわれ、勝負を嫌いながらも勝負とともに歩まねばならないこれまでとこれから。絶望もいいところである。
……
ゆえに私は、勝ちと負け、優と劣などを定める劣悪な“勝負”の存在を滅し、それに代わる、否、全く新しい概念として互いに称え合い鼓舞し合う、“称
舞”の使用を強く推薦する!!!!
なにせ、勝負というものは元来スポーツなどにおいて、人々が互いに高め合い、鼓舞し合うためのモノであるはずが、それは私にとってはむしろ逆効果で、それによって体に強い負荷がかかり、勝っても負けても無条件で倦怠感が与えられる、珍妙で邪悪な存在に過ぎない。滅すべき存在なのだ。
勝負を称舞に変換することで、表彰台は平たんになり、大会は全て只の発表会に成りかわり、この世の事象全てが緩やかな話し合いによって決断される。至極穏やかな世界へと変貌するのだ。素晴らしい。
そうして私の心臓の震えは止まり、蠢く臓物も静止する。私は穏やかな眠りにつく。
戦争はなくなり、スポーツは芸術や音楽といった、いわば娯楽と呼ばれるものの一員となる。
……
しかしこんなにも勝負に対してうだうだとごねているが、きっと勝負がこの世界からなくなったとしたら、恐らく誰かの生き甲斐はなくなり、各所の目標や意義はその存在価値をなくし、絶望や虚無感といったものが世間一体を襲うのだろうか。
だがそれは勝負をすでに知っている私たちだからそういった感覚を覚えるのであって、もしそもそも勝負のない、“称舞”の世界で生まれてきていたとしたら?勝ち負けのない世界で、私たちはどうやって決断し、どのように支配するのか。
少なくともこの地球という星においては、勝ち負けによって星の均衡が守られているということくらいは、馬鹿な私でもわかる。