「白いたぬきとびわの国」原香

還るべき宇宙をもたずもだをるに枇杷食へというあやなき声す

築地正子

上

　法学部の一回生に、秋月ほほえという、まだ十九歳になったばかりの少女がいるでしょう。彼女の遅刻癖は、お友達の間で、よく笑いの種にされています。でも、これにはちゃんとした事情があるのです。彼女には、学校のチャイムが聞こえないのです。他の音はちゃんと聞こえているのですが、この大学の、仏教讃歌のあのチャイム、あれだけが聞こえなくなってしまったのです。どうして、そんなことになってしまったのでしょうか。今からそのいきさつを、お話ししましょう。

　土曜日の無料法律相談会に、たぬきのお客さまがいらしたのは、もう相談会もお開きになった夕方頃でした。新設のＡ校舎六階で、法学部の学生たちは、相談会の後片付けをしています。ほほえは、一番階段に近い、小さな教室で、今日の相談記録をノートにつけていました。他の教室にいた学生たちは、もう片付けが終わったようで、ほほえに「おつかれ」と言って、帰っていきます。ほほえもそろそろ帰ろうと思い、スマホで時間を見ますと、もう六時になっていました。夕方のニュースの通知がきています。〈Ｈ山動物園のタヌキが脱走、五条のスーパーで一升瓶を強奪し逃走中。周囲警戒の呼びかけ〉。筆箱にペンをしまって、ノートを閉じた、その時でした。

「こんにちは。法律相談会は、まだやっておりますでしょうか？」

入り口のドアのところに、たぬきが立っていました。紺色の着物を着ています。何かの制服なのでしょうか、赤いラインと、金色の果物の紋章がついた、裃のようなものを着ていました。それに、たぬきではありますが、彼のからだの毛の色は、とても薄いのでした。白っぽいたぬきです。ほほえは、なんだか胸がざわざわしてきました。

「すみません、もう教授も弁護士の先生方も、お帰りになられたんですよ。せっかく来ていただいたのに、申し訳ありませんが……」

するとたぬきは、全く動揺せずに言いました。

「いえ、大人どもはいりません。ぼくが相談しにきたのは、あなたなのですから」

ほほえは、急に指名されたものですから、びっくりして言いました。

「わたし？　あの、それは、できないことになっているんですけど……」

するとたぬきは、こちらに歩いてきて言いました。

「なに、ムズカシイ法律相談ではありません。ただ、ぼくたちのお願いごとを、少しきいてほしいだけなのですよ。そしてこれは、人間で、女で、法律を勉強していて、しかも仏教教育を受けたひとでないといけません。つまりあなたです」

「はあ」

たぬきは、背筋がピンと伸びていました。はきはきと物申す態度からして、きっと偉いたぬきなんだろうな、とほほえは思いました。

「お名前」

「え」

「あなた、お名前は何というんです？」

「ほほえです、秋月ほほえ……」

「ぽぽえか、よし。ぽぽえさん、ぼくはステファンといいます。やまだぬきのステファンです。まずはぼくたちの事情を聞いてください。それから、できるかどうか、お決めになったらいかがでしょう？」

なぜか、挑むような目つきで見つめてきます。ついさっきまで、もう帰ろうと思っていましたのに、ほほえは、その不思議な、白みのある瞳にしっかりと魅入られてしまい、帰ることなんてもう、すっかり忘れてしまっているのでした。

「事情とは、なんでしょう？」

「はい、実は――」

　さて、ここは阿弥陀ヶ峰。豊国廟(豊臣秀吉のお墓)のあるところです。すぐ近くの木々の間からは、清水寺や京都の町々が望めます。しかし、そんなものには目もくれず、石畳の上で、ゼエゼエと息絶えながら、情けなく伸びているのは、ほほえとステファンです。二人は、Ａ校舎から東にまっすぐ坂を上っていき、いくつかの鳥居をくぐってから、さらに五百段もの階段を一つずつのぼって、やっとのことで、このお墓の前までたどり着いてきたのでした。

「ふう、ふう、ぽぽえさん、ここですよ、ここからぼくたちの、たぬきの国へ入れます」

「ええ、ここって、山のてっぺんじゃないですか」

「ええそうです。この石畳、見ていてください」

そう言ってステファンは、よっこいしょと立ち上がり、秀吉のお墓の前に敷かれる石畳のひとつひとつを、コンコンと足でたたきだしました。そして、

「今日はこれだな」

と言って、あるひとつの石畳に両手を置くと、グググっと押し始めます。すると、それはスコンと下に抜けて、ぽっかりと穴が開いたのでした。

「ふふ。これは、あなたたち人間にはできませんよ」

なんて言って、ステファンは穴の中にひょいと入っていきました。そして、穴から手をだし、ほほえに手招きします。

「ついてらっしゃい」

ほほえは、恐る恐る穴の中を覗き込みました。すると、どうでしょう、すぐ下には枇杷の実が描かれたちょうちんが、だいだい色の光を放ちながら、ゆらゆらと浮かんでいたのです。ステファンはというと、その下に続く、いくつものちょうちんの階段を、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、降りて行っています。ほほえも、さっそくちょうちんの階段に足を下ろしました。

「これ、もし足を踏み外したら、どうなるんだろう」

下を見ますと、ハッと、ほほえは驚きました。街です。たぬきの国の街が見えます。しかし、街といっても、それは人間の街とは、少々異なるつくりをしているのでした。

　たぬきの国では、無数の座敷部屋が、宙に浮かんでいました。どの部屋にも畳が敷かれ、その周りを障子で囲ってあります。部屋ごとに障子のデザインは異なっていて、丸く窓が空いているようなものもあれば、四角い窓のものもあります。障子の代わりに細木の柱を何本も立てて、部屋を囲っているものもありました。どの部屋にも、木の板で作られた屋根がついています。上の階もなければ、空もない空間ですので、屋根はとても薄いものでした。時々、たぬきたちが部屋の障子を開けて、ぴょんと隣りの部屋へ移動したりするのが見えました。ぴょんと飛ばなくても、ほほえたちが降りているようなちょうちんの階段が、そこかしこにありましたので、それを使うたぬきたちもいました。たぬきの街は、幻想的な明かりに包まれていました。それは、色とりどりのちょうちんの階段や、無数に浮かぶ部屋から漏れる、だいだい色の明かりが彩った、お祭りの夜のような世界でした。

