映画の話ではありません。

禅語の話です。

 

昨日の一日、なんとタイトルをつけようかと・・・

「日々是好日(にちにちこれこうにち)」この言葉が浮かんできました。

 

 

庭のフジバカマが満開です。

 

待っているアサギマダラはやって来ないけど

このこが一日に何度もやってきてくれました

カバマダラです。

 

 

 

天気のよい日だけが好日ではないけれど

 

晴れた空に赤い実が映え

 

 

雲ひとつない空

 

今夜のお月見が楽しみだ

 

 

 

ブルーシートで覆われた屋根がまだあります。

 

 

神社の木々も折れて枯れた枝が目立ってきました。

弱いところがやられて、新しく再生ですね。

 

野朝顔が精一杯咲いています。

 

 

 

 

落日の真っ赤に燃えた窓ガラスから

 

 

赤い光が差し込んできます。

 

 

 

外に出てみれば

 

私の好きな空のグラデーション

 

 

 

このとき、東の空には十三夜の月が昇ってきていました。

 

 

 

月見団子も、栗も枝豆もないけれど

 

 

自然がススキを用意してくれていました。

 

 

よい「後の月」を見ることが出来ました。

 

 

一般に私達が、今日はよい日だ悪い日だという場合、天気だけでなく、お金が儲かった・損をした、よいことがあった・嫌なことがあったなど、そんなものさしで判断します。
しかし、これは優劣・損得・是非にとらわれた考え方です。
それではたとえ、ある日幸運が訪ずれても、その後に来る不運に脅えなければなりません。
日々是好日とは、そんなこだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日

こうにち

なのです。
好日の好は好悪こうおの好ではありません。「嵐か、よし、嵐なにするものぞ!」、「失ってしまったか、よし、どうにかこれを改善しよう!」と、積極的に生きる決意 "よし" がこの "好" なのです。
禅では、過ぎてしまったことにいつまでもこだわったり、まだ来ぬ明日に期待したりしません。
目前の現実が喜びであろうと、悲しみであろうと、ただ今、この一瞬を精一杯に生きる。
その一瞬一瞬の積み重ねが一日となれば、それは今までにない、素晴らしい一日となるはずです。

(達磨寺副住職・広瀬大輔 さんの「禅語を味わう」より引用)

 

 

木霊が一杯写ってる!と思って調べてるうちに

草霊というものがあるのを知り

 

 

この本に出会って、読みたくなりました。

 

思いつくまま気の向くまま

これが私の好日です。

 

 

今日は掛け軸を「日々是好日」に変えましょう。