主人公の記憶にいる父は、いつだってドラえもんと一緒だった。
有名な写真家であり、藤子F不二雄をこよなく愛していた父。
そんな父が失踪して5年。
主人公の目の前に現れてのは、不思議な1人の青年だった。
もくじにあった、短編のタイトルがドラえもんの秘密道具であったことから、私の想像では、文章も軽く、内容も浅く、余白の多い小説だと思っていた。でも実際読み進めると、そんなことは無く、主人公の内面や、人との関わり方の様子を、多くの語彙で記されていた。いったいどこから沸いてくるのか。前に『ツナグ』を読んだ時も思った。語彙が凄い。私だと「アレがさ、こうなってさ、そうなるわけ」で結果何も伝わらず終わってしまいそうな事柄や感情の説明を、語彙の少ない全ての人でも理解できるように紡いでいた。
(辻村・・深月・)
凍りのクジラを読みながら、私は初めて作家についてを考え始めた。
(私、この人の文章が好きなのかもしれない)
凍りのクジラを読みながら、私は初めて文章について考え始めた。
読書をしてこなかった私は、読書をしていなかった時、小説なんて誰が書いても同じだと思っていた。想像力の違いだけだろう、と。
しかし、この数か月、今までの人生でもっとも活字を触れているこの数か月で、今やっと気づいた。
誰が書いても同じではないのだ。
最初に読んだ。本を思い出した。『影裏』だ。純文学と呼ばれているそのジャンル。もし、影裏を辻村深月さんが書いたらどんな風になるのだろう。いや、そもそも、辻村さんは影裏のような小説は書かないだろう。
では、『むかしむかしあるところに、死体がありました』を辻村さんが書いたら・・・?想像が出来た。何て面白いのだろう。
凍りのクジラを読み終えた頃、私はGoogleで文章について色々なことを調べてみた。そしてたどり着いたのは『もしも文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』という本だ。
(え、何これ超おもろそう)
借りている本がまだあるというのに、私はすぐさま本屋へと向かった。
初めてだった。読みたい本がある、という気持ちを持って本屋へと向かったのは。
初めてだった。本を買いたい、と強く思ったのは。
自分の足で、自立した本への沼へ、やっと一歩踏み出した瞬間だった。
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またまたお久しぶりです。えぇ。12月頭に師走の如く筆を走らせる的なことを書きましたが、もう2か月たってしまいました。本当にすみません。2か月前の自分に言いたいです。「早く書け」と。「フジテレビAC祭りだぞ」と。「世の中はこんなに動いているのになぜお前は何も変わらないんだ」と。私もフジテレビに便乗して変化していこうかな、と思います(嘘)