「なにか、いい匂いがしますね、なんでしょう？」

ほほえが訊ねると、ステファンが振り返って言いました。

「それはきっと、枇杷の木の匂いでしょう。このへんの部屋に使われている木は、すべて、枇杷の木を使っているんです。この国では、時期になれば、そこかしこに枇杷が実るんですよ」

ほほえは甘い匂いに包まれて、幸せそうに目を細めました。

　「こちらの部屋です。ぽぽえさん」

ステファンは、階段の途中で立ち止まりました。二人は、ある部屋の前まで来ています。それは、串さしおでんの形の窓が印象的な、他よりも一層大きな部屋でした。〈食だおれ　すてふぁん〉と、墨で書かれた看板があります。

「ぼくの実家です。ちょっとした料亭をやっているんです。今日一番のお客さんはぽぽえさん、あなたですよ」

と言って、ささっと障子を開けて、中へ入っていきます。ほほえは、わくわくした気持ちになりながら、足をのばして後に続いていきました。

　「ふん、やっているね」

そう言ったステファンの背後から覗いた座敷部屋の様子は、それはもう、大変な在りようでした。部屋はたぬきと食べ物であふれかえっているのです。長テーブルが座敷に三つ、平行に並んでいるのですが、その上に和洋中の料理がごった返して置かれて、あるいは宙を飛んで、あるいはたぬきの大きな口の中に、丸ごと入っていきます。向こうのたぬきたちは、大皿のナポリタンスパゲッティを滝のようにすすり、そっちのたぬきたちは、おでんのお鍋を仲良く囲んで、あっちのたぬきたちは、餃子の大山を崩しながら、お箸で取り合いをしています。タワーのような小籠包の蒸し器がなだれ込み、隣りで等身大の巨大ケーキをほおばっているたぬきたちに押しかかります。もう、散々です。ステファンは、そんな中を平然とすたすた突き進み、奥の障子を開けて言ったのでした。

「連れてきたよ、人間の女の子だ」

　一瞬、部屋が静まりました。皆が一斉にこちらを振り返ります。奥の部屋は調理部屋でした。割烹着を着たたぬきたちが、座敷にだす料理を用意していたのです。その中で、いっとう大柄の女将さんたぬきが、大鍋の合間から出てきました。いえ、正確に言いますと、女将さんの周りのたぬきたちが、彼女を避けるようにして、一歩後ろに下がったのでした。ステファンが、ほほえに向かって小声で言います。

「大丈夫ですよ、あれはうちの母ですから。さあ、もっと前へ」

ほほえを部屋に入らせます。

「ただいま母さん、この子が例の子さ。言っただろう？　これで明日には出発できる」

ステファンの言葉に、手前のたぬきが、お玉を落としました。口が大きくあいています。女将さんは、すぐ近くのたぬきを押しのけて言いました。

「まっ、あんた……あんた本当にやる気なのかい？」

ずんずんこちらへ向かって来ます。片手にハサミ、片手にカニの脚を持ったままです。そして、その尖った小さな鼻先が、ほほえの顔にくっつきそうになるくらいまで、ぐーっと近寄ってきました。ほほえは、思わず後ずさります。しかし、ほほえが後ずされば後ずさるほど、女将さんはもっともっと顔を近づけて、歩み寄ってくるのです。まじまじと、大きな瞳で見つめてきます。こんなとき、ほほえはステファンが助けてくれたら、と思ったのですが、彼はただ、無表情にほほえと、それに歩み寄る母親を眺めているだけでした。座敷部屋は、静かになってしまいました。さっきまで宴会をしていたたぬきたちは食べるのをやめて、今は女将さんと人間の少女に見入っています。奥の部屋の割烹着を着たたぬきたちも、障子の合間から、皆集まってこちらの様子をうかがっていました。しかし、沈黙はすぐに破られました。畳の上に散らばっていたひよこ豆を、運が悪かったのでしょう、ほほえが思いきり踏んづけてしまったからです。

　「わっ」という短い悲鳴と、すってんころりん、あとは、大山の料理がどんがらがっしゃんと、ほほえをめがけて崩れ落ちてきます。ほほえは、さっきステファンと一緒に入ってきた障子の前まで、転がっていきました。障子は開けたままでしたので、この騒音は、四方八方に浮く他の部屋のたぬきたちにまで聞こえていました。皆、なんだなんだと、自分らの部屋の障子を開け始めます。女将さんが口を開きました。

「まーっ！　こりゃたまげたね、あたしゃ、人間のお客は初めてだよ。もっとも、こうやって体じゅうに食べ物をくっつけて逃げ回る、丸焼き用の仔豚なら、何匹も見てきたけどねえ」

小さな笑いがおこります。ほほえは、細木の柱を背に、顔を真っ赤にして座り込んでいました。目をパチパチしますと、ナポリタンスパゲッティが一本、ぺこりと情けなく眉間に垂れてきました。皆の視線を一身に集めているのを感じ、心臓が口から飛び出てしまうのではないかと思われました。そうでしたのに、ほほえは、こちらを見つめる女将さんの瞳から、どうしても目が離せませんでした。そこには、ステファンの瞳の中にも見えた、不思議な白みがあったからです。ふいに、女将さんがステファンの方へと顔を向け、低い声で言いました。

「あんた、だまして連れてきたわけじゃないだろうね？」

「まさか。ちゃんと事情は説明したさ。そうだよね？」

こちらに訊ねてきます。ほほえは、カラカラの声で答えました。

「ええ、ご事情はうかがいました、あの――」

女将さんは驚いたようにカッと目を見開いて、ほほえのほうに顔を向け直します。ほほえは思わず息を吞みました。ステファンは無表情に母親を見つめています。部屋の中は、先ほどまでとは完全に、空気が一変していました。女将さんは低い声のまま、早口でほほえに言いました。

