今回は優里さんの「ビリミリオン」について話していこうと思います。


いろいろと「ひどい」と言われているみたいですが、全くそんなことはありません。
 

 

ではいきなり、歌詞を見ていきましょう。

まず出だし。

 

「老人が君に言いました」

 

ここには2つのポイントがあります。それは、「老人」と「君」です。老人は何者なのかというと、実は「神」です。MV(しかも終盤)でしか老人が神であることが分からないようになっています。これは、人生においては客観的に見れてやっと神だと(あの時の人はこういう意図があったんだ、こう思っていたんだと)気づくという所謂「答え合わせ」という意味でもあります。つまり、自分の選択や助言を俯瞰してみるのも重要ですよね。(老人は自分の心の中の「問い」だった)

 

次に「君」ですが、なぜ「彼」ではなく「君」にしたのでしょうか。これは、この曲を聴いている方々に直接訴えているという意味が込められています。物語としては、聴き手とは別の主人公が用意されていますが、この「君」は皆さんでもあるんだよ。ということですね。(もちろん優里さん自身の投影でもあると思ってます)

 

 

「『残りの寿命を買わせてよ 50年を50億で買おう』⼈⽣をやり直したいと」

 

併せて2番の歌詞も

 

「『それなら倍の100億出そう 奥さん, ⼦供もつけるから』『豪邸も仕事もつけるからさ』」

 

私は言いたいことがあります。ここで出てきた具体的な数字、つまり「50億」「100億」この数字、どこかで聞いたことがありませんか?
分かりやすいように、「50」と「100」にします。

 

そう。故事成語の「五十歩百歩」です。

意味としては、「大差はなく、どちらも似たり寄ったり」ですが、50と100、倍の違いがありますよね。なぜ倍の違いがあるのに大差はないことになるのでしょうか。
そこで、五十歩百歩の由来を簡単に解説します。

 

あるところに2人の兵士がいました。

その2人は他の多数の兵士と一緒に戦場へ戦いに命じられました。

戦いが激化していく中で2人は恐怖を感じ、敵の攻撃から逃れようとしました。

1人は後ろに50歩、もう1人は後ろに100歩退きました。

 

さて、どちらの兵士が戦争に行くのにふさわしいのか。はたまたふさわしくなくダメダメなのか。

多くの人は、50歩だけ退いた兵士の方が戦場にふさわしく(比較的)、100歩も退いた兵士の方がダメダメだと思いますよね。

でも実は違いました。

いや、そもそも逃げているじゃないかとなりました。

「お国のために自分の命を懸けて正々堂々戦うのが兵士としての努めだろう」

「2人はそれをしなかったのだから、どちらも兵士としての価値がない」

たとえ2倍の違いがあっても、マイナスになってしまえばすべて同じだろう

ということなんです。

 

これを歌詞に当てはめてみると、2倍の差があるのは、50億と100億ですよね。

つまり、この場合の50億円と100億円は50年の寿命に対しては、どちらも意味がないと言うことです。すなわち、人生の寿命は、お金で表すことのできる価値では全くないと言うことです。

 

「100億以上の価値があるでしょう」ここに注目してみると、「以上」という言葉が使われています。

一部の人は「以上ってその値を含むんだから100億の価値でもあるってこと?」と思ったかもしれません。

しかし実は、以上という言葉には基本的に2つの意味があります。

 

1つ目は数的な用法で「その数を含み、それより上」

これがよく知られています。

 

2つ目は「それを上回る範囲(の状態)」です。

例えば、「彼は想像以上に足が速かった」という文では「想像」を上回っている、「想像」の範囲を超えてという意味ですが、これは「想像という数を含んでいる」訳ではありませんよね。意味が通じないので1つ目の用法とは意味が違います。

「それ以上でもそれ以下でもない」という言葉も2つ目の用法で、1つ目の意味しか知らない人が、「それ以上でもそれ以下でもないって答えがないじゃないか(数学的に成り立たない)」と間違えているのもたまに聞きますよね。

 

つまり、50億以上、100億以上の価値があると言うことは、50億、100億の範囲を超えているわけです。さらに、50億と100億はここでは五十歩百歩なので、同じです。

50億と100億が同じということは、150億でも、1000億でも、1兆になろうとも、寿命を売ることはできません。

 

このことからも、人生の寿命はお金の価値では表せないと言うことを表現しているのでしょう。

 

 

 

 

「ただ起きて⾷って働いて 寝て起きて働く毎⽇だ それなのに⼿放したくない 理由を考えてみたよ」

 

老人に売ってくれと言われて、すぐに「寿命を売るのは嫌だ」と考えています。しかし理由はその時点で纏まっていません。なぜでしょうか。

「働く」が2回含まれていますよね(形は違いますが)。

毎日の生活が繰り返されているという意味で、1回だけ同じものを入れているのですが、なぜ「働く」なのでしょうか。

恐らく、「50億円というお金の価値に葛藤している」のではないでしょうか。

 

