生きてます。

 

なんか枕詞に「生きてます」を連呼しているのだがまあそういうスタイルでしばらくいこう。

いつまで書くかわからんが。

 

ハイパー頭が勝手に回転して、思考が止まらねえー(自律神経失調症なもんで)となって、案の定、すげえうなされて困ったのだけど。そのときに、勝手に進んでいった思考が「日本語がわからんよ、ってか日本語を話す、解す自信が自分にはないなあ」という事に関する思索でして。

 

 

ツイッターがしんどい。ってのがあって。これは僕の体調が悪いので、余計に特にヘイトやら皮肉になっていない悪口がRTやらでまわってくるので、しんどさが増しすぎた(色々設定してミュートなりすればいいんだけどそれでも限界はある)のかなあと思ったんだけど、内容ではなく、日本語を使っているんだけど、自分と日本語に対する認識と使用の仕方が違いすぎて、そこで混乱して疲弊してるのかなあとか思ったわけで。

 

社会言語学の用語というか概念に「言語変種」というのがあるのだけど、これは、ざっくり言えば、同じ言語であっても、特定の集団・地域・所属する文化圏で、言葉が変容しているというもので。

いわゆる、隠語であったり、語法というか、ネット構文とかあるように、特定の集団内で共通して通じるものとしてハイコンテクスト化していったものとかそういう風に考えればいい。

 

で、相手の使っている日本語が、日本語なんだけどわからないストレスが、ツイッターを使ってると生じやすいのかなあと思ったのが、今朝方のこと。

 

 

とある人のバズったツイートを眺めていて、なんとはなしにツリーを見ていったら、トンチンカンなリプライがあって、ツイートの内容が、当該ツイートと対応していなくて、それに対して、誤解があるといけないのでと、補足ツイートをしているのを見て、ああこれか、ここの混乱と、誤読というか、伝達自体が同じ言語のはずなのにできていないというズレが、しんどくなるところなのかなあと。

 

そりゃ、よく考えたら、日本語はめんどくさい。他の国の言語はわからんが、とりあえず、日本語は厄介。

ひらがな、カタカナ、漢字の三種を表記に使うのは、まあいいとしよう。

が、文語体と口語体の不一致、テメーはダメだ!ってのは未だにあって。

そりゃ、明治政府ができてから、國語を作ることで、統一を!と言文一致運動により、標準語という國語を作ったのはさもありなんなんだけど、じゃあ、完全にそれができているか?できるか?というとそうではないわけで。

 

 

古典を読むために、そりゃ昔の文語体は残るし、実際古典を読まなくても、日常生活で使ったりもするわけである。

 

 

 

和漢混淆体は、まあ、今の言葉に近いしわかるんだけど、候文であったり、和文体、宣命体なんてのは、わりかし口語でも文語でもいまだに使ったりする。

だって、俳句とかの〜けりとか 時代劇作品とかで 〜で候とか 神道の祝詞で万葉仮名を使ったものは未だにあるし、結構使う。

つかうよね?ってか触れることは多いし、なんとなく意味はわかったり、自分でも気まぐれに使ったりすると想う。

 

口語に至っては、もっとわけがわからなくて、そも残らないのでわからない。今は…多分、動画配信で残るんだと想うけど、そこで、いや、多分話下手とか説明下手とかで再生数が伸びないとかそういう人は、淘汰されるというか、かったるい動画(口語による説明、しゃべりの魅力)がなけりゃやっぱり見ないし(というかそも僕はユーチューバーとかの動画を見ないのでそのへんよくわからんので推測。)

 

 

で、ツイッターでの日本語が互いに通じないという話に戻る。

上記のことを踏まえれば、そりゃ、当然だよなとなる。だって、全世界に(仕様上)発信されたものが、カジュアルにRTでひろがって、普段接しない文化圏・生活圏・価値観グループの人の目に入り、なんか反応したとして、そりゃ、そもそも住んでいる世界が違う≒同じ日本語を言語の根幹としていても、用法がぜんぜん違う。ってなると、そも情報を正確に伝達する前提としての、インフラとしての言語として共通項がなさすぎるってなるので。

 

このあたり、多分、見ているだけでも、言語とコミュニケーションの不協和ってのが感じられて、それがストレスになるんだと思って、それがツイッターが(自分にとっては)しんどくなった理由なのかなあーとか、暴走する思考がひたすら考えてた。

疲弊しまくって悪夢マシマシでしんどかったよ…。

 

 

