平和な日々を満喫しましょう。
国破れて山河あったればこそ、今の日本がありますが、先が見えません!
敗戦(終戦)の文書は 1945(昭和20)年8月14日に発布されました。 同日、天皇は詔書を録音され、翌15日正午に、その内容はラジオ放送を通じて国民に報じられました。
私は当時、国民学校4年生の9歳(昭和11年生まれで現在88歳)
母がラジオの下に来なさいと、姉と私を招き寄せましたが、すでに父も祖母も正座をして待ち構えていました。
朝から流された当日のラジオ放送では、とても大事なお話があるという事でした。
その日は不思議なことに、日常的に飛来する大群のB29の空襲の爆音が全くしない、とても静かな日でした。
空腹のせいか、腹立たしい蝉の声だけやかましく、とても熱いお昼時でした。
ラジオに耳を傾けましたが、平坦で重々しい声だけが聞こえ、子供にはさっぱり理解できませんでした。
放送が終わっても、みんな黙り込んでいましたが、突然祖母が言いました。「天皇陛下様が、「忍び難きをしのび、耐えがたきを耐えよ」、と仰せになられたので、日本は戦争に負けました。と声を震わせて泣きました。
父母はただ黙り込んでいましたが、私はこれからどうなるのかと不安な気持ちになりました。
名古屋の矢場町の自宅は焼夷爆弾の不発弾が落下し、地中で爆発して家は焼失しました。近くの防空壕の中の人が大勢死んだということでした。
名古屋大空襲の前に祖父の故郷の三河安城の家に疎開していたので一家は助かりました。
当時は、毎日のように敵機の飛来情報(警戒警報)がラジオで流されていました。
当時の子供たちは「東海地区地区豆情報:とうかいちくちくまめじょうほう」などと茶化して敵機の飛来する様を、わざと軽視していました。
空からまかれる心理戦術の威嚇ビラやおもちゃ爆弾に、大人たちは、「絶対拾ってはならない」と子供たちにくぎを刺していましたが、私はビラを一枚拾いました。
そこには手錠をはめられた元帥級の軍人の両手に赤い血がしたたり落ちていて、「軍閥の手を握れ!」と書かれていました。子供ながらに「手を握れ!」は「手をつかんで手錠をかけろ!」という意味であることが判りました。
そのビラはその場で破って捨てました。子供ながらにバカ野郎と叫んでいました。おもちゃ爆弾は万年筆で、ねじると爆発するので危険です。戦争は何でもありですから怖いです。
戦後、米国に対する憎しみはなぜかきれいに消えていました。戦争を仕掛けた方が負けたわけだから仕方がないと思いました。
戦後の復興に私たちは真剣に頑張りました。日本の高度成長は私たちが成し遂げました。私は金融機関でどぶ板を踏みながら皮靴の底をすり減らすまで町中の家々を訪問しました。
高度成長期の日本人のアイデンティティーは、経済で世界を見返そうという大きな野望を掲げて邁進することでした。
最初は「銀シャリを喰って、三種の神器を買う事(電気洗濯機・冷蔵庫・電気掃除機)」。次はマイカーを持つこと。最後は、団地に入居して、家庭を持って子供を2~3人作ること」でした。このように明確に目標を定めていました。
現代は少子化で、日本は滅亡の危機に直面しています。もう手遅れの様ですが、これ、政治家だけの責任にしてはだめですよね。
それでは また!