自分が年を取ったとしても、働かなくてもいい、お金で賄えるのでは?と

「寿命とお金(労働の対価)の価値を同じものとして考えてしまっていた」

のではないでしょうか。

だから、次のフレーズで、寿命を売る(年を取る)ことの悪いところを「お金の価値とは別」にして挙げているのではないでしょうか。

 

 

 

「⾝体も痛くなるだろうし 友達もいなくなるんだろうな 恋愛もできなくなるよな」

 

ここの部分は、老人をバカにしている感じがして嫌だという方もいると思いますが、一切バカになんてしていません

ここでは、自分の中に僅かに残っている「売ってもいいかも」という思いを完全に消し去るために、寿命を売る(年を取る)ことに対して、今までの生活が急にこうなってしまうかもしれないと予想しているだけです。(うまくいくかもしれないけど、最悪の場合を恐れている)

 

「老人=友達がいない」というわけではなく、「今の寿命があって若い僕を知っているみんなが、僕が寿命の残り短い老人になったことを知ったら、僕を愛してくれるだろうか。寿命でお金を買うなんて真似を友達(恋人)は許してくれるだろうか」という感情を表したのでしょう。

実際にあなたの友達が「50億もらった。代わりに70歳になったけどね」とやってきたらどう思いますか?

私の場合は別に人の価値観を否定するようなことはしませんが、本当にそれでよかったのか心配になります。

皆さんの中には「もう会わないようにしよう」とか、逆に「50億もってるんだから一生食わしてもらおう」と考える人もいるかもしれません。そこまで加味して「売ってもいいな」という考えを、積極的に捨てているというわけです。

 

人は急に年を取りませんから、この部分を「老人=友達がいない」と解釈するのは大きな誤りです

 

「⾝体も痛くなるだろうし」「恋愛もできなくなるよな」もこの延長上にあると思います。

 

 

「⽣きているだけでまるもうけ これ以上何が欲しいというの」

 

 

「生きているだけでまるもうけ」

この言葉はお笑い芸人の明石家さんまさんの座右の銘とされている言葉です。

 

高校生の頃の生徒指導の体育の先生が何回か言っていたことを覚えています。

 

「これ以上何が欲しいというの」

これは「反語」というもので、「何が欲しいというのか。いや、何もほしくない」という意味です。反語にすることで、より必要ないと言うことが表されています。

 

 

 

ここで皆さん、「生きているだけでまるもうけなのに、なぜ最後に頑張ろう・頑張れと言うのか」と思ったのではないでしょうか。

 

それは後で話します。

 

 

 

「⽼⼈が君に⾔いました『それなら倍の100億出そう奥さん, ⼦供もつけるから』『豪邸も仕事もつけるからさ』」

 

 

「奥さん, ⼦供もつけるから」「豪邸も仕事もつけるからさ」

ここで老人は、お金ではないもの出してきました。

お金の価値と寿命の価値を分けて考える事の出来た自分に対し、それならば……と試すように「奥さん」「子供」「豪邸」「仕事」を提示しています。

 

しかし考えました。「奥さんと子供」これは恋愛の「結果」です。もちろんこれからも奥さんと子供を愛し続けることも十分できますが……それまでの課程、自分か経験したこと、一目惚れ、町でたまにすれ違う人、だったりを完全に無視しています。

人生は最後まで途切れないものなのに、50年間が勝手に、自分以外の何者かに操作されているような気もしてしまう。

だから、「でも好きな⼈は⾃分でさ⾒つけたいからいらないよ」と一生続く人生をしっかり「自分」で決めたいと、お金の価値だけでなく「自分が生きる人生の課程」という価値を見つけ出せたのです。

 

 

「50年が100億ならば 年収2億の⼤富豪だ」

 

 

ここ、おかしくないですか?

 

もし最初20歳だとしたら、70歳になるわけですよね。あまり寿命を決めてしまうのもどうかとは思いますが、100歳まで生きれるとしても、残りは30年しかない訳です。

 

時間を売ったのではなく、寿命を売ってるわけですから、売ってしまった寿命は年収の計算に入れられないのではないでしょうか。

 

それって、年収3.33億ということか。となってしまいます。

むしろ、秒給、瞬給100億ではないか。

 

そもそも、寿命を売らなかったとしても、70まで生きれるのかという問題がありますが、それはとりあえず考えずに。70になってからいつ寿命が来るのかわかりません。

 

と言うことは、この場合、年収は計算できないことになってしまいます。

 

じゃあなぜ100億÷50年を計算したのか?

