捨てられない②
江ノ島みやげ
失職した父が、九州・佐世保に職を得るまでの1年半ほどは、横浜・鶴見の、父の姉一家の留守宅にひと間を借りて住み、私は、末吉小学校に通った。
1、2年生は2部授業で、午前組と午後組に分かれていた。
教科書は、国語しかなかったのではないかと思うが、紙っぺら1枚渡されて、自分で折りたたんでカットし、糸と針があれば綴じつけるのだった。まだ、カタカナで始まっていた。私は、当然、栄養失調で、途中から入ったクラスになじめるはずもなく、よく休んでもいた。
担任は尾崎先生、というお名前だったと思う。若い女性で、静かに気を使ってくださっていた。クラスに1枚、当時スフと呼ばれていた、薄っぺらい弱い布地の下着が配給になったりすると、まわしてくださったりした。
記憶では、栄養失調からくる微熱が続いて、遠足に参加できなかったのだが、思えば1、2年生に、電車に乗るような校外活動があったとは思われない。先生がプライヴェイトで行かれたのだろうか、江ノ島みやげ、と言ってくださったのが、この、素朴な、貝殻細工の帆船である。どんなにうれしかったか、それからの10何回かの引っ越しでも、行方不明にもならず、今も、埃だらけになったりしながら、どこかの棚に置かれている。
いつかお礼を言いたい、と何かの折には思い出しつつ、すでに80年が経ってしまった。
捨てられない①
ふくろ
もうよれよれになって、パラリと崩れそうな、縦14✖横21センチ、大きめな懐紙入れほどの袋である。
昭和21年8月、6歳の私は、父母と、18歳の姉・15歳の兄とともに、旧満州の新京(現在の長春)から、無蓋の貨車に乗せられて、日本へ引き揚げる長い旅をした。その時、おそらくは旅券のような身分証明の書類があったのか、母が、日本人形の帯地(本体は、道中で水を買うためのヤカンと、指定されたわずかな現金以外はすべて残してきた、そのなかにあったのだろう)に、もみ裏をつけ、脇を黄色い刺繍糸でかがった袋を作って入れてくれた、そのふくろだ。生れた地から唯一持ち帰った物である。
左下に、本籍地や名前を墨書したさらしの布が縫い付けてある。引き揚げの混乱のあいだに、万一はぐれて泣いていたら、日本政府は、この本籍地に照会ぐらいはしてくれただろうか。そこにはすでに、誰も住んでいないのだったが。
船で博多に着き、そこからは汽車で品川か東京駅かに運ばれ、埼玉県・浦和に疎開していた母の実家から、叔父が迎えに来て、ホームで待っていた。叔父たちは慶応の学生で召集され、まだ軍服姿だった――というか、焼け出されて、私服などなかったろう。
母のほっとした気持ちが、私にも伝わった。
着いたその日だけは、祖母が白米を炊いてくれていたが、そのおいしかったこと!そのあとは麦になり、居候が5人も転がり込んだのだ、じゅうぶんな量があるわけもなかったが、しばらくして、柔らかく炊いた麦の味に慣れたころには、旅の間の紅い高粱(コウリャン)や黄色い粟の味は、忘れてしまった。
八条院の12世紀㉘
八条院の12世紀㉘
1185という年は
1185年は、大きな事件の多い年だった。
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政治的には、源頼朝が、守護・地頭を設置する権限を、後白河院に認めさせたことから、鎌倉時代の成立を、この年、と考える歴史家も多い。
イイクニツクロウ、は、過去の記憶法になった。
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寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで、平家一門が滅亡した。
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平家滅亡に、大きな役割を果たした義経だったが、6月、兄・頼朝の怒りを買って、腰越に留められた。
心情をつづった腰越状を書いたのがこの時、と伝えられる。
頼朝義経おん仲不和にならせ給ふ、である。
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これは、義経が戦闘に強すぎたので嫉妬された、とか、後白河院に近づきすぎたのできらわれた、とかいう感情問題ではなく、頼朝が目指した新しい社会構造<東国ピラミッド>を、義経が理解していなかったからだ、と永井路子は分析する。
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「手柄は上へ、恩賞は下へ」という「今日ではどこにもあるあたりまえのシステム」は、頼朝が意識し、初めて明確な形で、鎌倉において、この時出来上がった。
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義経は、朝廷から地位や褒賞を受けるのは家の誉れ、と古代的に考えたが、頼朝は、成立しつつある新しい組織構造、つまり「手柄と恩賞でつながった有機的ピラミッド」を、義経が理解できず、逸脱したので激怒したのだというのである。
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頼朝方式は、「東国武士団の間に無益の摩擦を起こさせまいとする配慮が働いてしぜんに生まれた方式であって、頼朝が強引に作り上げたものではない。東国武士団が共存の知恵として、頼朝に其の権利を預けた…こうした調停役を置くことによって東国ははじめて一本にまとまったのだ」と永井路子は書いている。
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8月6日正午ごろ、京都一帯が大地震に襲われた。(文治地震)
地割れが走り、液状化によって水が噴き出した。
兼実も、御所に駆け付けたが、寝殿は傾き、北の対が避難所になっていた。
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八条院は、御所に向かうため牛車に乗っていたが、東洞院の庭に降りたったという。
八条殿の被害も大きく、このころ同居していた式子内親王は、北の対の前庭に仮屋を建てて住んだし、半年後になっても、八条殿は、後鳥羽天皇の方違えの御幸場所の候補から外されている。
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そんな中でも、この年、後白河法皇を導師として行われた東大寺の大仏の開眼供養には、八条院も出席している。
1180年に平重衡の軍勢が焼き払った南都東大寺大仏殿の復興は、翌81年から、周防国を東大寺造営料所にあてて、熱心に進められていたのであった。
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翌1186年、京に戻って朝廷に出仕していた平頼盛は、引退した後、八条院に近い室町の自邸で亡くなった。
母・池禅尼の、将来を見通した2つの判断を理解し、みごとに生かした息子であったと言えるだろう。
(「八条院の12世紀㉙」につづく)