特に、口語寄りに筆記するってのが、ツイッターとか、こういうブログでもそうなんだけど、そんなに文語体というのは意識してないと想う。ってか僕は意識してないと言うか、だらだら打鍵している。なので、たまさかこのブログを読んだ人も、「何いってんだこいつ」となると想うし、それも当然だと想う。

 

 

「果たして、自分は日本語を喋れているのだろうか?書けているのだろうか?理解できているのだろうか?情報伝達手段として成り立つだけの理解があるのだろうか?」

 

 

というのが、今回悩んだところでして。

 

これが、正しい日本語ってのがあったとして、それができたとしても、相手がそれを解していなければ伝わらないわけで。どこまでいってもディスコミュニケーション。すれ違い。話が通じない。明後日の方向に向かうというのは、脱線としてもツイッターで延々やりとりをしている人を見ているとよくある話。そりゃだって違う言語で話しているようなもんだもの。

 

 

あと違う常識。人によって、常識とされる物は違うし、でもそれをなんとかするのが他者理解のための勉強という教養なんだけども、そんなの日本語をよっぽど真剣に言語学として相対する人じゃないと、詰めて考えないんじゃないかなあ…というかそんな暇もないし、自分の生存圏では通じるのだしいいやってなると想うんだけど、ツイッターだと、ぜんぜん違う普段の生活では到底出会わない世界、生存権で生活して、そこに適して変化した言語を使っているのだから、お互い、わけが分からなくて当然だよねとなる。でも同じ日本語を使ってるのになんで…?ってなるから混乱するのだと想う。

 

 

そのへん、言文一致運動前の文語体、口語体の乖離とか、あまり意識してこなかった自分が居て、他の人もそうなのかなと想うとそりゃ不思議に思うんだけど、よくよく國語の授業とか、言語学に触れて、シニフィアン・シニフィエ、想像と象徴をどう付して、どう共通のものとして、記号なり、口述なりでそれを意味するものとして、コミュニケーション手段にするのか?というのを見ていけば、そりゃ当然じゃん。なんで今まで意識してなかったんだ自分…ってなる。ってかなった。

 

 

長々と想うままに打鍵しているので、特に話のオチもないのだが…。これも、僕の日本語がどれだけ使えているのか?理解しているのか?伝える努力をしているのか?というのが問われているわけだけど、このへんは、雑文だし、まあいいやと開き直っているところはある。

そりゃ、しっかりした記事や論文・説明書を書くとなったら、しっかり構成とか、誤解を招きにくい表現をするだろうけども。

 

これは、自分が小説を書く際にも思っていて、やはり、これ、通じるのかなあ…変えたほうがいいよなあ…ってのは迷いとしてあるわけで。でもそれが表現の一つであったりもするわけで。

そのへん、うまいこと落とすのが、プロとアマをわける分水嶺・表現技術なのだろうなあと想う。

 

 

ここんところ、そういうのを特に意識していなかったので(何分病状が悪化して、それどころではない。早く小説も音楽もなにもかも取り掛かりたいが、日常生活すら一人では成り立たせられないので、歯がゆいのである)

今更ながら、「日本語がわからない自分と他人」というのを考えないと、その不協和に予め耐える、予想するというのができないので、ノーガードでパンチを食らうようなものだから、そりゃしんどいわって思った次第。

 

そんなこんなで。

おわり。

 

 

 

 

追補、ここまで、忍耐強く読んできた人はいるか居ないかわからないが…、ほんとにこのブログの文章も、雑文で、「ですます調」や、「〜である、た。」とか、全く揃えてない文章で、文語としては、悪文とされるのだけど、特に意識せず読めることは読めるって感じで読めたと想う。

でも、やっぱりこれ、言語のルール的にどうなんだろう?例外がおおすぎるんじゃないか?言語変種というか、文のコラージュ・カットアップとかの違和感・面白さのそれなのか?いや、でも大体の話の輪郭はわかる…かな…。みたいになると思う。

 

この辺、「日本語の乱れ」なのか「日本語のゆらぎ」なのかわからんし、言語はどんどん変わると言っても、いやーどこまで同じ言葉でコミュニケーションを取れると思っている他人が、もしかしたら全然その言語に対する認識が違って、ディスコミュニケーションの方が多いのでは…とか考えると、いやーぞっとするというか難しいねってなった。

 

 

追補2

ここまで読んだ酔狂な方はきっと雑文でも読むぞいという剛の者だと想うので、よければ、小説家になろうサイトにて、小説を載っけてますんで、筆名「がらんどう」で検索して見てやってください。