余談ですが | Cogito ergo sum

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方法的懐疑から頭が離れない人のブログ
相変わらず変な記事多目なのはいつものごとく。

ゆる~くお願いしますゆるく。

過去の否認は有害な態度である。 現在と戦い、未来を創造するには、 往々にして過去が最も有効な武器なのである。― ジュリアン・グリーン

とても久しぶりのこっちの更新。

やりたいことやって、やりたくないこともやって、忙しさと楽しさとに消耗する毎日です。自分が、幸いにもこのようなことを言っていられるのは学生身分の特権ですかね。

 

友人との別れ際になんて声をかけて良いのか分からなくて「では」とか「じゃあまた」とかそんなことを言ってしまうのが、なんとも情けない話だなぁと。

例えば、彼女には少なくとも明日、明後日には会えるはずだーという余裕があるから、それを担保に「ばいばーい」なんて軽口叩けるわけです。それは、今の多くを共有する友人との間でもそうであるような。

 

ただ、そうでない友人が時間の経過に比例して増えてきて、なんか難しいなぁと。

それでも、ここ数年自分が感じてきた「取り残された感」が多少は薄れて、自分もまた離れている側の人間なんだなぁと実感すると凹むやら、そうでないやら。

 

僕の専門分野は所謂IT系であって、最近はICT分野なんていうふうに言ってる。かも(?)Information Communication Technologyの略。

多くの技術的進歩は常に、Communicationの欲求を満たそうとしてきた。時間を超えたCommunication。そうしたら、次は時間を共有できない寂しさに負けてリアルタイム性のあるCommunicationが欲しくなって、同じ時間空間を共有するSNSが台頭した。さらには、視覚的な共有も求めて映像メディアもリアルタイム性とドッキングして...次は何を共有するだろうか?

ただ、何を共有するにしても、恐らく共有するのはInformation、情報なんだろうと思う。情報はきっと人間のCommunicationの隙間を埋めることがこの先何があっても叶わないと思う。

同じ空間を共有すること なるいい加減で、曖昧で、くだらないことで僕らが共有するのはInformationなんかじゃなくて、加工もできない、無意味で、どうしようもないdataなのだから。

 

恐らく、久しい友人と会って話して、遊んで・・・その時間、空間の内で意味があることが5割、残りは無意味でうまく説明ができない何かであるはず。

ただ悔しいことにそれを否定する気になれないのが、私も1人の人間かぁという感じです。

とても、とても人が多いですね。

 

では!

 If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?