市販古陶図録には2系統あって、(古)唐津は古陶のなかでも雄なるものの一つだーらどちらにも1巻としてある。

A中央公論社日本の陶磁シリーズ

 

 

B平凡社日本陶磁大系

 

 

優品として定評あるの(例;カバー)は収録するからダブるが、姿が別サイドからのことがある。また、どちらかにしか載ってないものもあるから、好きならば両方持っていていい。

それで両方にダブッている品の画像をみていると壺、花入、水指、茶入、茶碗、香炉、徳利、盃、片口、鉢は上下同じである。見込に上下の観念はないだろうし、側面観の上下は基本円筒形で開口部の方向が上であるからして取り違えようもない。

平たい皿、平向に見込上下真逆で画像が撮られているのがある。

①梅沢記念館蔵 ANo140絵唐津枝垂柳文大皿=BNo55葦文大皿

②ANo159絵唐津藤文四方皿=BNo65絵唐津沢瀉文四方皿

いずれも絵唐津でその絵の解釈の違いで上下違って置かれている。どちらがタダしいのだろうか。

①はA

ヤナギ属はよく分枝するが、アシの茎は分枝しない。

ヤナギ類はいろいろ日本に自生しているが、シダレヤナギは中国原産。奈良時代に日本に入り平安京では並木にされた。だーら桃山時代に下っては肥前でも普通に見られただろう。

②はB

×の連続はイグサ科、ホシクサ科、カヤツリグサ科、イネ科など単子葉類の低い草の葉で地(水)面を表す(従ってこっちが下)とおーう。唐津焼だけでなく美濃焼にも見られる。

日本民芸館蔵 ANo129絵唐津芦文壺=BNo8絵唐津草文壺

これは壺であるからそう思はなくても両者とも上下同じになるわけではあるが。

なお、アシの花はこの壺のように地面から独立に花穂は伸ばさない。他の何とも俄かに同定しがたいこともあり、この壺の文様はBの表現に止めたほうがいい。

藤は野田藤(フジ)だろうと山藤(ノフジ)だろうと葉は羽状複葉に対しオモダカの葉身はやじり形。羽状複葉の先端3小葉を表したというよりオモダカの葉とみるほうが素直だろう。

花序が総状は同じなので、ここまで花の形を省筆されては花からはどちらともいえない。

唐津にオモダカとみられるのは他にANo158絵唐津水草文小鉢、ANo195絵唐津水草文四方向付、ANo204絵唐津水草文四方向付=BNo69絵唐津沢瀉文平向付。

これらより

 

 

No160志野沢瀉文鉢見込が近い。

唐津と美濃に交流があったのは確実である。あるいは陶工に通用している画手本集があったのだろうか。

結果からいろいろ感懐をいだく。

専門家といってもその鑑賞能力はやきもの分野にあっては素人と大差ない。

鑑賞能力が素人同然なわけは自然、生物をじっくり眺めてみたことがないからだ。ツィミたちと同じく街中をウロチョロしてるだけなのだよ。見るのは人間、人工物、文字なのだが、そりさえ直接でなくパソコン、TVを通してが長い。まだわずかに残ってる自然を自分の眼で直接見れる通勤通学途上でもスマホザンマイ。

現代の陶芸家も似たようなもんだーらイケる新デザイン、絵柄が出てこない。あげく古品を模倣するが、オモダカをフジとかん違いして藤の感じを出そうと絵付けするならまだましでなんかの記号とみてるだけの恐れがある。魯山人は陶芸に師匠はいらぬ、自然を見よと言っている。近代巨匠のなかでほとんど唯一料理を盛れる新意匠の食器を創ったシトで実績の裏付けのある言なのだ。古陶を製造した陶工の時代にはパソコン、TV、スマホはない。自然を直接見て絵付けした。

もっとも陶磁なり唐津の絵付けが花鳥風月に限るわけではない。高層ビル街、電車にくるま、パソコンとか家電、背広やスカートの現代人を題材にしてもいいわけだ。んが、そうして懐石で出せる雅趣ある食器を創った天才はまだ見たことがない。

われわれはせめて皿を客に出すときは上下を取り違えないようにしたいものである。