先週より頭痛と吐き気で完全ダウン。

何をしても回復せず、
もしかしたらコレ永遠に続くのかしらという気にさえなっていた。
なんだかつわりの時が思い出された。

今日はようやく回復し、
ずっと気になっていた網戸の張り替えに着手。

暑さに耐え兼ね外に出たがったニャンコが豪快にバリーンと破いて飛び出てしまったのだ。

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マンガとかでよくある

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こういうシーン。

初めて生で見た。

なかなかに痛快ではあったが、いかんせん網戸としての役割を全く果たさなくなってしまったままでは日常生活に支障をきたすので、張り替えは急務。

ついでにやはりニャンコがマイ通路穴を開けてしまった障子も張り替え。

これでようやく今日からは心穏やかな夕べが過ごせるようになった。

やはり人間健康第一だ。


今回体調回復のきっかけとなったのは、エンヤだった。

以前勤めていた職場でBGMとして流していたので、ちょっと食傷気味で、ずっと聴いていなかったが、何故か突然聴きたくなり、アルバムをダウンロード。

澄んだ歌声が弱った身体にめちゃくちゃ染み入る。

改めて、エンヤ、スゴい。
ふつくしい・・!

大袈裟でなく、自分の中が浄化されていく感じ。

実際体調もそれから回復方向にむかった。

音楽って、実はすごいギフトなのかも。




頭痛の治まってきた昨晩、
ひとつの思いが浮いてきた。

ずっとずっと当たり前だと思っていた、
自分の人生の舵取りを自分がするという事が、
まるで身分不相応な出過ぎた真似であるような感覚。

それ、どうやらちっとも当たり前じゃないと、気づき始めてはいたけど。

私、こんな感覚、一体いつから持っていたのだろう。

全ての人々が、そして魂が、心から幸せであるようにと、ずっと自分なりに祈ってはいたのだけど、
大前提として、自分自身は決して現実的な豊かさを手に入れる事はできない運命であり、
世の中にに対して物質的な豊かさの還元などはできるはずもない存在で、
その中で自分に出来るのは祈る事位なのだという、強い確信。

そんな世界感を創り出していたのは、実は他でもない私自身だったというのが、浮き彫りになって見えてきた。

ああ、私は自分の創り出した世界感の枠の中で、自分なりに一生懸命だったんだな、というのが客観的に見えてきた。

その中で、どこか感じていた違和感。

それはその自分に課していた制限のせいだったという事なのかな?

これだけメディアが発達して、世界中の情報がリアルタイムで手に入る環境にいて、でも私の生きてる世界は、結局私の創り出した思い込みの中だった。

ということは、実は世界ってもっと広くてもっと自由なのでは?

そしてもっと楽しいのでは?

そんな気はするけれど、
私がちゃんと納得できない事には頷けないんだよね。

でも、もし納得できて、実践できたら?

それを、誰かにレクチャーできるようにもなるんじゃないかな?

そんな事ができたら、すご~く嬉しい!

ていうか、私の目指すヒプノセラピストって、まさにそういう仕事かも。


傲慢になる事のないように気をつけながら、私はもっと私の事をを信じていこう。

誰かの意に沿うようにとか、
誰かの意にそぐわぬ事のないようにとか、
そういうの、とりあえず、置いといて。