「あんた、息子とはどこで会ったんだい？」

「あの、大学です。無料法律相談会で――」

「だいがくぅ？　どこだい？　なに大学」

「京女です。七条の……東山区の――」

「へえ、あの女子大ねえ……フン、なんで引き受けてきたんだい？　あんたにとって、いいことは何もないだろう？　それともなんだい、人助けだとでも思ったのかい？」

「いえ、その」

ほほえはゴクリと唾を吞み込みました。

「仏さまが、見ていらしたので……」

　そうなのです。ほほえがステファンと出会ったあの教室は、Ａ校舎の六○七教室でした。ここには、仏さまがいらっしゃるのです。教室のホワイトボードをスライドし、その後ろにある扉を開け、次の扉に七桁の暗証番号を入力し、その次の虹彩認証を突破して、最後に掛かけられました垂れ幕を開きますと、そこには、大きな金の仏さまが、静かに座っておられるのでした。京女生であるほほえは、もちろんこれを知っていました。そして、ほほえはステファンの話を聞いたとき、ある賭けを、この仏さまにしていたのでした。

　「事情とは、なんでしょう？」

ここはＡ校舎の六○七教室です。ほほえとステファンは、夕方の窓から差すだいだい色の光の中で、長テーブルを挟んで座っています。

「はい。実は、ぼくたちの王国では、毎年この時期に、枇杷祭りというお祭りが開催されるのです。ぼくたちは皆、これを楽しみにして準備をするのですが、今年はそうはいかなくなってしまいそうなのです。というのも、ぼくたちの立法者が、この枇杷祭りを開催できなくさせるような法律をつくってしまったからです」

「それは、いったいどのような法律なんです？」

「ええ、通称『枇杷新法』といいます。もともと、ぼくたちの国では、枇杷の違法採取が問題になっていました。最初は植物採取法で取り締まっていたのですが、これが全く効果がなかったんです。それどころか、年々違法採取の被害件数が増えていったのです」

ほほえはうなずきました。ステファンは続けます。

「そこで、ぼくたちの立法者は『枇杷新法』を制定しました。この法律は、枇杷の違法採取を目撃した者が、その犯人について司法局に報告すると、礼金として五十ビワが与えられる、というものです。五十ビワといえば、こっちの世界の料亭で、土鍋料理を毎日食べても、半年はもつくらいの大金ですよ」

ほほえは、ステファンの白い毛並みが、だいだい色に染まっていくのを見て、なんだか不思議な気持ちになりました。

「なるほど。それで、どうして祭りが開催できなくなるんでしょう？」

「それはですね、皆がお互いを警戒してしまい、枇杷を採れなくなってしまったからです。枇杷祭りは、たくさんの枇杷を使います。今までは、家の幹などに実った枇杷を、適当に採って、飾りつけや料理に使っていたものです。しかし、ぽぽえさん、こんな法律があったらどうでしょう？　たとえ認可のおりた幹から採るにしても、礼金を狙う奴らが勘違いして、局に報告するかもしれません。そんなことになったら、たとえ潔白だとしても、厄介なことに巻き込まれて、困ったことになるでしょう？」

ステファンはここで、ため息をつきました。

「枇杷祭りには、たくさんの枇杷がいるのです。なのに、皆が新法に混乱して、枇杷を十分に採れない状態になっているのです。今年の開催は中止になるのではないか、という声もあがっています。それに、たとえ開催ができたとしても、気持ちよくお祭りを楽しむことはできません」

ステファンは、しょぼんとうつむいてしまいました。ほほえは言いました。

「そんな、枇杷を採っているからって、すぐに報告しようとするひとはいないと思いますよ」

ステファンはキッパリと言いました。

「います！」

そして今度は、吐き捨てるように言いました。

「世の中、だれが何をするかなんて、わかったことじゃありません」

「……例えば、認可のおりた木には、目印を付けておくのはどうでしょう？　それなら堂々と枇杷が採れるでしょう？」

「目印はすぐに偽造できるから、だめです」

ほほえは、たぬきの国の住人たちは、よほど信用がないんだなあ、と思いました。なぜか、先ほどスマホのニュースで見かけた、一升瓶を強奪した逃走中のたぬきのことが、思い出されました。

「もしかして、わたしに、そちらの国の立法者を説得して、『枇杷新法』をどうか取りやめてくれるよう、頼んでほしい、というわけではないですよね？」

「その通りです」

「……」

「ぼくらの立法者は、なぜかは誰もわかっていないのですが唯一、人間の女性、特にあなたぐらいの年齢の人となら、対面でお会いすることを許されるんです。あなたはその条件にぴったり合っているでしょう？」

「でも、確か仏教教育を受けていることも、条件にありましたよね、あれはどういうことなんです？」

「まあ、それは対して大きな条件ではありません。予防線といいますか」

「ふうん……」

ほほえは、なんだかふわふわした気持ちになりました。ステファンには申し訳ないですが、彼の話は、まるで誰かの書いた本を読んでいるような気分にほほえをさせていました。そして、この時でした。ほほえは、ステファンの後ろに見えるホワイトボードを、ぼんやりと眺めます。つい先週この教室で受けた、仏教学の授業のことを思い出しました。ハムスターの親戚のような顔をした教授が、親鸞についての授業をされたのが、ふと頭の中に思い起こったのです。

　「ある授業で習いました。親鸞さまは人助けについて、自分に助けられることであれば、人助けをすればいいのですが、もし能力的に、もしくは状況的にできないのであれば、無理にしなくてもよいと説かれたそうです。でも同時に、そういった、できるできないの判断というのはすべて、人間の、自分中心的な考え方に基づくものだそうです。だから親鸞さまは、何にもとらわれない心に達するために、念仏をされた、と――」

女将さんや他のたぬきたちを前に、ほほえは少し小声になりながらも、話し続けました。

「でも、わたしは違うと思ったんです。親鸞さまは、人は皆、考えてから行動をするものだと思ってらっしゃいます。先にできるできないを判断してから、行動するものだと。でもわたしは、できないことでも、やりたい気分であればやってしまいますし、できることであっても、やりたくなければ、やりません。その時の気分で動いているので、特に考えてはいない気がするんです」

