日本には、長年「当たり前」とされてきた制度がある。
放送法64条に基づく、日本放送協会との受信契約制度だ。
この制度について、結論は単純である。
これはもはや個別の組織や人物の問題ではなく、民主主義の制度疲労の問題である。
放送法64条は「契約」という形式をとっている。
しかし実態は、拒否も交渉もできない強制的な負担であり、民法上の契約概念とは大きく乖離している。
さらに問題なのは、この「契約」が更新も再同意も求められない点だ。
社会状況、技術環境、視聴形態が大きく変化しても、一度結ばれた契約は事実上、永続する。これは契約の名を借りた固定化された義務と言わざるを得ない。
また、国際放送など一部の業務は、「国が負担する」と法律に明記されているが、その原資は当然ながら国民の税金である。
つまりこの制度は、
•税でもない
•使用料でもない
•契約とも言い切れない
という、極めて曖昧な形で国民に継続的な負担を求めている。 にもかかわらず、この負担の正当性は毎年国会で問い直されることがない。
多くの議員、官僚、専門家は、この制度の矛盾を理解しているはずだ。
それでも誰も手を付けない。
理由の一つは、触れても政治的に得をする人がほとんどいない構造にあるのだろう。
だが、「誰も困らないから放置する」ことと「正当である」ことは、まったく別である。
私は、日本放送協会そのものを否定したいわけではない。不払い運動を煽りたいわけでもない。誰かを攻撃したいのでもない。
ただ一つ、問いを置いておきたい。
国民に事実上の負担を課す制度が、説明不能な形で固定化されている状態を、私たちは本当に民主主義と呼べるのだろうか。
解釈や議論では、もう限界に来ている。
必要なのは、ただ一つ。
放送法64条の見直し、すなわち立法による再設計である。
契約と呼ぶなら、更新と再同意を。
負担と呼ぶなら、明確な根拠と国会での説明を。
なんなら税として徴収すればいいのだ。
裁判で白黒をつけ続けること自体が、制度設計として健全とは思えない。
その時間とコストを、立法による整理に使うべきではないだろうか。
それだけの話だ。
この疑問を持つ市民がいたことを、ここに記しておきたい。
この令和の時代に即した放送法へアップデートすることは、日本の民主主義がまだ機能しているかを測る試金石でもあるはずだ。