キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる
戦争や地震、災害などあるから、神も仏もないと思う人も沢山居るかもしれない。
それと、もしも、神様と繋がれないと思うなら、それは、キリスト教の洗礼を受けてないからかもしれない。
↑これを書いちゃうと、だから、クリスチャンは、選民意識強いんだよって、思われがち。
でも、水で洗礼を受けるのは、確実な道だ。そこで、神様と繋がれる。
でも、聖パウロは、イエス様を迫害する立場だったのに、イエス様に選ばれたのだ。
聖パウロは、ユダヤ教の人としては、立派な人だったからかもしれないが…
そもそも、イエス様は、キリスト教を作るつもりではなく、ユダヤ教を改革?もしくは、曖昧な点を教えていただけで。
ユダヤ教の司祭や律法学者達が、自分達の教えと違うと自分達の立場が危うくなるので、邪魔者として抹殺されたのだ。
イエス様は、簡単に言えば、現人神なのである。
地球を救う為に、ユダヤ教でも、預言者達が、救い主が生まれて来て、救われると聖書に書いてあって、
救い主は、生まれてくるが、悪い人達に、殺されてしまうが、本物の神であり、人であるイエス様は、殺されても、3日後に蘇ったのである。
キリスト教は、何を信じているのかと言えば、イエス様は、ユダヤ教で約束された救い主で、神の子である。
そのイエス様が、教えた事を信じて、十字架に付けられても、3日後に蘇ったのは、何を示しているかというと、
普通の人間なら、死んだら、蘇らない。イエス様は現人神なので、死んでも、蘇った。まさに、ご自身は、神の子であると証したのである。
十字架は、処刑されたから、失敗と思う人も多いと思う。でも、死なないと、蘇る事が出来ないからとも言い換えられる。
死で終わるのではなく、蘇った事で、死、そのものは、終わりではなくなったのである。
キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる」
でも、神様は、自由意志を人間に与えているから、神様に従わない人もいるわけで。
洗礼すれば、間違いなく、神様と繋がれるが、それが絶対条件ではない。
もしも、神様に繋がれない人が居るとしたら、それは、神様からは、近づいてくれてるのに、それを拒否しているからだと思う。
拒否?してないよというかもしれない。
まず、神様に話しかけることである。話しかけると返事がいつかはもらえるだから。
教会に行かなくても、自分一人で、神様とおしゃべりを始めたら、それは立派な祈りなのである。
キリスト教でいうお祈りとは、私が教会で教わったのは、良い子ぶった内容でなくてもよいというものだった。
人は、良い心の時も悪い心の時も、あるかもしれない。
日々の辛い気持ちとか、そのまま全て、神様にお話するのが、嘘偽りのない祈りなのです。
その時に、愚痴みたいなお祈りであっても、助けてほしいみたいな嘆願のお祈りであっても、その対象が間違いなく、イエス様であるなら、神様に繋がるのである。
三位一体の奥義という教えがあって、神様は、1つだけど、3つの異格があるというもので。
御父(創造主)と御子(イエス様)と聖霊(神の息吹)である。
カトリックでは、お祈りの前と後に、十字架を切って、ちち と こ と せいれい によってアーメンと唱えます。これが、神様と繋がりやすくなります。
もしも、神様が見えなくても、声がきこえなくても、
何らかの答えは本人に分かるように来ます。
信じるのが信仰です。