ほほえは、服に付いた食べ物を払いながら、ゆっくりと立ち上がりました。女将さんの目を見ています。

「今回も、ほんとうのことを言えば、半分は自分の気分で決めました。無責任だとは思いますが、ステファンさんのお話をうかがったとき、できるできないに関係なく、何か自分のなかでこの国の事情に惹かれるものがあったんだと思います。ですが、やっぱり気分で動いていては、わたしは自分の行動に責任がとれません。ですから、もう半分の決め手は、仏さまでした。仏さまはちょうど、あの教室のホワイトボードの裏側で、ステファンさんとのお話の一部始終をご覧になっておられたはずなんです。つまり、わたしが今回のことで、もし失敗してしまったとしても、仏さまはその慈悲深い御心で、助けて下さると思ったんです……よい言い方ではありませんが、今回の人助けには、保険がしっかりついているということです。そういう理由で、引き受けようと思いました」

女将さんは、ぽかんとした顔でほほえを見つめています。部屋は、長い間、静かでした。ふいに、女将さんはゆっくりと、ため息をつきました。次にクククッと、抑えるように肩で笑い始めます。それから今度は、人間では有り得ないくらいに、ほっぺたを、にかーっと横に引き延ばし、大声を出して笑い始めたのです。それは、ほがらかな、それでいて、なんとも、実にかわいらしい笑顔でした。そして大笑いをしながら、こう言ったのでした。

「あんた、さっきは豚なんて言って悪かったね、ああ可笑しい！　変なことを言い出したと思って聞いてみればっ！　あっはっはっはっ！　あたしゃ、あんたみたいに可笑しなことを考える女の子は、嫌いじゃないねっ！」

女将さんは豪快に笑っています。覗き見をしていた割烹着のたぬきの口が、あんぐりと開いています。隣りで見ていたもう一人のたぬきが、気を遣って肘で彼女を小突きました。小突かれた腕に持っていたプリン・ア・ラ・モードのさくらんぼも、少し震えましたが、やはり場を読んで、何も言わずにてっぺんから転げ落ちます。コロコロと床を転がっていき、やがてステファンの足元まで来て、止まりました。ステファンはそれを拾い上げ、ふっと息を吹きかけてから口に放り投げます。それから、

「ん、あまいな」

なんて言ったのでした。

　とたんに、まるで大皿をひっくり返したかのような騒ぎが始まりました。宴会は再開し、割烹着を着たたぬきたちも、何事もなかったかのように、仕事に戻っていきました。そして皆、自分では気づいていませんでしたが、その口に、気持ちのよいほほえみを、浮かべているのでした。

　ほほえだけは、まだ柱のところで、ひとりうろたえていました。すると、いつの間にそばに来たのでしょうか、ステファンがほほえの耳元で、そっと言いました。

「母はああ見えて、実はけっこう信心深いほうなんですよ。まあ、他の皆もそうですがね。ぽぽえさんの先ほどのお話は、めちゃくちゃな理屈ではありましたが、仏や親鸞の話をされたのがよかったんだと思いますよ……ま、お目にかなってよかったね」

ほほえは、急に力が抜けたのか、今になってめまいがしてきました。

「ステファン、あんたもしっかりやるんだよ。さあ人間の女の子！　お食べ、これはあんたにやるよ。ここは美味しいところだよ」

と言って、女将さんは持っていたカニの脚をほほえに持たせます。そして、ほほえの鼻先についたホイップクリームを手にとって舐め、幾度かうなずいてから、「さあ、仕事仕事」と言って、奥の部屋へと戻っていきました。他の部屋のたぬきたちも、見せ物は終わったとみて、それぞれの部屋へと戻っていきました。ほほえはカニを持ったまま、ステファンに連れられ、座敷部屋の長テーブルの、一番端の席へと案内されます。

「ここに座って少しだけ待っていてください。ぼくは向こうの部屋に用事があるので、ちょっと行ってきます」

ステファンはそう言い残して、近くの障子を開けて、ぴょんと隣りの部屋へ行ってしまいました。ほほえは座布団に座り、カニの脚を片手に持ったまま、ぼーっと宴会場を眺めました。喉がカラカラでしたので、カニは適当なお皿に置いて、近くのお冷だけ手に取り、遠慮がちに飲むのでした。

　「やあ君、ちょいちょい」

どこかから、声が聞こえます。

「冒険にホトケの保険をかけた少女、君だよ。うふふふ」

下です。テーブルの下から声が聞こえます。ほほえは覗き込みました。

「やっ！　見ないでくれたまえ」

みかんの皮が飛んできました。それにしても、すごい臭いがします。お酒の臭いです。ほほえは、落ちたみかんの皮を怪訝そうに見ています。

「なんでしょう？」

「服をくれたまえ」

「ふく？」

「布だよ。何でもいい」

ほほえはキョロキョロとあたりを見回します。

「まったく、ここの奴らときたら服を着ているなんて！　恥ずかしい者どもだ」

声は下の方で、ブツブツと何かを言っています。ほほえは、自分が勝手に手に取れるようなものは周りにないことを察しますと、着ていたベストを脱いで、テーブルの下へ差し出しました。掴まれた手ごたえがあります。そのまま、そーっとテーブルからベストを引っ張り出しますと、たぬきが一ぴき、ベストにしがみついたまま出てきました。まん丸の、黒い瞳と目が合いました。

「これ、くれるんだろ」

「はい、あげます」

手を離すと、たぬきはテーブルの下へささっともぐりこみ、

「あ、いいサイズだ」

と言って、のそのそと出てきました。小さなげっぷもしました。

「こんなところにまで人間がいるとは」

たぬきは、ほほえの隣りの座布団に座ります。

「この世の終わりもちかいちかい」

なんて言っている間に、テーブルの上の徳利に手を伸ばしています。ほほえはたぬきをまじまじと見つめました。どうもこのたぬきには、他のたぬきにはない雰囲気があるように思われました。からだの色が、他のたぬきと違って、たぬきらしいこげ茶色だからでしょうか。瞳の色も、やはり真っ黒で、この国のたぬきとは異なります。ほほえはハッとして言いました。

