「私をみなさんのお母さんにしてください」という言葉に喝采を送る人たちには、二重の意味で驚きました。「現に、あなたには母親がいるのに(いない人もいるでしょうが)、赤の他人に何を求めるの」とも思い、現に居る母親はその名に値しないと思う人が少なくないのかとも思いました。

 後者の方は実は私の感覚なのですが、別の母親を求めても現状はかわらないと思います。そのつど裏切られ、次から次へと、無限の母親探しになるのでしょうか(私は早々に「探す」ことをやめました)。

 

 私にとって母親は常に私を「支配」しようとする存在でした。同じような感覚を鶴見俊輔さんや岸田秀さんが自分の体験として書いていて、それで私は鶴見さんや岸田さんの本に大きく影響を受けたのではないかと思っています。

 また〈2023.6.24「私の大学生時代/学生運動の時代(2)」の註〉にも書いたことですが、「京都」の「代々医者家系」という環境が息苦しかった(東京の大学に通った時には、「脱出」できるとほんとうに嬉しかった)。

 母親(母性)や(自民党の人が好きな)「家/家族」というものが苦手なのは、この個人的体験ゆえだと思います。

 

 「家族は国からも他者からも侵入されないユートピアなどではなく、もっとも明確に国家の意思の働く世界であり、もっとも力関係の顕在化する政治的世界なのかもしれない。」(信田さよ子『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』角川新書2021)

 「家」「家族」にこだわり、夫婦別姓を認めない政党があるのは、ある意味で当然です。

 

 「親を捨ててもいいですか?と聞かれたら何と答えますか」と問われた信田さんは「捨ててもいいんじゃないですか、と答えます」「そう言ってくれる人がいないからです。だからカウンセラーくらいはそう言ってあげてもいいと思います」とも言います。(NHKクローズアップ現代2021.5.6)

 

(この信田さんの言葉は〈2023.4.21「子ども庁から子ども家庭庁へ」〉〈2023.8.24「家族っていい」??(1/2)〉〈2023.12.18「自己決定という言葉(3)「みんなで話し合って」?」〉などでも引用しました。)