豊臣秀吉が1592年と1597年に朝鮮に行った戦争は、日本の教科書で習うような “小さな軍事遠征” ではありませんでした。日本では「文禄の役」「慶長の役」と呼ばれますが、この「役」という言葉は政治的な行動として中立的に表現する語であり、一般には「侵略」や「戦争」と直結しません。そのため、実際に起きた人間の苦しみが軽視される傾向があります。しかし、歴史の事実は非常に残酷です。
当時の日本軍は、村を焼き、多くの民間人を殺害しました。朝鮮側の戦死者は軍人を含めて18万5千人に上り、飢饉・疫病・避難による間接死を含めれば、最大で100万人に及ぶ可能性があります。
さらに、約5万〜6万人の朝鮮人が日本に強制連行されました。連行された捕虜のうち、わずか10%強、つまり約7,500人だけが戦後に朝鮮へ帰ることができました。残りの約9割弱は日本に残り、選択の余地なく生活せざるを得ませんでした
男性は陶磁器工房や建設現場で強制労働に従事させられ、女性は家事労働や遊郭での性奴隷のような扱いを受けました。女性のほうが帰還できる率が遥かに少ないのは遊郭などにすでに売られたためでした。
日本では、これらの事実はあまり教えられません。教科書では戦争の背景や政治的動機、戦略の話に重点が置かれ、民間人の苦しみや捕虜の運命はほとんど触れられません。そのため、多くの日本人はこの侵略の悲惨さを十分に理解していません。一方、韓国ではこの戦争は「壬辰倭乱(Imjin War)」として教えられ、破壊、虐殺、捕虜の拉致、義兵や李舜臣の英雄的抵抗などが詳細に伝えられます。
戦後、対馬の宗義智は、日韓関係の修復という非常に難しい任務を背負いました。対馬は朝鮮との外交・貿易の窓口であり、国内では豊臣、徳川政権への忠誠を求められる一方、朝鮮側との関係修復も求められる立場にありました。
宗義智は、豊臣秀吉の死後、朝鮮に使節団を送り、謝罪の書状を提出しました。また、可能な限り捕虜を返還し、貿易や外交関係の再構築に尽力しました。
しかし、これは日本政府全体の正式な謝罪文ではなく、対馬を通じた関係修復の意思表示でした。それでも朝鮮側は、長く根深い怒りを抱きながらも、現実的に国を守るために関係を受け入れました。
私は、現代の日本人が当時の戦争犯罪の責任を負うべきだとは思いません。しかし、当時の朝鮮の人々の苦しみを 正確に認識し、対馬が果たした外交の役割を認識し、歴史の事実を正しく学び、共感すること は、重要です。
言葉の選び方ひとつで、歴史の重みは大きく変わります。