「もしかして、あなたＨ山動物園から脱走してきたたぬきなんでしょう？」

夕方のニュースを思い出したのです。すると、たぬきはこちらを向いて言いました。

「そういうあなたは、東山女子大から脱走してきた、サルのお仲間なんでしょうね」

そう言った次の瞬間にはもう、こくこくとおちょこを飲んでいたのでした。しかし突然、思い出したかのように目を見開いて、嬉しそうに言いました。

「ああそうだ、君は脱走じゃなくて、あの官吏に拉致されてきたんだっけか。うふふふ、これは拉致問題発生だあ」

「官吏？」

「あの旧日本軍の軍服みたいな裃を着たやつさ」

ステファンのことです。

「拉致じゃありません。ちゃんと自分で、ここに行くことを決めました」

「知ってる知ってる。気分で決めたんだろ。あはははっ、気分！」

たぬきはさも楽しそうに、もう一本の徳利に手を伸ばしました。

「この国は、入ったら出られないのさ」

ほほえは、たぬきの方を向き直します。でもたぬきは、ほほえのことなんて見ていませんでした。

「ふふ、やっぱり知らされていなかったのか。ここでは、君みたいに思想のない人間は、特に出られないようになっているのさ。あはは残念だねえ、まだ若いのに。ふふ、おバカ」

たぬきは、ほほえがさっきお皿に置いておいたカニの脚に、手を伸ばします。

「そこらへんにカニ酢ってあるかい？」

ほほえは素早くたぬきの手を叩きます。

「これはわたしのです」

イライラしているようでした。ほほえは、近くにあった麵つゆとレモンをやや横暴に取ります。そして今度は急に不安げになって、つゆとレモン汁をお皿にたらしたのでした。

「……わたしがいなければ、みかんの皮を着ていたくせに」

「なんだって？」

　そのときでした。後ろの障子から、誰かの騒ぐ声が聞こえます。

「はなせ！　わしに手錠はいらん！　犯罪者になるには、わしはまだ可愛すぎる！　ケロケロッ！」

「おとなしくしろ、このけたたましいじじいめっ！」

ほほえは、聞こえてくる叫び声に眉をひそめながらも、カニを食べようとしました。しかし、

「そら来いっ！」

ピシャッ、と後ろの障子が開きました。ステファンと、もうひとりが入ってきます。

「いやあ、お待たせしてしまいましたね、ぽぽえさん。いえ、お騒がせしてしまいました、と言うべきでしょうか」

「ステファンさん、彼は……」

「ケロケロッ」

「彼のことは、教授と呼んでいます。この国では、あなた以外の唯一の人間です。見ての通り狂人で、監視が必要とされたのですが、運悪くぼくがその役目になったんです」

ステファンに押さえつけられながら現れたのは、小柄な老人でした。汚れた浴衣に汚れた下駄をはいています。髪の毛はありませんでしたが眉は濃く、その眉間からは、何か、きちがいじみたものが感じられました。

「そらみろ。入ったら、じじいになるまで出られない。いずれこうして狂うのさ」

ほほえの隣りで酒飲みのたぬきが言いました。ほほえは振り返って言います。

「失礼な言い方！」

ステファンは、ほんの一瞬だけ、この酒を飲んでいるたぬきを見つめました。そしてすぐに、老人を引きずるようにしながら、ほほえの向かいの席まで来て座ります。

「ぽぽえさん、彼は？」

「この方は、言うなれば脱走だぬきです。動物園から逃げてきたんです。途中のスーパーで万引きもしています」

たぬきは、一つしゃっくりをしてから言いました。

「ふふふ、ぼくには君らの法は適用されないんだから、万引き犯のように言ってくれるのは間違っているよ。それにぼくには名前がある。君らのようなカタカナの名前じゃなく、長い伝統を持った、勇ましいたぬきの名前がね」

ステファンは、テーブルの上に散らかった徳利を端に寄せながら、彼に言いました。

「へえ、それはいったい、どんなお名前なんでしょう？」

「えへへ、ぼくの名前はねえ、ぽんきｔ――」

「つまらんっ！」

いきなり、教授と呼ばれた老人がしゃべりだしました。

「国の一大事が今宵起ころうとしている時に、男子ふたりの会話が動物園だのスーパーだのっ！　実にくだらんっ、ゆるせんっ！　ケロケロ！」

「……あの、どうして彼はケロケロって鳴くんです？」

「彼の口癖なんでしょう。深くは知りたくありません」

「ふん、変な奴が多い国だ。何がくだらん、お前がくだらん。それでぼくの名前は――」

教授はガバッと急に立ち上がり、ほほえを指さして言いました。

「少女！　立法者は手ごわいぞ！　奴はきちがいじゃ、琵琶の音色で狂っておる。やつの説得はわしが代わりにしようじゃないか！　わしが後ろでサポートするから、おぬしは口パクでわしの言う事にとりあえず合わせておれ。パクパクするんじゃぞ」

ほほえはステファンに訊きました。

「彼も、立法者さんのところへ連れて行かれるんですか？」

「まさか、と言いたいところですが、ぼくは監視役ですし、王宮までは連れていかねばならない義務があるでしょう。でも、その先の立法者のいる部屋へは、ぽぽえさん、あなたしか行けません」

ほほえとステファンは、お互いに顔を寄せて話し始めました。隣りのたぬきも、興味なさそうな顔をしながら、耳をそばだてます。教授はまだ立ったまま、何かを叫んでいました。ほほえが言います。

「立法者さんとは、いったいどのような方なんでしょう？」

「不思議な方です。ぼくは王宮へ勤めていますが、噂しか聞いたことがありません。その噂では、人間の、あなたくらいの年の女性に、大変興味をお持ちになっているそうです。確か向こうの部屋に写真がありますが……」

教授がいきなりしゃがみ込んで、何か秘密の話をするかのように、小声になって言いました。

「これこれ若人、奴の写真はわしがちゃんと見ておいたぞ。顔では確かに笑っているが、わしは目を見た。すると奴の目は、ちゃんと笑っていなかったんじゃ！　あれは、悪法をつくる奴の笑顔じゃぞ……ケロケロリ」

「悪法……」

ほほえがつぶやきました。

「やっぱり、枇杷新法は悪法なんでしょうか」

教授が答えます。

「そうともそうとも。あれは立派な悪法じゃ」

三人は、教授を見つめていました。周りではまだ、賑やかに宴会が行われています。

「よいか、枇杷新法は、枇杷の違法採取を禁止するとは書いてはおらん。代わりに、違法採取を目撃した者は、それを国に報告すると、礼金を貰うことができると書いておる。つまりこの国の司法は、違法採取を直接禁止することはなく、ただカネの力で民衆を従わせているだけなのじゃ。その手段に法を使っておる。よいか、おぬしら。立法というのは、必ず道徳や倫理において堂々としているべきなんじゃ。ほれおぬし、おぬしも法学を学ぶ者であれば、これだけはゆめゆめ忘れるでない」

