一昨日の仕事中、母から、叔母が急逝したとのメールがきた。

私も数日前にメールを交わしたばかりだったし、母は、亡くなったと思われる時の直前までメールのやりとりをしていたそうだ。

信じられない。

きっと母はなおのことだろう。

とてもパワフルな人で、大きな手術を乗り越え、元気になった人だった。
体調の悪い旦那さんと娘さんのために献身的に働き、その中でしっかりと自分の趣味も楽しんでいて、いつも豪快に笑っていたのが印象的だった。
きっと家族の中の太陽のような人だったのだと思う。

私の母をいつも気遣ってくれて、旬の美味しいものや健康食品などを、まめに送ってきてくれていた。
母は、「お互い健康で長生きしようね」と、いつも言われていたそうだ。

苦しんで亡くなったのではないようだけど、叔母のあの豪快な笑い声は、もう聞く事ができないのだ…

死は終わりではないけれど、
残された者たちにとっては、
やはり、いなくなってしまうということだ。

まだ半分信じられないでいる脳に、それを認めるよう促してみる。
が、実感が湧かない。
やはりまだ信じられない。


ふと、谷川俊太郎さんの詩が浮かぶ。

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ


今まで、どこかよそよそしいなと感じていた文章。
何故か頭の中にこの詩が流れた。


母は翌朝早く東京へ発つ事に。
私もその日は早目に帰宅し、母に詳しい話を聞きながら夕食をとった。

冷凍餃子と冷凍担々麺の簡単ご飯だったが、皆で「これ、結構美味しいね!」と言いながら食べた。
TVで嵐の特番がやっていて、面白おかしいシーンが流れ、みんなで笑った。


ああ、これ全部生きてるってことなんだなあ~
死んだらこういうのなくなっちゃうんだ…
なんだよ!そんなに楽しい毎日だと思ってなかったけど、なくなったら超さみしいじゃん…!
コレが噂の何気ない日常のありがたみに気づいたってやつか…?
もしかしてコレが「生きてるって素晴らしい」ってやつなんじゃないの…?


家族と話しができる。
ただそれだけの事が愛おしく感じた。


叔母さんに対しては、もう、ただただ感謝。
ちょっと急だったんじゃないですか?!
とは思うけれど、
本当に、ありがとうございます。
と、心から思う。


擦り寄ってきたニャンコを抱き上げる。
ずっしりした重みを感じる。
お日さまの匂いがする。
このコは生きてる。
そして私も。



あなたの手のぬくみ
いのちということ