こんにちは(^-^)
かなり久しぶりのブログですが、全国の自分のライバルである、兼任ではなく専任でしているヘアカラーのスペシャリストたちがバトン式に「なぜヘアカラーリストになったのか」をブログで書いておりまして、自分にもお声がかかりましたので、ご協力させて頂きたいと思います。
長いと読むのが大変かと思いますので、なにかとはしょって書きますね。
(結果長くなると思いますが…。)
まず、自分は中高の学生時代に福岡県筑紫野市のオシャレな男性が通うヘアサロン「HASE」で髪を切っていました。
ある日、そこでヘアショーのチケットを貰いまして、夏休みでしたので見に行きました。
すると、カットしているトップスタイリストたちが超絶カッコよくて、そこで影響され「自分もハサミを持ってステージに出る‼」と決意しました。
とりあえず、チケットを貰ったHASEに直接入りたいことを伝えて、入社試験を受けて高校卒業後にインターンとして入社しました。
入社後に分かったことですが、チケットを貰ったHASEと、ショーをしていたアージュが別サロンだということを知りました。
HASEに入社して2週間経ったとき、訳あって数日間期間を決めて、アージュで働くことになりました。
サロンに行くと、そこにはヘアショーでカットをしていたトップスタイリストたちがお客様をカットをしていました。
嬉しくて何を勘違いしたのか、勝手にアージュのロゴ入りのTシャツを自分で作り、それを着てサロンに立っていました。
そしてHASEに戻らないといけないのを駄々をこねて戻らずに、勝手に居続けて、そのまま18年以上が経ちました…。
(社長の長谷からは、本気か冗談か「俺はお前を入れた覚えがない」と今だに言われます笑)。
ここで本題の「カラーリストになった理由」ですが、答えは『社長の長谷から「カラーリストにならないか?」と言われたから』です。
というのも、自分はヘアカラーリストになった理由より、ヘアカラーリストでい続けている理由の方が大切だと思っています。
当時、自分の一つ上にヘアカラーリストの先輩がいました。
アージュはオープンした23年前から、長谷が「これからはヘアカラーの時代が来る」と考えていました。
そして、ヘアカラーリストが形になってきたタイミングで自分に声がかかりました。
正直、当時10代で社会や美容のことは長谷の言うことが全てだったのですが、最初は長谷の言った本当の意図や意味が全く解っておらず「先生が言うんだからなっておこう。さっさとヘアカラーリストになって、その後ハサミを持てばいいか…」くらいに軽く考えていました。
しかし、実際にやってみると『ヘアカラーオンリーのデザイナー、ヘアカラーのスペシャリスト』というのは、お客様からの期待度がメチャクチャ高かったんです。
今もそうですが、ヘアカラーブームだった90年後期は特に、お客様からの「次はどうするの?新しいヘアカラーは何?」といった『ヘアカラーオンリーのデザイナーだからできるヘアカラー』へのニーズがスゴかったんです。
お客様は月一回いらっしゃるので、毎月ニーズに応えなくてはいけません。
そこで、ある答えが出ました。
『ヘアカラーは片手間でできるようなことじゃない‼』
それから自分はハサミを持たない美容師になることを決意しました。
カラーリストあるある、たまに聞かれるのですが、「カットしたくならない?」の答え。
自分でカットをするより、もっと良いフォルムを作ってくれるアージュのスタイリストがカットした髪型に色を入れたくなります。
余談ですが、久留米店に居たときの話。
毎年、JHCAでヘアカラーの全国大会があるのですが、久留米店は年中無休でカラーリストは二名しかいませんでした。
どちらかがサロンに残り、コンテストエントリーは一名しかできません。
2005年のコンテストの時に、自分がサロンに残り、後輩がコンテストに出ることになりました。
すると、後輩が全国グランプリを取ってきました(今では有名になってますが、佐藤愛子です)。
おめでとうの気持ちとは裏腹に「悔しい‼」と思ってました。
その気持ちが糧となり、翌年は自分がグランプリを取ることができました。
そして、更に翌年の2007年に、コンテストが二部門(今は三部門)になり、自分は新しい部門にエントリーしました。
このタイミングで、先輩のカラーリストの方が退社をし、自分がカラーリストのリーダーになりました。
アージュとしては三連覇がかかった大会。
何としても自分が取らなくては‼
リーダーが変わって弱くなったと言われないために‼
そして、表彰式。
まさかの3位で自分の名前が呼ばれました…。
終った…、と思ったその時、グランプリ発表で、アージュの中村真央の名前が呼ばれました‼
何と三連覇‼
そして、2009年には持木奈保子がグランプリ。
この時、自分の周りには、こんなにすごい後輩がいるんだと気付きました。
こんなにすごい後輩たちも、いつもカラーで迷ったら自分に相談してくれます。
長谷も失敗だらけの自分に、いつもチャンスと、チームとして超えなくてはいけないことを与えてくれます。
自分自信だけが先輩を超えるのではなく、全員で以前の自分たちより強いチームを創ろう‼
でも、仲間がこれで良いのか悩んでいる時に自分が「大丈夫だよ」と言えば、皆が安心して自信を持てるようなリーダーでいようと思いました。
不思議なもので、当時、「ハサミを持ってステージ出る」と決意した少年は、今はハサミを持たずにステージに出続けています…

ヘアメイクアージュ
ヘアカラーリスト
