子どものことが気になりすぎるという認知の歪みに気づく。
子どもとはいえ他人である。
自分の影響の輪に集中しつつ、他人のことには、自分の影響の輪に属する範囲での関与にとどまる必要があるし、他人に関することは、おのずと影響力も成果も不安定かつ小さい。
そもそも他人の課題に自分の努力の成果を求めていることが間違いだ。
だから、子どもへの命令指示は無効だし、提案すら放っておくのとどちらが有益か、時期は適切か、判断すふ必要が高いので、慎重にするべき。
ほとんどの提案は、子どもからしたら、うるさい、今やろうとしていたし、いつも考えていたことなのに、指摘などされたくなかった、という残念な結果に終わることが多い。
では、自分は今後何ができるのか。55歳になり、自分の人生を輝かせるより子どもを輝かせて恩恵をこうむろうというケチな考えが深層になかったか。
それは子どもを苦しめるだけであるし、今すぐへし折ってゴミ箱にに捨てようと思う。
横尾忠則氏は言う。
画家は何々のために描くという大義名分や、それを描く目的などわざわざ持つ必要はない。
描きたいものを描けば絵は勝手に作者を導く。
ただ描いてみたいから描いた。
そしてそこには身体性が伴っていた。
主題はこちらから探し求めるものではなく、向こうからやってくるものである。そしてそのやってきたものをただ、身体的に受け止めればいいのである。
大袈裟にいえば、運命に従えばいいのだ。
自ら運命を求めて斬り込んで行くのではなく、向こうからやってきたものに従っていればそれでいいのだ、と思う。
私にもやってくるだろうか。これまでは世間の物差しでどう評価されるかを気にして仕事を選び、事務所をやってきた。
今後は、私自身の魂が求めることをやりたい。
それは基本的に好きで楽しい作業であり、それをすることで、フロー状態に入れて、生産的で、自尊心が保てて、成長できるものであるといい。それをコツコツと毎日やりたい。何か来たらそれを身体的に受け止める。横尾忠則氏のように。
子どもはその道程のついでに、自立して社会と協働して生きられる人間になればよい。なったらラッキーだが、ならなくても過度に落胆しない。
状況は、神頼みと本人任せで基本的にいいのだ、と思う。
子どものことを気にせず、自分もよくやってきたし子どももなんとかよくやっているし、今後も自分でなんとかするでしょう、と信頼しておく。
長女は年末年始に身体に良くないスナック菓子を食べすぎてニキビだらけ。
でも、それを指摘しても何も生まないじゃん。
じゃあ、自分や下の子のためも含めて野菜がちの料理を毎食提供することくらいしか自分にはできないし、人生においてやったことが何もかも成果を上げて報われるものではないと肝に銘じて、奏功すれば喜び、奏功したように見えなくても、とにかく料理や掃除、片付けなど有意義な活動をしたこと自体、自分を褒めて上機嫌で過ごそう。ニーチェのように!