最後のセリフは、ほほえにあてられていました。ほほえは、教授の話に妙に感心してしまったようで、ぼうっとしています。老人は、そんな三人の様子を見て、満足げに微笑んでから、最後にこう、付け加えたのでした。

「ケロケロッ！」

中

　さあ、ほほえとステファンは、王宮へ向かって移動します。それは、王宮があるらしいこの世界の底、つまり空間的な最下層に向かって、まっすぐ降りていくという、エレベーターでの移動でした。エレベーターと言っても、この世界のそれは、六畳ほどの小さな和室です。やはり、畳の床を障子で囲っており、丸い窓があいていて、板の天井がついていました。どこを見ても、敷き詰めるように、色々な店の広告やチラシが貼ってあります。部屋の外には、とても小さな縁側がついており、そこで運転手が、取っ手のついた歯車をキコキコ回すことで、部屋を下へ降ろしているのでした。こういったエレベーターは、たぬきたちが、ちょうちんの階段では遠くて行けないような場所へ用があるときに、使うものでした。エレベーターの室内には、ほほえとステファン、そして教授がいます。酒飲みのたぬきは、とうとう酔っぱらって、あのあと座敷部屋で寝てしまったのでした。ところで教授は、猿ぐつわをされ、手足を縛られ、部屋の隅につながれていました。ステファンがそうさせたのです。「狂人と一緒に狭い空間にしばらくいながら正気を保つためには、こういう措置が必要だ。ぼくにはそれを行う権限がある」と言って、呼んだエレベーターの運転手に、まずこれをやらせたのでした。

　ほほえは畳に座って、窓から外の景色を眺めています。エレベーターが座敷部屋のそばから出発してからは、すでに何分か経っていました。色とりどりに、ゆらゆら光るちょうちんや、所狭しと浮かんだ、薄明かりの灯る部屋々を、飽きることなく眺めていました。ほほえは言いました。

「枇杷祭りには、枇杷をたくさん使うんですよね。地面が見当たりませんが、枇杷はどうやって採るのでしょう？　一番下に地面があって、そこまで降りていくのでしょうか？」

違う窓から外を見ていたステファンが答えました。

「枇杷は、部屋の柱や天上から採れるんです。柱などには枇杷の木を使っているので、時期がくると、部屋の中は花や実でいっぱいになるんです」

「へえ……」

エレベーターはゆっくりと下へ降りていきます。障子の向こうの縁側から、キコキコという、歯車を回す音が聞こえています。耳をすませば、周囲の部屋からも、たぬきたちの唄声が聞こえてくるようでした。

「お祭りは、きっとすてきなんでしょうね」

「ええ。華やかな、美しい祭りです。皆、楽しみにしています」

「いいなあ」

「……特に、今度のお祭りは、特別華やかでないといけません。気持ちのいいものでないと、いけません」

ほほえは、ステファンの方を向きました。ステファンも、ほほえをまっすぐ、白い瞳で見つめています。そして言いました。

「ぼくは、今度のお祭りで、結婚式を挙げようと思っています。婚約者はぼくと一緒に育った、幼なじみの娘です。ぼくは、彼女をとても愛しています」

ほほえは、突然の話題に少しびっくりしました。

「それは、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「……」

部屋は、静かになってしまいました。ほほえは、もっと何か結婚式について訊ねたほうがいいのかと、少し動揺していました。ステファンが、先ほどからずっと、無表情に白い眼を向けて、こちらを見続けていたからです。そして一瞬間が空いて、ほほえはやっと、彼の言わんとしていることを、理解したのでした。

「では、わたしが必ず立法者さんを説得して、枇杷祭りがちゃんと開催されるようにしないといけませんね、」

「ええ、よろしくお願いします」

ステファンは、丁寧に頭を下げて、そう言ったのでした。

　エレベーターが急に止まりました。運転手の声が聞こえます。

「相乗りです」

ステファンが言います。

「どうぞ」

ススッと障子が開き、ベレー帽を被ったたぬきが入ってきました。

「今熊野真下四丁目、ウィステリア出版社前まで」

そして、縛られた教授を見て、「うわっ」と言ってのけぞります。それからふと、怪訝そうに見つめなおしました。

「これはこれは、センセイじゃないですか」

教授はもごもごと何かを訴えています。ステファンが言いました。

「彼と知り合いで？」

ベレー帽のたぬきが言います。

「はい。ぼくは、そこを下ったところの出版社で編集者をしております、ハリーといいます。センセイの本を担当しているんです」

ハリーとステファンは握手します。

「ぼくはこの人の国選監視役の者です。はは、彼の本の編集の方だったんですか、それは、お世話になっております。いや、知らなかったな、教授は本をお書きになられているんですね」

ステファンは教授を見下ろしました。教授は急に素知らぬ顔になり、そっぽを向きます。ハリーは、隅に座ってこちらを見つめているほほえと、縛られた教授を交互に見ながら、つぶやきました。

「あの、これはどういう……」

「噂に聞いていませんか？　今から向かうところですよ」

ステファンはさらりと答えました。そしてハリーに質問を返します。

「教授の執筆中の本とは、いったいどのようなものなんでしょう？」

ハリーは人の好い笑みを浮かべて言いました。

「センセイは、児童文学界最注目の狂人作家として、現在〈繊細さんステファン三部作シリーズ〉の第二巻、『やまだぬきステファンの躁鬱体験記』を執筆されているんですよ」

「……」

「あ、そうだこれこれ、これを貼らなくちゃ」

ハリーはショルダーバッグから小さなチラシを取り出し、目線の低い場所へ数か所、丁寧に貼り付けました。チラシにはこうありました。「今ちびっ子に大人気の〈超繊細ステファンくん〉、最新作『やまだぬきステファンの躁鬱体験記』は近日中に発売ダヨ！　ママと一緒に本屋さんへゴー‼」。室内に重すぎる空気が流れるなか、ハリーはせっせとチラシを貼り付けます。ふいに、リンとベルの音がして、エレベーターが止まりました。