 

↓それは

 

寿命を売らなかった場合の年収2億と比較しているからでは

 

これも先ほどと一緒で、寿命を売ることの良いところを書き出しています。しかし、もう売らない場合の新しい価値を見つけているのに、なぜ売る場合の良いところを書いているのかとなります。

それは……逆説を用いることで寿命を売ることをより否定したいからです。

 

例えば、皆さんは次の文章を読んで、どちらが好印象でしょうか。

 

「私は人にやさしく接することが出来ます。しかし、勉強ができません」

「私は勉強ができません。しかし、人にやさしく接することが出来ます」

 

後者の方が印象が良かったのではないでしょうか。

 

反対に、前者は比較的悪いイメージだったのではないでしょうか。

 

このように「しかし」の前にマイナスなことを書き、後にプラスなことを書くと、利点が欠点に被さって、印象が良くなります。

 

逆に、「しかし」の前にプラスなことを書き、後にマイナスなことを書いたら、欠点が利点に被さって、印象が悪くなります。

 

つまり「年収2億の大富豪になれます。しかし、自分が思う恋愛もできないし、友達も離れていくかもだし、体も痛くなるかも。寿命を売るのは、そんなダメダメな選択なんだよ」「年収2億だと言っている時点で、もう売る気はさらさらないよ」と強調させているということです。

 

めちゃめちゃ深いな。

 

 

「どんな夢を描いてもいい どんな恋をしたっていい 無限⼤の可能性は 誰にも譲れない」

 

 

「無限大の可能性」つまり「どんな夢を描くか」「どんな恋をするか」ということは、誰からも邪魔される義理はない、不干渉なこと。つまり特定の価値(お金など)に囚われることなく、自分の個性・やりたいことは自分自身で考えて、自分自身で責任をもってやっていくんだ。(やってもいいんだよ)

ということで、今までに踏み出せなかったような新しい人生の道が開いた感じがします。

 

 

「何⼗回⽴ち⽌まっても それでも僕を諦めない 僕が⽣きる理由は 僕が決めるから」

 

自分のしたいこと、したかったことが挫折、出来なくなるときがありますよね。

でも、それば自分の希望なんでしょう?やりたかったことなんでしょう?

ただの挫折からは何も生まれません。挫折した後にまた何回も、何十回も努力して、成功につなげる。そうすることで初めて「挫折はいい『失敗』」だったと思えるのです。

 

「それでも僕を諦めない」

僕「は」ではなく、僕「を」になっています。

自分が自分を諦めてしまう=やりたかったことを捨てる=自分の価値を失ってしまう

だから自分の価値を失わないように、諦めてはダメなんです。

 

「僕のことは僕が決める」ということはすなわち「自由」です。

皆さんは「自由」と聞くとなんでも無制限にしていいように思えるかもしれませんが、実は自由という言葉には「責任」を取らなければならない。という意味が含まれています。

新幹線に「自由席」ありますよね。あれは「あなたの席は決まってませんから、どの座席にでもお座りしただけます。しかし、どんな人が隣に来るかわかりません。満席で座れないかもしれません。その場合、自分で責任を取らなければなりません。その責任が取れないのなら指定席を予約してください。指定席ならその責任は私たちが負います。自由席では負いません。それでもあなたは自由席にしますか?」

 

ということです。

(細かいところは間違っているかも)

 

だから

 

「頑張ろう 頑張ろう 頑張れ 頑張ろう 頑張ろう 頑張れ 頑張ろう 頑張ろう 頑張れ 頑張ろう 頑張ろう 頑張れ」

 

「あなたは自由にしたいことをしてもいいんです!

でも責任が必ず発生するから、その責任をとれるように、頑張ろう。頑張れ。頑張りながらやっていこう!」

というように、頑張ってほしい、頑張ってと必死に呼びかけてるんです。

 

時に責任は重くのしかかることがありますから「あの時寿命を売ってしまった方が、責任を取らなくてもよかったのに。」となることだってあるでしょう。

しかし、自分で生きる理由は自分自身で決めたほうが断然生きがいを持てると思います。

そんな意味での「頑張れ」、そんな意味での「生きているだけでまるもうけ」なのです。

 

 

「僕らが⽣きる時間は 決して安いものじゃないから 後悔しない選択を選んで欲しいの」

 

僕「ら」になってますね。主人公アリ、自分アリ、友達アリ、恋人アリ、自身と関わる全ての人が生きる時間ですね。

 

後悔しない選択を選んで「欲しい」の

ここは「お願い」になっています。優里さん自身、何か選択を間違えてしまい、ずっと後悔し続けているのでしょうか。

詳細はわかりませんが、実際に人が体験したことには説得力があるので

(優里さんが)「僕はとある選択を間違えてしまって、ずっと後悔し続けているけど、みんなとの時間は決して他の価値(お金など)なんかで到底売れるものじゃないから、君は後悔しない選択を選んでください。後悔する選択に向かってしまわないよう、後悔しない選択でも挫けてしまわないよう、みんな頑張って生きてゆこう。頑張ろう。」

 

という最後の願いと思いが感じられました。

 

いい曲だ......(ノД`)シクシク

 

 

 

優里さんの曲は、1番2番ごとではなく、メロディーが変わってところでも歌詞(情景)がガラッと変わる特徴があって、頭の中の回想シーンにいるような。そんな感じがしますよね。

(ドライフラワーがまさにそう)

(逆にそれで一貫性がない、繫がりが分からないと感じる人もいるとは思います。私は好きですけどね)

 

もし「ここ間違ってる」などの意見などありましたら積極的にコメントしてください。皆さんの考えも聞きたいので(≧▽≦)

 

いろいろ書いてみましたが、私もまだ19歳で、人生経験も全然ありません。

私もこの曲に救われるときが来るのでしょうか。

 

 

それではまた。