こうした報道が出るたびに多くの賛意がSNS上に寄せられます。医療関係者からの賛成意見も少なくありません。「激しい疼痛」を「見ていられなかった」という人(身内の人の場合も医療者の場合もあります)。「経管栄養/胃瘻」で、意識もなくただ寝かせられている人を見ていられないと言う人。

 でも、それは「死」でしか解決できないものなのか、医療者の場合には自分がどのように関わっていたのかについてはあまり書かれていません。

 

 尊厳死や安楽死を肯定する報道や議論では、「耐えられない痛み」の例が挙げられがちです。確かに、それは「辛そう」。

 けれども、このような事例から「いつの間にか」、現に身体的な痛みがさほどなくても予後不良の病気(ALSのように)であることでの精神的な苦痛、さらには鬱など心の病の苦痛へと、敷衍されつつあります。子どもでは、たくさんの先天的な疾患や(無脳児をはじめとする)奇形、染色体異常、障害児。

 

 「ただ栄養を補給されて、意識もなく寝ているだけなんて悲惨だ」と言う人がいっぱいいます。「・・・・が出来なければ」、「・・・・こんなふうになっては」生きている価値がない。こんなふうになって生きているのは「みじめだ」「情けない」と、他人が言うのは傲慢です(当人が言うのも傲慢さを免れないと思います)。

 

 でも、その「忌避している」形で現に生きている人がいますし、そのような形で生まれてきた人がいます。その存在を「見ずに」(目を逸らして)生きていると、そうした人の存在をひとまとめに否定している/踏みにじっています (自分のことだけ言っていると言っても、そうはいきません)。

 

 「意識がなくなり“治る”見込みがなくなったら」「“正常な”思考ができなくなったら/「わけがわからなくなったら(認知的障害)」生きていても仕方がないという思いから自分の未来の治療中止について語る人がいます。それは、現在の自分の考え/想像で未来の自分の生き方を決めてしまう「セルフ・パターナリズム」です。(〈2022.4.25〉に書きました)。

 

 人によって思い浮かべる状態が違います。現に見聞きした人と想像で語る人とでも違います。当の患者さんとの関わり方によって違います。それなのに、未来を決めることができるでしょうか。

 これまでは「正常」「まとも」な思考をしてきたという自負がそこにはあるのでしょうが、それは「確か」でしょうか。その時はその時なのです。

 

 「尊厳死」という言葉について、私はずっと以前から不思議な気がしています。そもそも「死」に尊厳なものと尊厳でないものとを分けることがおかしい。どのような「生―死」も尊厳なものだというところから足を離すべきではないと思います。

 「そのようであっても生きていてほしい」と思う人がいます。それを「家族のわがまま」などと「切り捨てて」良いのでしょうか。

 

 「命って限りがありますけども、この・・・1日長く生きたからといって、変わらないじゃないかなと思うかもわかりませんけども、1日長く生きることによって、本人は分からなくっても、家族はすごくうれしいことだと思うんですね。私は妻と母を亡くしましたけども、やっぱり少しでも長く生きてほしかったし。まあ、世の中にはいろんなお医者さんがおりますけども、やっぱり患者さんに寄り添って、そして患者さんの命を何としてでも救おうという、そういう強い意志を持っているお医者さんになってほしいと思いますね。」(「最後の講義 落語家 桂文枝」NHK Eテレ 2024.3.20/医師・医学生への講義)

 

 「患者さんの命を何としてでも救う」ことが、「強い意志を持」たなければ難しい時代が迫ってきているようです。