自分が未熟者であることはわかっているけれど、それでも誰かに教えなければならないという思いがあります。誰というか、子です。
いつ死ぬともわからない、この先どれだけ生きれるか見当もつかない、家庭を築いて子供を育てる親になれるかなんて、知りもしない
たぶん
それでもこれを使命に生きていくんだと思った。必死こいて今までの恩を何らかの形で返していかなければならない。償いとも言う。そのひとつというか、一番償いは子と一緒に学び、子を立派に育てること。わたくしがこの世に産まれたのはこれに努める為なのではなかろうか。
結婚願望というか、赤ん坊が欲しいというか、そういうんじゃない。一番近くで全てを教えることができるのは、気持ちを注いでやれるのは、受け止めてくれるのは子供なんですよ。子供はいくらでも受け止めようとしてくれるわけですよ。おそらくは。親自身が、子供がどれくらいまで受け止められるかを知っているなら。
少し話を逸らします。未熟という言葉はあまりにも的確ではなくて、たとえば子の未熟さには、自分を知っていく過程がまず含まれている、大人の未熟さには、手に職をつけるための過程が含まれている、親の未熟さには、人との距離を改めて考える過程が含まれている、みたいな。今のわたくしにはこんなふうにしか思えないけれど、とにかく、未熟者ってもそれぞれなわけです。
で、話を戻して……
世界っていうのは押しつけるものじゃないし、都合よく合理的に物事を変えたり隠したりを不適切にしすぎるものじゃない。世界は見せて、見せて見せて見せて見せて見せて見せて、まずは恐れと好奇心を知っていかなくては。自分は子にそれだけ大掛かりに切り開いた未来を与えられるかと言ったら自信はないけれど、それだけの愛情はかけてやりたい。哲学を知れとは言わない。だけど見つからない答えがある。石を拾えとは言わない。だけどあなたにとって素晴らしいものがきっと身近にある。我慢しなくていいとも我慢しろとも言わない。ただ自分のことを慮ることだけは忘れちゃいけない。
おとぎ話だってたまには役に立つ。鏡を見なきゃ気付けないものもあったりするから。言葉の定義を考え始めることも、初めて人に対しての悲しみを壁や床にぶつけることも、地に足がつかなくってわけもわからず走り出すことも、抑制を繰り返す日々に疲れることも、何かを求めて虫の息になることも、とにかくたくさん、たくさん、人生を生き急ぐのに必要で、いずれやってくる未来だということ。
こんなふうに、自分は本当に口と動きだけはうるさい。今の自分が誰かにこう教えられるような立場にはなれてないから、冒頭でも話したけれど、我が子に。来るかわからない、出会えるかわからない、言うなれば、宇宙の遠くで廻る衛星のような、
えっと。
今際の際まで楽しく子供と話していたいなあと思った次第です。(締め)

.
