皆様は沿岸小型捕鯨というものをご存じでしょうか
映画「THE COVE」の影響でメディアでも大きく取り上げられるようになった太地のイルカ追い込み漁や、南氷洋で行われている母船式の調査捕鯨と比べると話題に上ることは少なく、ご存じでない方も多いと思います

そもそも、捕鯨というのは基地式と母船式の2種類あります(他に追い込みや突きん棒といった手法で小型鯨類を捕獲している地域も多くあります)
沿岸小型捕鯨は前者にあたり、我が国が南氷洋で行っている調査捕鯨は後者にあたります

この母船式の捕鯨を世界を見渡しても、もはや我が国でしか行われておらず、結果として調査捕鯨に従事している第3日新丸は世界で唯一の捕鯨母船となっています

この方式の場合は、キャッチャーボートと呼ばれる捕鯨船で鯨を捕えた後、母船へ引き渡し、そこで解体などの作業が行われます
これに対して、基地式の場合は鯨を甲板へ上げるか、舷側に括りつけて港の作業場へ水揚げを行います

また、商業捕鯨モラトリアムを受け入れるまでは、基地式であっても大型の鯨種を捕獲していた”大型沿岸捕鯨”と呼ばれるものも実施されていましたが、こちらは3社5隻と比較的小規模なものであり、商業捕鯨が中止されると同時に、3社とも捕鯨部門を解散させました

結果として、いま現在日本で行われている捕鯨は、母船式の調査捕鯨,沿岸小型捕鯨、それに捕鯨船を用いない(捕鯨砲を使わない)追い込み漁や突きん棒漁の3種類に大別することができます
この中で、母船式という捕鯨のスタイルを日本の文化だとする言説が、まかり通っていることに私は違和感を覚えます

この母船式の捕鯨というものは、明治に入ってから国策として規模の拡大が図られてきました
そして、捕鯨先進国であるノルウェーから購入してきた母船を伴って、日本が初めて南氷洋へ出漁したのは1934年のことです

「欧米は鯨油ばかり搾りとって鯨を有効活用しなかった」とよく言われますが、戦前の日本の南氷洋捕鯨も貴重な外貨獲得手段である鯨油の生産の比重が置かれていました(冷蔵・冷凍技術が未発達だったことも影響していると思います)

既に、この時には太地のように江戸時代から鯨組を組織して捕鯨を行っていた地域の出身者が捕鯨船へ乗り込んでいましたし、戦後の南氷洋捕鯨を支えたのも同じ様な人たちでした
ところが、こうした捕鯨は明治期に入ってから大資本の元で産業として育成されたため、古式捕鯨からの歴史の連続性が感じられず、伝統としての側面は皆無だといえます

分かりやすく小売業界で例えると、個人で経営していた伝統ある商店が、生き残りをかけてフランチャイズに加盟してコンビニへ生まれ変わるのと似ているかもしれません
日露戦争後に、和歌山や高知といった古式捕鯨が行われていた地域で、かつての関係者を含めて近代的な捕鯨を行う会社が設立されましたが、長くは続かず東洋捕鯨や林兼商店などの大会社へ吸収されます

ちょうど同じころ、1904年に太地で画期的な発明品が生まれます
それが5本の矢を備えた前田式捕鯨銃と呼ばれるもので、主にゴンドウ鯨を捕獲するために生まれました