「今熊野真下四丁目、ウィステリア出版社まえー、ウィステリア出版社前でございます」

運転手の声が聞こえました。

「あ、着いたみたいですね」

ハリーは教授とステファン、そしてほほえに、爽やかな笑顔を向けて言いました。

「センセイ、執筆、頑張ってくださいね。そうやって自らを縛って鍛錬されるお姿、尊敬します！　ステファンさんや、人間のお嬢さんも、ぼくはよくわからないですが、お仕事、頑張ってください。それでは」

ハリーは、開いた障子を、行儀よくお辞儀をしながら閉めていき、ちょうちんの階段を渡って行ってしまいました。ステファンは、ゆっくりと教授の方に顔を向けます。教授は一層縮こまって、怯えたカエルのように「ケロケロっ⁈」と鳴きました。

「貴様っ！　よくも本なんか……！」

胸ぐらをつかみます。

「ケロッ‼」

「だまれっ！　いいか、ぼくのプライベートなことを書いていたり、勝手な妄想などでぼくの気持ちをバカにしたりしていたら、絶対に許さないからなっ！」

もの凄い迫力でした。ステファンはまた口を開きます。しかし、

「相乗りです」

新たなお客さんが、障子を開けて乗ってきました。ステファンは仕方なく教授を離します。それからというもの、エレベーターの中では、お客さんの絶え間ない出入りが続き、運転手の掛け声とベルの音が、せわしなく交差するようになりました。エレベーターは、どうやらラッシュアワーに入ったようでした。お客さんが降りると、ステファンのお説教が再開しましたが、お客さんが入ると、一旦止まります。彼らはそれを、飽きずに何回も、繰り返していたのでした。

　ほほえは、ひとり窓の外を見ていました。そして、色々なことを考えていました。自分の年くらいの女子にしか、対面を許さないという立法者のこと。思想がない者はこの国から出られないという、酔っ払いのたぬきの言葉。それから、座敷部屋でこの国へ来た理由を説明したときに、自分で言った言葉についてです。行動の前にはやはり、思考や理由が必要なのでしょうか？　気のおもむくままに、動いていては、いけないのでしょうか？　しかしほほえには、一つだけ確かなことだと思えるものもありました。それは教授の言った言葉です。

〈立法というのは、必ず道徳や倫理において、堂々としているべきだ〉

ほほえは、何があってもこれだけは、きっと確かなのではないかと感じていました。確かにこの時は、そう感じていたのでした。

　「最下層、王宮まえー、王宮前でございます」

ベルがリンと鳴りました。エレベーターで座敷部屋を出発してから、一時間が経っていました。室内には、ステファンと教授、そしてほほえの三人のみがいます。教授とステファンの間には乱闘があったと見え、とうとう教授の猿ぐつわは外されておりました。

「ケロケロッ！　この人でなしっ！　わしの人権なんて、あったものじゃないわいっ、まったく！　フンガフンガ」

三人は障子を開けて、エレベーターから出ます。外は、真夜中の公園のような暗さでした。ステファンは懐から小さながま口を取り出して、運転手にお駄賃をあげました。淡い光を放つエレベーターは、ゆっくりと、上へ引き返していきました。

「もしわしが川へ落ちても、岸を歩いているのがおぬしじゃったら、わしは助けを乞わぬ」

「ふん、それはこっちだって同じさ」

三人は歩き出します。ステファンは夜目が利くようでした。また彼は、こちらに勤めていますので、道がよくわかっているようでした。ほほえと教授の先を、どんどん歩いていきます。ほほえは、ふと上を見上げました。電柱二つ分ほど上の方に、ポツポツと部屋が見えています。最下層の灯りといえば、そこから届く、わずかな光だけなのでした。

「王宮はどこにあるのでしょう？　まだ遠いのですか？」

ほほえが訊きました。

「ふふ、ぽぽえさん。王宮はここですよ」

ステファンが振り返って言います。ほほえには、白い瞳しかよく見えません。

「最下層全体が王宮なんです」

ドサッと隣りで音がしました。

「ケロッ‼」

「今歩いているのは、庭のようなところです。このすぐ先に宮廷があるんですよ」

「あの、ステファンさん、教授さんがいないのですが、」

「なに……まったく」

ステファンは仕方なさそうに、引き返して来ました。

「あ、ここは……彼、まさか池にでも落ちたのかもしれませんね」

近くから、ちゃぷちゃぷという音と、ぶくぶくと何かが沈んでいく音が聞こえました。ステファンは、がま口からマッチを取り出して、灯りを付けます。

「教授、見えますか？　ぼくたちはここにいますよ」

「助けは乞わんぞ、ケロケロッ。あ、カエルじゃっ！　寄るな、わしは仲間でないぞっ！」

生きているようです。ほほえは、ほっとするような、妙に納得するような気持ちになりました。

「この山椒大夫め」

ステファンはそう言いながら、マッチをほほえに渡しました。

「ぼくは、護衛のたぬきを呼んできます。少しだけここで待っていてください」

と言って、走って行ってしまいました。

「おぬし！　ほれ、ほほえっ！」

教授が暗闇の中で、ほほえに話しかけます。

「あ、わたし教授さんを引っ張ります、今どの辺に――」

「そんなことはどうでもよい、あいつがいない隙に、わしの頼みを聞いてくれんかの」

ほほえは暗闇の中、マッチを持って一人、たたずんでいます。

「はあ、なんでしょう？」

「おぬしがここを出ていくときに、わしの原稿を持っていってほしいんじゃ」

「やまだぬきステファンの躁鬱体験記のことですか？」

「そうそう、それじゃ。あれを、そっちの世界の出版社へ送ってほしいんじゃ。郵便代は出すからの。結果は知らせんでよい。ひとりでも、誰か人に読んでもらうことが大事なんじゃ。帰るときに持たせるからの、頼まれてくれんかえ」

