幕末維新の暗号05 三種の神器 | 旅行、美術館、書評

幕末維新の暗号05 三種の神器


(注)八咫の鏡について

八咫の鏡については、「見た人がいる」とか「私が見た」という話がある。
有名なところでは、「初代文部大臣の森有礼は伊勢神宮で八咫の鏡を見た。
そして、古代ヘブライ文字で<我はありてあるものなり>と書かれている
という秘密を漏らしたために、彼は暗殺されたのだ」という噂話もある。

佐伯好朗博士と「日ユ同祖」論 
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/jud.html



今日、偶然上記の噂話をみつけたのですが、伊藤博文らが、また南北朝を転換させていた
として、御所内での対応の苦労 は「幕末の維新」にも描かれていますが、
「三種の神器」はどうしたのでしょう。
昭和天皇が
米軍が伊勢湾に上陸すれば国体護持は難しいと独白録で述べられた

とういのは確かに興味深いと感じていたのですが、
まさか、伊藤内閣の文部大臣が「八咫の鏡を確認しようとしたとは驚きです。



[ 参考 ]

Yahoo Japan 知恵袋より

Q 天皇家は南朝?
ベストアンサーに選ばれた回答
現在の天皇家は血統としては北朝系に属しますが、明治天皇は神器の所在などから南朝を正統とします。

Q. 明治天皇と南朝イデオ ロギー
ベストアンサーに選ばれた回答
倒幕に対する思想的な裏づけであった「尊皇攘夷思想」が水戸学より出ていることによります
(水戸学だけがそのルーツというわけではありませんが)。

水戸学が生まれる発端は有名な水戸光圀の「大日本史」にあり、
の中で南朝が正統であるとされたいたため、幕末~明治にかけて南朝イデオロギーが
生まれたわけです。

そのためか、尊皇攘夷思想のルーツも水戸光圀に求める考え方もありますが、
実際に光圀が特に尊王だったということでもないようです。

三種の神器のありかをもって正統とするというのは、南北イデオロギーと
現実(今上帝が北朝である)ということの整合性をとるために強調されたのかもしれません。


質問した人からのコメント
みなさまありがとうございます。教えていただいたことをヒントに
さらに調べてみたいと思います。
ところで南朝正統が公定して以来、北朝である天皇の正当性は
「三種の神器」の有無にあると教育されていた昭和天皇にとって、
米軍が伊勢湾に上陸すれば国体護持は難しい
と天皇が独白録で述べられたことは実に興味深いです



以下、Wikipedia より
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三種の神器

天皇の即位に際し、この神器の内、

 鏡 と 剣  のレプリカ 及び

 勾玉      を所持することが

日本の正統なる帝として皇位 継承の際に代々伝えられている。

但し過去には後鳥羽天皇 など神器がない状態で即位したケースもあり、

必ずしも即位の絶対条件ではない。

三種の宝物とは、「八咫鏡 」・「八尺瓊勾玉 」・「天叢雲剣 」(「草薙剣」)のこと。

神器という言い方が一般化したのは南北朝時代ごろからと言われている。


南北朝時代

足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山 に逃れて抵抗するが、

足利方の和睦の要請に応じて三種の神器 を足利方へ渡し、

尊氏は持明院統光明天皇 を立て、建武式目 を制定して正式に幕府を開く。

後醍醐天皇は京を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、

吉野奈良県 吉野郡 吉野町 )の山中にて南朝を開き、

京都朝廷(北朝 )と吉野朝廷南朝 )が並立する南北朝時代 が始まる。


明徳の和約
この和約に従って同年閏10月5日ユリウス暦 1392年 11月19日 )、
南朝の後亀山天皇吉野 から京都 に帰還して、

北朝の後小松天皇三種の神器 を譲って退位して南北朝の合一が図られた。

八咫鏡
八咫鏡(やたのかがみ)は三種の神器 の一つである である

八咫鏡の所在には諸説あり、伊勢神宮内宮 に変わらず安置されているとする説、

宮中の内侍所(賢所 )にあったものが、平家滅亡の際、安徳天皇 とともに

ひとたび壇ノ浦に沈んだものを源義経八尺瓊勾玉 とともに回収したとする説、

平家滅亡前に他方へ遷したとする説などがある。


伊勢神宮の内宮に奉安されている鏡は、神道五部書 等によれば「八葉」と書かれており、

原田大六福岡県 前原市 にある平原遺跡 出土の内行花文鏡 と同じ形のもの

ではなかったかと推定している。

尚、内宮の鏡は、明治天皇 が見た後、封印されたとされる。


森 有礼
1885年 (明治18年)、第一次伊藤博文 内閣の下で文部大臣に就任
当時の新聞が、ある大臣が伊勢神宮 を訪れた際、社殿にあった御簾を
ステッキでどけて中を覗いたと報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。
この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な洋化主義者であった
森は人々から疑いの目が向けられる事となった。
この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件は
森が暗殺される要因の一つになった。


中川宮
八月十八日の政変により長州派公卿および長州藩が朝廷から退くと、朝彦親王は京都守護職松平容保 とともに孝明天皇の信任を篤く受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や倒幕・尊攘派の志士たちの強烈な恨みを買うことにもなる。

明治8年(1875年 )、久邇宮 家を創設。公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮祭主 を務めるなどした。

朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり、若年時には神社巫女 を孕ませるなどの、ませた逸話を持つ。還俗してからも子を多く作り、賀陽宮邦憲王久邇宮邦彦王香淳皇后 の父)、梨本宮守正王久邇宮多嘉王朝香宮鳩彦王東久邇宮稔彦王首相 )などをもうける。今上天皇 以下の皇族は香淳皇后 を介して久邇宮家の血を引いており、直系子孫にあたる。



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伊勢神宮に一言言及しておけば、もともと伊勢神宮は天皇にだけ参拝が許されていた、天皇だけの特別な神社だったと、ものの書物に書いてあったのを記憶しています。皇太子でさえ、伊勢神宮への参拝は許されていなかったのです。
もちろん、これは大昔の話で、江戸時代には庶民のお伊勢参りが流行になるほど、変遷はしています。
しかし、天皇に対する伊勢神宮の位置には、やはり特別なものがあったのではないでしょうか。

そして、維新後、この伊勢神宮の祭司となったのは、岩倉具視の仇敵ともいうべき、中川宮でした。
http://history.bbs.thebbs.jp/1168904464/173

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