暇人の愚痴

暇人の愚痴

今思ったこと小さなことから色々な意見を

 これは架空の話です

 

 この話は、世界的にも欧州などでも大変なことになっており、先進化の問題として国が大騒ぎになっている話である。移民、難民などの雇用を探しに来る人たちでも大騒ぎになり、今のところそうでない日本でも労働力探しに躍起となっている。

 モノづくりなどでもその手となっている外国を探す日本も、逆に外国人で溢れる欧州などでも、これまでの植民地や侵略の非難、責任を問われ、一方人口爆発が収まらなかった途上国も怒りだしている。

 

 望んでも頼んでもいないのに、少子(高齢)化社会、時代に追い込まれた青少年たちの苦労、工夫がこれから始まる。ただでさえ、バブル崩壊、民主党分裂、社会党崩壊、自公政権の成立、デフレの時代など、いったい彼らの誰がそれを望んだのだろう。

 その原因となっている、日本の民主化の失敗、自民党の衰退などによって本来混乱の時代の無理な安定化は、一方で若者たちの社会流行を広げ一方でメデイアのその場しのぎの流行を呼び、日本の衰退が取り沙汰されることともなった。

 

 機械生産、物作りによる地球の破壊、自然の崩壊、環境の悪化などにより、そのれを収束させるポストモダンの考え方は、一体どういう人たちに本当に有効だったのか。マスコミなどで頭の中だけで語る人らには、解決ではなく絶望だけが待っていた。

 手作り町づくりの近世を飛び越し、中世の地球と向かい合う中代の時代となり、これまで欧州などの国家破壊や侵略、その後の指導においても、自分たちは後回しにされ侵略国の都合だけが優先されてきた。

 

 世界でも民族解放から民族独立の時代となるようなことが避けなれないという、評論家などの無責任な意見がマスコミでも流され、それにどう対処するかという世界合意を破壊する言動ばかりが流された。

 戦後編成の国家再生の時代をどう主導するのか、毎日が大変である。また宗教対立なども拡大し、多数の勝利を目指す少数を無視した安易な一方通行ばかりを見せられてきた。本当の平等、民主の時代を揶揄し、馬鹿にする意見ばかりが広がった。

 

 日本では、このポストモダンの問題を、経済に責任を取るのが政治だとか、一極集中を強め、公民の一体化を進め、政治家や そういう問題を、思想的環境的な問題を良くも悪くも軽視する姿勢を強めた。

 おまけに経費の削減、人件費の削減、リスクの削減など、大企業、国際企業などを優遇し、公務員の給与削減、中堅中流層の破壊、中小企業などへの攻撃を強め、地産を育てるなどの努力を放棄し、広域的な画一化を進めた。

 

 実際には平成の多様化などを否定し、地方や公務員の民化、削減などを進め、一部の企業の事だけを考え、世界を滅ぼす仕業である。特にそれが良くないのは、世界的に見ても、途上国ばかりでなく、世界中の人類に対する新しい侵略である。

 戦後昭和の物権の輸出社会から平成脱戦後債権の輸入時代へと変わり、しかし多くの地方では、いまだ古い市場や経済ばかりを押し付けられ、おいしい話を知らされていない。これまでの世界に対する日本の姿勢とは違う、いや反する姿勢となっている。

 

 またそのおかげで、広い範囲のチェーン店などが広がり、画一化した商品が日本に広がることにもなっていた。最近の転業、退職などによる起業家の拡大は、やっと日本の市場がいい方向に向かっている証拠である。

 それは青少年の恋愛不足、結婚不足にも繋がり、個性を抑え一般的な人間となろうとし 異性に対しても特別な関係になれないとする傾向の抑制が、一時はっきりと社会を覆っていた。

 

 当然少子化、高齢化の進展は早まり、小さな国を軽視し、国際的な企業市場を作り、意図的に現在現世の衰退を引き起こし、日本の国民さえ苦しい状態に置こうとした。特に問題なのは平成の野党さえ、長い間ぞれを事実上容認してきたことである。

 自分たちが与党化、正当化されるまでは、その状態を容認するまでは、無かったことにしようとしてきたことである。そのような国民の思想、言動さえ葬ろうとしたことを、僕たちも少しは知っている。

 

 我々が育った、そういうことを含んだ戦後時代の、大戦後の米国などの戦争などを、知らない世代にはそれでもいいだろうが、

高齢者などにとっては、それは残酷な進化の過程である。

 これらを引き起こしたのは、ソ連崩壊に対する安易な理解、政治、経済などや、非自民などのバブル崩壊などによる、本当の国民の苦労、仕組みを置き去りする労働組合などの統一など、薄い未来像だけの、平成志向の悪用である。

 

 もちろんこういう平成の思考でも、もちろん僕らよりは随分ましだが、悪いことをしているという意図の無い経済家、政治家などにとっては、処しやすい国民、社会を作るために、自治の破壊や連立の恒常化などの結果になってしまった。

 それを我慢する青少年たちに対し、経済至上という論理を拡大したマスコミなどは、多様化する政治という基本に対処するのではなく、それらを排斥、鎮静化することばかりの、マスコミになってしまっていた。

 

 もちろん今の若い人たちはそれに対抗しようとしたが、高齢者、会社員などを巻き込んだ旧世代の(非)常識ばかりがながれ、いつかは解決するだろうとい青少年の性善化ばかりを押し付けてきた。

 性悪化が中心となった僕たちや戦後世代は、悪人扱いが当然とする無法社会において、人口の調整にはそれなりの苦労をしてきた。しかし、この経済至上化は、急速な少子化を覚悟したかっこいい者という、性善社会ばかりが拡大された。

 

 このような少子社会が、欧州を飲み込み、一方で多くの(中堅途上社会の)国では貧困と人口爆発、環境破壊、市場の混乱などが進み、政治の本来の役目を越えた行政の民化を押し付ける傾向を生んでいた。

 こういう社会、状態では、少数のロボットと多数の動物が存在し、普通の人間が行う言動の排斥が多くなった。動植物の生きられない世界で人間が生きられ訳がない。生物的志向のできない未来論の欠点を、確実に反省しなければならない。

 

 世界で再び戦争が起こり、欧州の混乱や露米の衰退などを見、中国にみられるように多子化と少子作の混迷を見ていると、ポストモダンや物世界の混乱や反省などが、世界にとって発言力があるとは言えない。

 多くの平穏とは程遠い状況で、既に第三次大戦といった状況の後に、東アジアや日本などを巻き込第四次大戦が起こるという評論家さえ、一時は多く居た。

 

 生活のできない状態で、いくら平和や平穏を説いたところで、国が存続できるには、世界的な同意があり、国際的な支援がなければどうにもならない。

 物離れ、心社会などを建設するには、一旦戦後の欧州的国境を守る努力をし、しかし長い時間をかけて新しい国境を作る努力を世界的な同意と支援に向かう(古くて)新しい常識を広げる以外にないとも思える。