牟田 恭英
かなり久しぶりのブログですが、全国の自分のライバルである、兼任ではなく専任でしているヘアカラーのスペシャリストたちがバトン式に「なぜヘアカラーリストになったのか」をブログで書いておりまして、自分にもお声がかかりましたので、ご協力させて頂きたいと思います。
長いと読むのが大変かと思いますので、なにかとはしょって書きますね。
まず、自分は中高の学生時代に福岡県筑紫野市のオシャレな男性が通うヘアサロン「HASE」で髪を切っていました。
ある日、そこでヘアショーのチケットを貰いまして、夏休みでしたので見に行きました。
すると、カットしているトップスタイリストたちが超絶カッコよくて、そこで影響され「自分もハサミを持ってステージに出る‼」と決意しました。
とりあえず、チケットを貰ったHASEに直接入りたいことを伝えて、入社試験を受けて高校卒業後にインターンとして入社しました。
入社後に分かったことですが、チケットを貰ったHASEと、ショーをしていたアージュが別サロンだということを知りました。
HASEに入社して2週間経ったとき、訳あって数日間期間を決めて、アージュで働くことになりました。
サロンに行くと、そこにはヘアショーでカットをしていたトップスタイリストたちがお客様をカットをしていました。
嬉しくて何を勘違いしたのか、勝手にアージュのロゴ入りのTシャツを自分で作り、それを着てサロンに立っていました。
そしてHASEに戻らないといけないのを駄々をこねて戻らずに、勝手に居続けて、そのまま18年以上が経ちました…。
(社長の長谷からは、本気か冗談か「俺はお前を入れた覚えがない」と今だに言われます笑)。
ここで本題の「カラーリストになった理由」ですが、答えは『社長の長谷から「カラーリストにならないか?」と言われたから』です。
というのも、自分はヘアカラーリストになった理由より、ヘアカラーリストでい続けている理由の方が大切だと思っています。
当時、自分の一つ上にヘアカラーリストの先輩がいました。
アージュはオープンした23年前から、長谷が「これからはヘアカラーの時代が来る」と考えていました。
そして、ヘアカラーリストが形になってきたタイミングで自分に声がかかりました。
正直、当時10代で社会や美容のことは長谷の言うことが全てだったのですが、最初は長谷の言った本当の意図や意味が全く解っておらず「先生が言うんだからなっておこう。さっさとヘアカラーリストになって、その後ハサミを持てばいいか…」くらいに軽く考えていました。
しかし、実際にやってみると『ヘアカラーオンリーのデザイナー、ヘアカラーのスペシャリスト』というのは、お客様からの期待度がメチャクチャ高かったんです。
今もそうですが、ヘアカラーブームだった90年後期は特に、お客様からの「次はどうするの?新しいヘアカラーは何?」といった『ヘアカラーオンリーのデザイナーだからできるヘアカラー』へのニーズがスゴかったんです。
お客様は月一回いらっしゃるので、毎月ニーズに応えなくてはいけません。
そこで、ある答えが出ました。
『ヘアカラーは片手間でできるようなことじゃない‼』
それから自分はハサミを持たない美容師になることを決意しました。
カラーリストあるある、たまに聞かれるのですが、「カットしたくならない?」の答え。
自分でカットをするより、もっと良いフォルムを作ってくれるアージュのスタイリストがカットした髪型に色を入れたくなります。
余談ですが、久留米店に居たときの話。
毎年、JHCAでヘアカラーの全国大会があるのですが、久留米店は年中無休でカラーリストは二名しかいませんでした。
どちらかがサロンに残り、コンテストエントリーは一名しかできません。
2005年のコンテストの時に、自分がサロンに残り、後輩がコンテストに出ることになりました。
すると、後輩が全国グランプリを取ってきました(今では有名になってますが、佐藤愛子です)。
おめでとうの気持ちとは裏腹に「悔しい‼」と思ってました。
その気持ちが糧となり、翌年は自分がグランプリを取ることができました。
そして、更に翌年の2007年に、コンテストが二部門(今は三部門)になり、自分は新しい部門にエントリーしました。
このタイミングで、先輩のカラーリストの方が退社をし、自分がカラーリストのリーダーになりました。
アージュとしては三連覇がかかった大会。
何としても自分が取らなくては‼
リーダーが変わって弱くなったと言われないために‼
そして、表彰式。
まさかの3位で自分の名前が呼ばれました…。
終った…、と思ったその時、グランプリ発表で、アージュの中村真央の名前が呼ばれました‼
何と三連覇‼
そして、2009年には持木奈保子がグランプリ。
この時、自分の周りには、こんなにすごい後輩がいるんだと気付きました。
こんなにすごい後輩たちも、いつもカラーで迷ったら自分に相談してくれます。
長谷も失敗だらけの自分に、いつもチャンスと、チームとして超えなくてはいけないことを与えてくれます。
自分自信だけが先輩を超えるのではなく、全員で以前の自分たちより強いチームを創ろう‼
でも、仲間がこれで良いのか悩んでいる時に自分が「大丈夫だよ」と言えば、皆が安心して自信を持てるようなリーダーでいようと思いました。
不思議なもので、当時、「ハサミを持ってステージ出る」と決意した少年は、今はハサミを持たずにステージに出続けています…

ヘアメイクアージュ
ヘアカラーリスト
牟田 恭英








