思わぬものを見つけました。城南宮http://ameblo.jp/kuukaisan/entry-11240015141.html


みつけたのはこれでした。



黎明(れいめい)


五月雨に築地くずれし鳥羽殿の いぬいの池におもだかさきぬ



与謝野晶子の歌碑でした。光ってよく見えないあせる



コレはどなたのでしょう。近くにあったんですが・・・


黎明(れいめい)


それと、駅から歩いたときに見たお寺のようなもの、

後で調べると安楽寿院(あんらくじゅいん)でした。


白河天皇陵もありました。


急いでいたので、写真を撮ってなくて残念ですが。



ドラマ平清盛、いよいよ、保元の乱へと話は展開していきますが


今日はすでに金曜日、一週間が早いです。



次の引用文を見ると、主な登場人物が顔をそろえておりますね。


ウィキペディアより

安楽寿院と鳥羽離宮 [編集 ]

安楽寿院は京都市南郊の伏見区竹田に位置する。付近一帯は平安時代末期(11~12世紀)、院政 の舞台となった鳥羽離宮 の跡地であり、安楽寿院は離宮内に営まれた仏堂の後身である。鳥羽離宮(鳥羽殿とも言う)は、応徳3年(1086年)、時の白河天皇 が退位後の居所として造営を始めたものであった。平安京の南に位置する鳥羽の地は桂川 鴨川 の合流点にあたり、交通の要衝であるとともに風光明媚な土地でもあった(当時の鴨川の流路は現在よりもずっと東寄りであり、鳥羽離宮は桂川と鴨川に挟まれた土地に位置していた)。現在の近鉄竹田駅 名神高速道路 京都南インターチェンジ 付近が離宮の跡地で、東西約1.2~1.5km、南北約1kmの範囲に御所、庭園、仏堂などが営まれた。最初に営まれた御所は後に南殿と称され(現在の鳥羽離宮公園がその跡)、その後、北殿、泉殿、馬場殿、東殿、田中殿などが相次いで建設され、白河・鳥羽・後白河の3代の院政の舞台となった。

鳥羽離宮の各御所には白河上皇および鳥羽上皇によって仏堂が営まれた。最初に造営された南殿に付属した仏堂は証金剛院と呼ばれ、以下、北殿には勝光明院、泉殿には成菩提院、東殿には安楽寿院、田中殿には金剛心院が造営された。鳥羽離宮内の他の御所や仏堂が跡形もなく滅びた中にあって、安楽寿院のみが(建物は近世以降の再建であるが)、21世紀の今日まで法灯を伝えている。

創建 [編集 ]

前述のように、安楽寿院は鳥羽離宮東殿に鳥羽上皇が営んだ仏堂(本尊は阿弥陀三尊)が起源で、創建は保延3年(1137年)のことである(鎌倉時代の史書『百錬抄 』による)。当時は安楽寿院という寺号はなく、単に御堂と呼ばれていた。安楽寿院の名称の文献上の初見は康治2年(1143年)である。阿弥陀堂建立の2年後の保延5年(1139年)、右衛門督藤原家成 によって三重塔が建てられた。後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に落飾して法皇となる)が保元元年(1156年)に没した際にはこの本御塔が墓所とされている。現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。その後久安4年(1148年)頃には鳥羽法皇の皇后美福門院 のために別の三重塔が建てられ、こちらを新御塔と称した。なお、美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇 が葬られることになった。

安楽寿院には、他に九体阿弥陀堂、不動堂などが建てられていたことが記録から知られる。九体阿弥陀堂は前述の阿弥陀堂に対して「新御堂」と呼ばれ、久安3年(1147年)、民部卿藤原顕頼 によって建てられた。安置する九体阿弥陀如来像は鳥羽法皇の病気平癒を祈って仏師長円に造らせたものであった(『百錬抄』による)。一方の不動堂は、久寿2年(1155年)藤原忠実 によって建てられたもので、仏師康助 作の不動明王 像を安置していた(平信範 の日記『兵範記 』による)。現在、安楽寿院の近くにある北向山不動院の本尊不動明王坐像がこの康助作の不動像であると推定されている。

安楽寿院には日本各地の膨大な荘園 が寄進され、これらは安楽寿院領(後に娘の八条院暲子 に引き継がれて八条院領 と称される)として、皇室(大覚寺統 )の経済的基盤となった。