「はい、もちろんです。必ず届けます……あっ」

ほほえは暗闇にしゃべり続けました。

「わたし、自分はここから出られないと聞きました。わたしみたいな、思想のない人間は特に出られない、と……」

「ホホ、心配せんでよい、もう出られるからの。ケロケロ」

「え？」

そのときです。

「きみい、池に溺れた老カエルとは、ここかい？」

松明を持ったたぬきがやって来ました。

「あ、この近くです」

彼の松明のおかげで、周囲がよく見えるようになりました。ほほえが立っていたのは、石畳の小径で、脇には見たこともないキノコのような植物がたくさん生えていました。池は、ほほえのすぐ右にあり、蓮の葉と、カッパのような教授が浮いておりました。

「ぽぽえさーん」

ステファンもやって来ました。

「ぽぽえさん、待たせてすまなかったね。話はつけてきましたから、君は先に宮廷内へお入りなさい。ぼくは立法者の部屋までは行けない決まりになっているから、一緒には行ってあげられない」

「はい、どうやって立法者さんのお部屋へ行くんでしょう？」

「向こうの方で、小径が二手に分かれているのが見えるでしょう。一つは道が続いていて、もう一つは分かれ目のすぐ後で途切れています。ぽぽえさんは、途切れている方を選んでください。途切れた先には、湖があるんです。湖の上を、歩いて進んでいけば、立法者の部屋にたどり着きます。ふふふ、大丈夫です。湖には、立法者の趣味で、火の玉がそこかしこに浮かんでいるんです。彼らが足元を照らしてくれるので、ぽぽえさんは、自分の足元をずっと見つめながら、水面を歩いて行ってください。いいですか、水面に、反射した自分の足元が見えるはずです。その足の歩調に合わせて、歩いていくんです。向こうの歩幅と、しっかり合わせて歩かなければなりませんよ。ちなみに、続いている方の道の先には、ぼくらの職場や王様たちのお部屋があります。ぼくと教授はそちらへ進んで、ぽぽえさんを待ちます」

「はあ、分かりました。行ってみます……」

ステファンはにっこりと笑って、落ち着いた調子で言いました。

「いいですか、水面に映った足と、同じところを踏んで歩くんですよ。自分の足の反射だからって、踏み出した先が、向こう側の自分と同じところを踏むとは限りません。もし、踏み外してしまうと、足を下した先は、ただの水です」

背後の池では、教授がたぬきに引っ張られてやっと、小径にあがったところでした。ステファンが言います。

「ではぽぽえさん、頑張ってくださいね。待っていますよ」

　ほほえは薄暗い中をひとり、歩き出しました。背後から、教授とステファンの掛け合いが微かに聞こえてきました。

「どうだ、参ったか！　山椒大夫は池を出たゾッ！　ケーロケロケロ」「ふん、助けを呼んだのはこのぼくだ。負けたシャモめ」「なんじゃと？　むむ、駄洒落にもならん議論じゃ。やっておれん」「ぼくは元々あなたとは議論どころか、まともに会話ができると思ったことがない」「ケロッ⁉　ウソつけっ！　いつも夢の中でいじめてくるくせにっ！」

ここで、小径の片方が途絶えていました。目の前を見ると、ステファンの言った通り、火の玉がいくつも浮かんだ湖が見えます。ほほえは試しに右足を出して、湖の水面を見てみました。映っています。右足のローファーの、靴裏が見えました。水面に映ったそれを見ながら、ゆっくりと足を下ろしていきます。すると、向こう側の足の靴裏と、ピッタリ重なったのでした。体重をかけても、ほほえは湖に沈みません。それからはほほえは、一歩一歩、真剣に水面とにらめっこをしながら進んでいきました。しかし、湖の半分まで来たところでしょうか。だんだん慣れてきていましたので、気が大きくなったのです。ほほえは、水面の向こうに見える自分も、やはり同じ自分ではないかと思うようになりました。そしてふいに、大股に足を伸ばしてしまったのです。足を下した先の水面には、向こう側の足はなく、ほほえは危うくバランスを崩して、湖に落ちそうになってしまいました。なんとかその時は片足でバランスを保ちましたが、それからは冷や汗が止まらなくなり、もう一度、にらめっこを始めて、一歩ずつ、確実に歩くようになりました。湖は、一面真っ黒でした。この湖は、いったいどれほどの深さがあるのでしょうか。ほほえは、歩きながら目を凝らしていましたが、まったくわかりませんでした。

　湖を渡り終えると、その先には真っ黒な扉がありました。両開きの扉です。この世界に来てからは、すっかり障子に見慣れておりましたので、ほほえは扉を見て、なんだか新鮮な気持ちになりました。

「すみませーん、あの……」

と、ここまで言って、ほほえは固まってしまいます。この後何を言えばいいのかわからなかったからです。〈人間の者ですが、枇杷新法についてお話があります〉でしょうか。なんだか自分でも、アホみたいに聞こえます。ほほえは困ってしまいました。

パチンッ

指を鳴らす音がしました。見ると、扉から手首が生えていました。

　真っ黒の扉には、左右に一つずつ、金色の手首が生えていました。人間の手です。どうやらそれが、この扉のドアノブのようでした。右手が、左手を指差しています。左手はもう一度指を鳴らしました。

パチンッ　パチンッ

ほほえは、金色の手首に向かって言いました。

「あの、このお部屋にいらっしゃる、立法者さんにお会いしたいのですが……」

左手がこちらを手招きしました。ほほえが少し顔を近づけますと、今度は握手を求めるかのように、掌を差し出してきました。

「……」

ほほえも左手を差し出します。すると、いきなり手首を掴まれ、左右の扉が向こう側に勢いよく開かれました。グッと左手がほほえを引き寄せます。急にたくさんの光が目に入ってきました。しかし、眩しいと思う間もなく、左手によって、ものすごい力で部屋の中へと投げ出されます。視界の隅で、右手がこちらに手を振っているのが見えましました。しかし、次の瞬間、ほほえは明るい部屋の中へ、前のめりに倒れこみます。膝をついて、明るさに目を細めながら、手で視界を覆いつつ、ゆっくりと顔をあげます。するとそこには、ゆらりと細い、人影が見えたのでした。背後でバタンッと、扉の閉まる音がしました。

※下編は作者の気分次第で、次号月彩以降にて執筆、投稿します。　　　　　　　　　　　　　　　　原香